第10話「お昼寝日和」
この子の寝息を、私はもう何百回と聞いてきた。
辺境に来て七ヶ月。窓の布を少しだけずらして、昼の光を薄く入れる。ユリウスは寝台の上で布人形を右手に握り、左手に積み木を一つ持ったまま、穏やかに眠っていた。呼吸は深く、安定している。肩の力は抜けて、唇がわずかに開いている。
私はいつものように保育日誌を開いた。午睡の開始時刻を書き込む。今日も同じ時間帯。この子の体内の時計は、もう狂わない。
宮廷裁判所から正式な認定書が届いたのは、三日前だった。
マルタさんが領主館で受け取り、私のところに持ってきた。国王の承認印が押された書類。ユリウス・フォン・レーヴェンハルト第三王子の正式養育者として、リーネ・フォーゲルを認定する、という内容だった。
養育届を出してから半年以上が経過している。王国養育法の条件は満たされていた。王族の子であっても、養育者の同意なしに引き離すことはできない。それが法であり、今は私の権利だった。
書類をテーブルの引き出しにしまったとき、指先が震えたのを覚えている。元伯爵家の三女で、無爵位で、持参金の返還すらなかった私が、王族の子の正式養育者になった。あの方が「不要だ」と切り捨てた私の手が、この国の結界を支える子供を守っている。
けれど、そんなことはどうでもよかった。大事なのは、この子が安心して眠れていることだった。
ユリウスの寝息が少しだけ変わった。寝返りを打つ前の兆候。私は日誌の筆を止めて、寝台のそばに戻った。ユリウスが体を少し動かし、布人形を握り直した。それだけで、また深い眠りに戻った。
この子の眠りが、結界を安定させている。ヴァイスさんが残した二冊の帳面のデータが証明していた。この子が安心して午睡するたびに、王都の結界出力計の針は安定した位置を指す。ヘルムートの操作がなくなった今、その安定はもう妨害されない。
窓の外から、子供の声が聞こえた。トーマくんだ。
「ゆーくん、起きたら遊ぼうね」
小声で言っているつもりなのだろうが、トーマくんの小声は普通の声量と変わらない。私は窓越しに手を振って、もう少し静かに、と口の形で伝えた。トーマくんが大げさに口を押さえて、雑貨屋のほうに走っていった。
午後の遅い時間に、ユリウスが目を覚ました。
目をこすりながら、私のほうに手を伸ばす。その動きが、七ヶ月前とは全く違っていた。手を伸ばす方向が正確で、指が私の指を掴む力が安定している。
「おはよう。よく眠れたね」
「りーね」
ユリウスが私の名前を呼んだ。まだ発音は不明瞭だけれど、音の並びは私の名前だった。この子が初めてこの名前を口にしたのは二ヶ月ほど前のことで、今ではほぼ毎日、起きるたびに言う。
「はい。ここにいるよ」
ユリウスを抱き上げて、戸口の外に出た。午後の日差しが柔らかく、この子の目を細めさせたが、暴走の兆しはない。光の中に出ることを、この子はもう怖がらなかった。
トーマくんが雑貨屋の前から走ってきた。
「ユリウス、起きた。ねえ、積み木持ってきていい? 外で遊ぼうよ」
ユリウスが私の腕の中からトーマくんの顔を見た。怯えはない。小さな手が、トーマくんのほうに伸びた。
私はユリウスを地面に下ろした。この子が自分の足で、トーマくんのそばまで歩いていく。七ヶ月前、部屋の中を歩くのがやっとだったこの子が。
トーマくんがユリウスの手を取り、雑貨屋の軒先の日陰に座った。積み木を並べ始める。ユリウスが一つ握り、もう一つの上に載せた。安定している。七つ目まで積めるようになっていた。
二人の姿を見ながら、私は戸口に寄りかかった。この光景を守ることが、私の仕事だった。
夕方近くになって、集落の道に馬の音が聞こえた。
一頭だけの、ゆっくりとした足取り。私の胸が少しだけ跳ねた。
セドリックさんだった。
灰色の外套は同じ。けれど、計測機器を持っていなかった。手帳も持っていなかった。馬を集落の入り口に繋ぎ、何も持たずに歩いてきた。
「リーネ」
呼ばれた名前に、「嬢」がついていなかった。
「セドリックさん」
私も、気がつけばそう呼んでいた。ヴァイスさんでも、調査官殿でもなく。
セドリックさんは戸口の前で立ち止まった。少しだけ息を整えてから、口を開いた。
「調査ではなく来ました」
その一言を、この人が口にするまでにどれほどの時間がかかったのだろう。調査令状を口実にして辺境に来た日から、ずっと。結界のデータを理由にして通い続けた日々から、ずっと。
「入ってください」
セドリックさんが敷居をまたいだ。ユリウスが戸口の音に振り返り、トーマくんの隣から立ち上がった。小さな足で歩いてきて、セドリックさんの膝に手をかけた。
「せど」
ユリウスが言った。名前の途中まで。けれど、それで十分だった。セドリックさんの目が赤くなった。しゃがみ込んで、ユリウスの頭にそっと手を置いた。
「元気か」
いつもの言葉。けれど、声が震えていた。
トーマくんが雑貨屋の軒先から叫んだ。
「あのおじさん、今日は機械持ってないよ。仕事じゃないんでしょ」
私は少しだけ笑った。自分から笑ったのは、辺境に来て初めてだった。
マルタさんが夕方に来た。
いつもの腕組み。いつものぶっきらぼうな声。けれど今日は、少しだけ声が柔らかかった。
「正式な認定書、届いたんだってね」
「はい。マルタさんのおかげです」
「あたしは養育届を受理しただけさ。あの子の生活を作ったのはあんただよ」
マルタさんは戸口の外から部屋の中を覗いた。ユリウスがセドリックさんの隣で積み木を積んでいる。セドリックさんが不慣れな手つきで積み木を渡している。
「あんたの仕事は、最初からちゃんと仕事だったんだよ」
マルタさんの声は静かだった。
「誰かの当たり前を支えてきた手は、ちゃんと見ている人がいるもんさ」
私は何も言えなかった。目頭が熱くなった。
マルタさんは手を振って帰っていった。振り返らなかった。この人はいつもそうだ。言うべきことだけ言って、背筋を伸ばして去っていく。
夜。ユリウスを寝台に寝かせた後、セドリックさんと戸口の外に出た。
秋の夜風が冷たかった。蝋燭の光が戸口の隙間から漏れている。
「処分の件は、どうなりましたか」
「ユリウスの保護に関する功績と相殺という形で、訓戒処分になりました。職務違反の記録は残りますが、調査官の職は継続できます」
「そうですか」
セドリックさんは少し黙った。それから、辺境の暗い空を見上げた。
「リーネ。この先、ユリウスの王位継承の問題が動き出します。宮廷からの要請も増えるでしょう。あなたの立場は今までとは違うものになる」
「わかっています」
「一人で抱え込まないでください」
その言葉に、私は少しだけ間を置いた。一人で抱え込むこと。自分を後回しにすること。それが当たり前だった。前の人生でも、今の人生でも。けれど。
「一人で抱え込むつもりはありません。この子を守るのは私ですが、一緒に守ってくれる人がいることを、もう知っていますから」
セドリックさんが私を見た。暗がりの中でも、目が赤くなっているのがわかった。
「来てもいいですか。これからも」
「来てください。調査でなくても」
風が吹いた。冷たかったけれど、不思議と寒くはなかった。
部屋に戻ると、ユリウスが布人形を握ったまま、深く眠っていた。寝息が穏やかで、規則的だった。この子が安心して眠れる場所を、七ヶ月かけて作った。光の加減を調べ、声のかけ方を試し、生活のリズムを一日ずつ積み上げた。
それが私の仕事だった。誰かに不要だと言われた仕事だった。けれど、この手がこの子を支えてきたことを、私が一番よく知っている。
ユリウスの寝顔に、蝋燭の光がちらちらと揺れている。
穏やかな昼寝の延長のような夜だった。嵐の後の静けさの中で、この子の寝息だけが、変わらずにここにあった。
(完)
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