絶対的な約束
一日をこれほど長く感じたことはかつてない。
サルバドルは一昨日と同じ場所、月明りの差し込む窓際でひたすら待った。
ロベルタがいつ来るのかも、本当に来るのかも定かではないのにひたすら待った。
今夜来なければ明日も、明後日もそうするだろう。
あまりにも滑稽だと自虐しながら、やめることはできなかった。
一日がこれほど早く過ぎたことはかつてない。
ロベルタは仕立てたばかりの衣装を身に纏い、手早く身だしなみを確かめた。
傀儡の人海戦術を駆使しようと、格式の備わった服を一日で仕立てるなど無謀の極み。
だがロベルタはやり遂げた。じりじりとした焦燥に追われながらも諦めなかった。
その成果を確認し、どこにも瑕疵がないと確信すると、ロベルタはすぐさまサルバドルの元へ跳んだ。
「やはり、来たか」
ロベルタを迎えたのは、微かに震えるサルバドルの声だった。
対人経験の非常に乏しいロベルタであっても、サルバドルの周囲に漂う緊張感は読み取れる。だが原因がわからない。
思えば前回に引き続き今回も事前の約束なしで訪れている。それが気に障ったのだろうか。
それとも前回目の前で人を殺したことがまずかったのか。あるいは黒魔法使いだから警戒されているのか。どちらもあり得ることだ。
もしやこの衣装が場に相応しくないと呆れられているのかも知れない。もしそうならどうすればいいのか。
ロベルタの内心など想像もできないサルバドルは、緊張しながらもごく常識的な対応を取った。
「先日は名乗る暇もなかったな。知っているとは思うが私はサルバドル=デ=ファニアだ。改めて、助けてくれたことに感謝する」
「勿体ないお言葉です。ロベルタ=デ=レアルと申します」
そう答えながら優雅に礼をするロベルタ。一昨日よりましではあるが、内心は歓喜の嵐だ。先ほどまでの心配は遥か彼方へと飛び去っていた。
「まずはそこに掛けよ。今宵は長い話になろう」
サルバドルは部屋の一角にある応接用のスペースにロベルタを促す。
「失礼いたします」
答えつつ、ロベルタは勧められた席に着いた。まだ心臓は踊り回っているが、表面的な落ち着きは崩れていない。
一方でサルバドルは少し緊張感が解れている。特異な立場にあるとはいえ王族であることには変わりないのだ。社交に対する慣れはロベルタの比ではなかった。
席についたサルバドルは緑魔術を使って二人の周囲の音を遮断する。手慣れた様子であることから、使用頻度が高いのであろう。これでこの場の会話が周囲に聞こえる心配はない。
準備が整うと、サルバドルはロベルタと向き合う。このころにはロベルタもやっと心を落ち着かせることができていた。
「さっそくで悪いが聞きたいことが山のようにある。答えてもらえるだろうか」
「もちろんでございます」
「郊外の火災の件だが、其方がやったのか?」
サルバドルの声に咎めるような様子はない。なのでロベルタは素直に答えた。
「はい」
「目的は暗殺の首謀者をあの魔法で知るためか?」
「はい」
「あの屋敷に生き残りはいるか?」
「いえ」
「それは其方の情報を漏らさぬためか?」
「はい」
サルバドルの問いに対して、ロベルタの返答は簡潔だ。そこに罪悪感や悲壮感は感じられない。
そのことに対して大いに疑問を感じつつも、サルバドルは事件に関する質問を続けた。
「……では首謀者の名は判明したのか?」
「はい。マルコス=デ=シスネロス子爵でございました」
「そう、か……」
考え込むサルバドル。やや迷うようなそぶりを見せたあと、ゆっくりと口を開く。
「後ろ暗い噂のある人物ではあるが……私の記憶違いでなければ、其方の祖父ではないか?」
「はい」
「ならば……これ以上の背後関係は探れぬか」
「いえ」
またしてもロベルタが簡潔に答える。ロベルタから見てマルコスにはなんの特別性もないのだから当然だ。
もちろんそのことを知らないサルバドルは常識的に導かれた質問をする。
「それは何か他に情報を得る手段があるということか?」
「いえ、同じ方法でございます」
「なに? 其方の祖父だぞ、構わぬのか?」
「二度目ですので」
「何が二度目だというのだ?」
「祖父殺しがです」
ロベルタは常識からかけ離れた返答を淡々と返す。やはりそこにはなんの感情も読み取れない。
「な! ……つまり其方、先代のレアル男爵を殺したと申すのか」
「はい」
咄嗟に咎める言葉が口をついて出そうになるが、何とか抑えた。ロベルタの事情も知らずに責めるべきではないと考えたからだ。
「……前後の事情を……いや、其方の生い立ちを聞かせてくれぬか。どうも思ったより複雑そうだ」
「長くなりますが」
「構わぬ。其方が辛くなければ聞かせてくれ」
「はい」
促されるまま、ぽつぽつとロベルタは己の過去を話し始めた。
あまり自覚していなかったが、ロベルタは長く話すのが苦手だった。厳密には、長く話すことに慣れていなかった。
祖父にせよ教師達にせよ、ロベルタに必要最低限の発言しか許さなかったからだ。
とはいえ呪文の詠唱や教養としての詩の朗読などはできる。だから口を使うのが苦手なのではない。長い文章を組み立てるのが苦手なのだ。
そのためロベルタが物心ついてから先日サルバドルとまみえるまでを語り終えるのに、かなりの時間がかかった。
「以上でございます」
ロベルタが語り終えたとき、サルバドルは左手で顔を覆って俯いていた。そのまま低く呻くように呟く。
「言ったはずだ」
「はい?」
「辛くなければ聞かせてくれと」
「はい、仰いました」
「今の話を語るのが辛くなかったと申すのか」
ゆっくりと顔を上げたサルバドルは年齢に見合わぬ冷静さが剝がれ落ちていた。そこにいるのは世の不条理に憤り、少女の悲惨な境遇に涙するただの少年だ。
「それとも今の話ですら霞むような、もっと辛い秘密でもあると申すのか」
「いえ。全て申しあげました」
「わからぬ。それで何故そなたはこうも落ち着いていられるのだ。悲しくはないのか。悔しくはないのか」
「わかりません」
「……わからぬ、とは?」
「悲しみや悔しさという感情が、わかりません」
「っ!」
サルバドルは右の拳を握り、己の膝に叩きつける。身の内を荒れ狂う激情を抑えこむにはそれしかなかった。
目尻に留まっていた雫が崩れ、滴る。それはロベルタが今まで触れた事のない感情だった。
「申し訳ございません」
「何故謝る」
「ご不快でしたのでしょう?」
「其方が不快だったわけではない。謝るな。謝ってはならぬ」
断言するサルバドルの声に、徐々に力がこもる。荒れ狂う感情が出口を求め、声に宿った。
「そうだ、其方は謝ってはならぬ。其方は何も悪くない。其方を責める者は私が許さぬ。許すものか!」
サルバドルの口から抑えた叫びが漏れる。内心の憤激がこもったのか、吐息が熱い。
「私とて随分と理不尽な環境に生まれたと思っていたが、其方に比べればなんというほどのこともない。まさか私が誰かのためにこれほど腹を立てることがあるとは思ってもみなんだ」
サルバドルの口から零れる思いに、ロベルタはただ戸惑う。思ってもみなかったのはロベルタも同様だ。誰かが自分のためにこれほどまでに怒りを燃やしてくれるなど、想像したこともない。
「ロベルタよ。いくつか確認したい」
「はい」
「其方は何か、やりたいことや欲しいもの、なりたいものはあるか?」
「貴方様にお仕えしとうございます」
その返答が内包するロベルタの歪みを感じ取り、サルバドルの中にある決意が固められていく。
「其方は先ほど祖父であるシスネロス子爵を殺すと言った。それは其方の父、レアル男爵であればどうだ」
「同じことです」
「其方の母や兄であればどうだ」
「変わりません」
次の質問が最後。この質問は発するだけで罪になる。ロベルタの信条次第では即座に殺されるだろう。だが、避けては通れない。自分の為にも、ロベルタの為にも。
「……では、国王陛下であればどうだ」
「それが我が主の命ならば」
揺るがぬ視線でロベルタが応える。この瞬間、サルバドルの中で何かが壊れ、何かが固まった。
「よく、わかった」
サルバドルは立ち上がり、部屋の中央にある執務机からひと振りの短剣を鞘ごと取り出した。見事な装飾を施された短剣は、見るからに由緒ある品だ。
短剣を手にしたサルバドルは、ロベルタに歩み寄ると柔らかく手を取って立つように促した。
ロベルタの瞳を覗き込むように向かい合い、己の内心を隠すことなく語り始める。
「正直に言おう。私は先ほどまで其方を利用するつもりだった。私が自由を得るために」
「本望でございます」
「だが其方の話を聞いて気が変わった。それだけでは駄目だと」
「……?」
サルバドルの表情には先ほどまでの緊張も、悲しみも、怒りも無かった。そこにあったのは、笑み。
「其方は私と似ている。私が自由を得るならば、其方も得なければ私は納得いかぬ」
不敵で、不遜で、不退転の笑み。
ロベルタはその笑みに強く惹かれた。その笑みの先にある未来に心を掴まれたのだ。
「そうだ、私は納得がいかぬ。私と其方が、世にいる多くのあらかじめ奪われた者達が、奪われたままでいることに納得がいかぬ。到底許容できぬ。気に入らぬ」
それは少年らしい我儘に過ぎない。だが確かに少女の魂の奥底を揺さぶった。
「私はディバド教が気に入らぬ。ファニア王国も気に入らぬ。我らを否定する者ども全てが気に入らぬ。我らの安住の地となる国を作らねばもはや納得がいかぬ」
それは少年らしい無謀に過ぎない。だが確かに少女に道を示した。
「私と共に考え、私と共に歩み、私と共に国を掴め。ただ私に従うのではなく、名実共に我が半身となれ」
それは少年らしい横暴に過ぎない。だが確かに少女のあり方を変えた。
「ロベルタ。ロベルタ=デ=レアル。共に掴み取るぞ、我らの国を」
言葉と共に差し出された短剣を、ロベルタは恭しく捧げ持つ。それは少年と少女を固く結ぶ、誓いの証だった。
「……はい。必ずや」
月明りが二人を静かに照らす夜。誰も知らない王と魔法使いが誓いを交わしたのだった。
なおこの時ロベルタが賜った短剣が、実はサルバドルの母の形見であったと知れるのは、ずっと先の話である。
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