第19話 網中からの眺望
第19話 網中からの眺望
驚いたことに、俺たちの迎えにも関わらず又七郎は帰らないと言う。
「なぜだ又七郎」
「いーさん…」
又七郎は泣きそうな顔で立ち尽くす俺を見た。
「いーさんも、みんなも傷だらけじゃっどね…おいがためん。
おいがためんみんな戦うたとか、おいが島津ん家んもんだから」
「細けえ事はいいんだよ、又七郎!」
「うんにゃ…おいは帰れん、島津ば潰らかしっせえ、完全に潰らかしっせえ、
おいが身の上ばきちんとせんと、そいまでおいは徳川には帰れん…!」
そう言う又七郎の手で、島津の殿様の首が血を垂らしていた。
「又七郎、お前…」
「ここんおっとは又七郎やなか! 島津又七郎豊久…誰よりも島津ば憎むもん!」
又七郎は奥へと引っ込んで行った。
敵の残党が来る、俺たちもここは退くしかなかった。
「戦国の大名てのはな、いーさん…結構かわいそうなもんなんだよ」
城から少し離れた林の中で、井伊の家臣のひとりが言った。
「まず自由はないし、気に染まぬ相手と結婚もせねばならぬ。
うちの殿も上司の姫を与えられて、気苦労が絶えなかったから…。
戦だってたとえ行きたくなくとも、忠義を立てて命を張らねばならぬ」
「又七郎はかわいそうか?」
「島津の分家の殿様となれば、井伊の殿以上かと。
井伊の家は伝統ある島津の家と違い、新設の家だったからまだ…」
又七郎が島津を嫌うのは、島津が又七郎の自由を奪うから。
島津の家を潰したいのは、又七郎が又七郎であるため。
徳川に、吉富家に帰れないのは、島津の影を断ち切りたいから。
影がある限り、島津は攻撃をやめないから…。
又七郎は俺たちを巻き込みたくないのだ。
「…皆ご苦労だった、宿に帰って休むがよい」
俺は火狐の者たちを宿に返して、自分も宿に戻った。
身体を清めいつもの格好に着替えて、氷嚢の中身を取り替えた。
ここでは徳川の家のように氷がないので、冷たい井戸水を詰めていた。
そして忍んで宿を抜け出した。
物陰に隠れながら、島津の城へと戻る。
もう夜明け近かった、空が白み始めている。
戻った島津の城は静まり返っていた。
あちこちに血まみれの死体が転がっている。
俺は死体を乗り越えて本丸へと進んだ。
又七郎がいたのはあのあたりか。
俺は閉じられた障子を見つめた。
すると別のところの障子がすうと開き、又七郎が現われた。
「いーさん…まだおっとか」
俺は真顔でじっと又七郎の顔を覗き込んだ。
「迎えに来たぞ、お姫様…島津の網の中からの眺めはどうだ、あまりいいもんじゃないだろう」
「じゃどん…いーさん、おいは帰らんち…」
又七郎が反論しようとした。
俺はそれを遮った。
「ひとりで背負うな、又七郎。誓いを忘れたのか?
俺は指に誓った、上司として部下のお前を一生守ると。
お前を失いたくない、だからお前とだけは決して寝ないと」
「いーさん…」
又七郎の目が揺れる。
「ひとりで背負うな又七郎、俺も一緒に背負うから。
俺たちは徳川家側用人御庭番『火狐』、お前の運命は俺の運命。
お前の苦しみは俺の苦しみ、お前の悲しみは俺の悲しみ、
お前の背負う島津の影を俺にも分けて欲しい、俺も一緒に共有したいから」
「一緒にて、いーさん…!」
俺は近づいて、又七郎の血に汚れた手を取った。
又七郎は涙をこぼしながら、指の欠損した俺の左手を自分の頬に寄せた。
「いーさん、いーさん…!」
「帰ろう又七郎、徳川の御庭の…吉富家へ」
又七郎は言葉を絶し、声をあげて泣いた。
「…いーさん、単騎駆けは危ないと申し上げたはず」
「お前ら…!」
「伏兵『火狐』参上! いーさんのやりそうな事はお見通しにございます」
振り返ると、火狐の連中が勢揃いしていた。
思えば火狐もおかしな構成だな。
徳川、島津、井伊、三つの家が家と家の垣根を越えて集まっている。
「そうだな…俺たちは『火狐』、いろんな家の集まりだな。
いろんな家の訳ありが集まった、『火狐』という家なのだな」
…井上の家のように。
井上の家だって、社会からはみ出した者の集まりだ。
今俺がやっている事は元の世界もこの世界も同じ。
俺は火狐を立派な家に育て上げられるだろうか。
「ところでお前ら何しに来た?」
「あ、そうでした…あの、九州のやつらが怒っています」
「は?」
「いやさ…いーさん、九州のやつらが島津を討伐しようとしてたところを、
いーさんと我ら火狐が襲ってしまったではないか、それで抜け駆けしたとか何とか。
抜け駆けはだめですよ、だめ過ぎます…うちの殿みたいな悪い前例がありますから!」
井伊の家臣は亡くなった人を「抜け駆けの悪い前例」と表現した。
悪い前例て…さあな、どんな前例だか。
「知らんね…しかし九州のやつらをどうするか」
「いーさん、おいにおまかせじゃっど!」
又七郎が涙を拭いて発言した。
「おいたちは百人もおらん、どげんしてん真っ正面からぶつかっちゅうんはまずかと。
誘導、包囲、挟撃…もちろん事前に工作しっせえ、兵力ば削っせえ」
「島津の戦法か…関ヶ原で見たぞ」
「どう頑張っても又七郎殿は島津だな、ばりばりの」
火狐たちは呆れ返った。
俺も彼らに呆れた。
「…と言うか、そもそもお前ら戦うつもりなのか」
「もちろんじゃっどね!」
「井伊の赤備えをなめるな!」
「我ら御庭番火狐の名にかけて!」
そこへ人の足音が聞こえた。
一人ではない、相当の大勢だ。
島津の応援か? それとも九州のやつらがここに来たのか?
俺たちはそれぞれ武器を構えた。
「何者!」
■「網中からの眺望 」ネットスケープ。現在のタブブラウジングの礎を築いた。
動作が若干重いが、ホームページ作成ソフトも兼ねていた。




