第21話 井伊の未亡人
第21話 井伊の未亡人
その夜は結局、ナイフ様の口を色で塞いでやり過ごした。
しかしもう誤魔化しきれないだろう。
井伊の未亡人はその子供たちや井伊家家臣団だけでなく、ナイフ様まで後押ししている。
そして俺自身も彼女に恋し、愛している。
俺もそろそろ心を決めねばなるまい、島津と同じにならぬうちに。
「…なあ、又七郎」
まず最初に俺は又七郎に相談した。
そうでもしないと、又七郎が泣いたりして見ていられない事になる。
珍しく休みの前夜、寝る前だった。
「何ね、いーさん」
「今…ナイフ様から結婚を勧められているんだが、俺はとても困っている」
「そうじゃっどなあ…いーさん四十やし、そん歳で独り身はおかしか」
「出来れば断りたいのだが、相手の女はナイフ様までが後押ししている」
「…井伊ん未亡人ん事じゃっどね?」
又七郎はぷいと横を向いて言った。
知っているのか。
「ごめん…」
「良か、結婚ばしっせえ井伊ん家に入りよったら良か。
ナイフさあん娘ならわっぜ有利んなっと、こん先ん出世も夢やなかでね。
いーさんは名あが『直政』じゃから、井伊との縁組みで井伊直政んなっとね。
お笑いじゃっどね…井伊ん家でいーさんは井伊直政んなったら良かと!」
井伊直政になれと、そう嫌味を言われても仕方ない。
こうなるのはわかっていた、だからずっと悩んでいた。
「すまない又七郎、わかってくれ…」
「おいも武家んもん、武家ん結婚がどげんもんかくらい知っちょっ。
政略ん結婚がどげん事か、こんおいが一番知っちょっ…じゃどん辛かと。
いーさん、又七郎は辛かと…わっぜ辛かと、わっぜわっぜ辛かと…!」
又七郎は敷き布団の上に伏せて、しくしくと泣き出した。
やはり泣かれてしまったか…。
そんな又七郎の震える影が胸を突き刺すようで、俺も辛かった。
又七郎に泣かれるのが俺は一番辛い。
俺は泣く又七郎を抱き起こして、そのままただ抱きしめた。
言葉はもう見つからなかった。
又七郎は一晩中泣いていた。
彼の身体からはこの夜も雨が匂っていた。
俺も出来ればその話は断りたい。
井伊直政なんてごめんだ、死んだ人の影に苛まれて一生を送るのは嫌だ。
結婚となれば娶っても婿に入っても、死んだ人との板挟みになる、
俺も辛いが、それ以上に井伊の未亡人にとって辛い事となるだろう。
だがナイフ様の懇願が命令とならぬうちに決めねば…。
「結婚にございますか、冷たいお魚さん」
「はい…ナイフ様がしきりにそうお勧めしておられるので。
俺としては出来ればお断りしたく思っているのですが…」
迷った結果、井伊の家を訪ね未亡人本人に相談してみる事にした。
井伊の未亡人もその話が出るのをわかっていたのだろう、至極冷静だ。
「結婚となれば、花様は必ずや亡くなった方との板挟みになりまする。
そんな苦しい思いを花様にさせてまで、結婚などとても考えられませぬ」
「まあ、そんな今さら…私はもう十分苦しんでいるのに」
井伊の未亡人は俺の背中に覆い被さり、赤い肌に走る古い傷跡を唇で撫でた。
…その傷は若かった頃に麻薬の取り引きで揉めて、ナイフで斬られた跡だ。
彼女の唇は別の傷をも撫でて、そっと開いた。
あの傷は嫉妬に狂った昔の女に刺された跡だ…。
「…亡くなった主人は美しい人でした、私は主人を愛しました、とても…とても。
美しい夫への愛は次第に嫉妬へと変わっていきました。
いくら愛しても愛しても、私の愛は届く事のないひとり相撲で、
主人は上司の娘である私を、まるで義務のように抱くだけでした…今だからわかるのです」
俺は身体をひねって前を向き、井伊の未亡人を抱き寄せた。
美しいのは涙を流すあなたの方だ。
歳を取って、愛の苦しみを知り尽くしたあなたは美しい。
「直政殿、あなたが主人を…直政を殺して現われ、私は大変苦しみました。
愛する人を奪われた憎しみ、井伊の夫人としての倫理、あなたに魅かれる女としての私…」
「花様、俺はあなたを苦しめるだけの男か」
俺は不安で彼女の顔を覗き込んだ。
彼女だけが俺を「直政」と名前で呼ぶ、そのたびに俺は不安になる。
あなたは一体誰の事を呼んでいるのか、誰を愛しているのか。
井伊の未亡人は手を伸ばして俺の背中にしがみつき、脚を脚に絡めた。
「いいえ直政殿…あなたは冷たい、魚のように感情を見せない人。
でもあなただけが私を心から愛してくれた、だから私もあなたを心から愛します。
結婚はあなたがお決めください、私はいかようにも必ずお応えします故…」
井伊の未亡人はそう言ってくれたが、それでは何の解決にもならない。
「花様、そなたを愛しているだけでなく、一緒には暮らしたいと俺も思っている。
しかしそなたを嫁に娶るのも、俺が井伊の家に婿入りするのもどうかと思う。
ナイフ様の懇願が命令とならぬうち、どうにか決めたいのだが…」
「…そうですね、確かにおっしゃる通り、お家の問題もありますね。
未亡人が再婚して嫁入りするのはともかく、井伊の家に婿を迎えるとそれはややこしい。
それこそ新しい家でも作る事が出来れば良いのですが…」
新しい家、井伊の未亡人の言葉に俺ははっとした。
「新しい家、それです! 花様、新しい家を作りましょう!」
「はい…!」
「花様の子供たちも、井伊の家臣団も、火狐も、又七郎もみんなで」
「はい! 吉富の家も井伊の家も新設の家、新しい家同士が新しい家を作る…、
これ以上の事はございません、さっそく皆に相談しなくては…!」
甘い時間は吹き飛んでしまった。
井伊の未亡人は家中の者を集め、さっそくこの事を相談した。
井伊の者たちに異論はなく、新しい家の設立に喜んで賛成してくれた。
花様が部屋に戻ってから、井伊の家臣らは言った。
「ここにいる私たち家臣団は、古くから井伊の家に仕えてきた者なのですが、
直孝様付きの新しい家臣団と、我々旧家臣団とは対立関係にあります。
直孝様は側室の子で花様とはなさぬ仲、新しい家臣団はナイフ様よりの派遣…。
直孝様がこの家の直勝様を退けて、当主に立たれるのは時間の問題にございまする。
我々もいずれこの家を追われる運命、ならば新しい家の設立に参加致しとうございます」
「井伊の家とは名ばかり、もはや井伊の家にござりませぬ。
我々の手で新しい家を作りとうございまする」
なんと、井伊の家にそんな事情があったとは…。
ナイフ様は井伊の家の後継に、本妻の長男である直勝様ではなく、
側室の子である直孝様を推しているのか。
確か前にそのような事を言っていたな、あれはこの事だったのか。
「いずれ追われる運命なら…私と花様とお子たちと、皆で一緒に新しい家を作りませぬか。
私はそなたたち井伊家旧家臣団を、決してなかった事になど致しませぬ。
直勝様も、井伊家旧家臣団も…私の家族として、笑い者になど決してさせぬ。
そなたたちが政治の、歴史の表舞台から消える事など決してない、
妨げはこの私が全て排除して、決して決して許しませぬ…!」
井伊の家臣団は涙を流していた。
そして俺は初めて出会った時のように、また彼らに囲まれもみくちゃにされた。
それが彼らの祝福だった。




