第1話 私の机に食い込む、その可憐で不埒な果実について
潮見雫。
それが私の本名だ。
けれど、この私立百合ヶ丘高校において、私の名前を正しく呼んでくれる奇特な知り合いは一人もいない。
誰も彼もが、私のことをこう呼ぶ。
——『ジメ子』、と。
理由は単純極まりない。
肩のあたりまで中途半端に伸びた紺藍色の髪は、湿気を含んでいつももぞもぞと不格好に跳ねている。
おまけに目の下には、コンシーラーでは到底隠しきれないほどにドス黒く不健康なクマが年中無休で刻まれている。
猫背で、サイズの合っていない大きめの制服のブレザーをダボッと羽織り、教室の隅でじっと息を潜めている姿は、なるほどどこからどう見ても『じめじめした陰キャのジメ子』そのものだった。
(ですが……、これには海より深く、そしてちょっぴりハレンチな理由があるのです!)
私はそっと手元の教科書に視線を落とす。
正確には、教科書に挟み込んだノートの切れ端だ。そこには、脳内のシステムが弾き出した、私にとっての『絶対的な生命線』が浮かび上がっていた。
【現在の蓄積リビドー:35%】
そう、これだ。
この忌々しくも愛おしいパーセンテージこそが、私のすべて。
私は、現代にひっそりと生き残る【サキュバス】だった。
サキュバス。
それは淫魔。
他者の性的なエネルギー、すなわちリビドーを糧とする悪魔。
だが、漫画やアニメのように華やかに「男の人」を誘惑して夜の街を飛び回るなんて、そんな大それた真似は私にはできない。
なぜなら、この世界には悪魔の天敵である『天使』が存在しているからだ。
もしも私がサキュバスの力を解放し、街に魔力を撒き散らそうものなら――
高潔な天使たちにその気配を嗅ぎつけられ、問答無用で聖なる光の中に消滅させられてしまう。
(まあ――私には、男に対する興味など一ミリもないのですが……)
それでも天使は容赦しないだろう。
生き延びるための条件はただ一つ。
リビドーゲージが上昇し、100パーセントを超えて『完全体』として強制覚醒するのを防ぐこと。
だから私は普段、隠密能力に特化した魔力の衣を身に纏い、自らの気配を極限まで殺している。
そして、ゲージが溜まってきたら、夜な夜な自室のベッドの中で、誰にも言えないこまめな『自家発電』に興じることで、パーセンテージを必死に削り落としながら生きているのだ。
(本当なら、毎日を0%のセーフティゾーンで過ごしたいのです。ですが、ここは多感な女子高生たちが密集する、お花畑のような乙女の学園。ただ生きているだけで、あちこちから上質なリビドーの種が飛んでくるのです……!)
そう、例えば、まさに『今』この瞬間のように。
キーンコーンカーンコーン、と昼休みの始まりを告げる予鈴が鳴り響く。
私の座る教室の最底辺席——
窓際の一番後ろの机に、それは突如として襲来した。
「ねえ千代、ウチさー、マジで今月のバイト代ヤバいんだけどぉ」
「莉愛、また服買いすぎたんでしょ。少しは計画性持ちなよ」
香水の甘い匂いと、じゃらじゃらとした派手なアクセサリーの音。
いじめっ子ギャル軍団のボスである軽井沢莉愛が、私の机の横にドカッと腰掛けた。
いや、腰掛けたのではない。
彼女は私の机の端に、そのプリンとした、豊満で、どうしようもなく不埒な『お尻』を、無自覚に押し当てて友達と喋り始めたのだ。
短いスカートから伸びる、ルーズソックスに包まれた細い足。
そして何より、薄い制服の布地越しに、私の机の角へみっちりと食い込んでいる、莉愛のハニーゴールドの髪に負けないほど華やかなお尻の肉。
ドクン、と私の心臓が大きく跳ねた。
【現在の蓄積リビドー:42%】
(ひゃんっ!? 上がった、一気に7パーセントも上がってしまいました!)
私は慌てて教科書に目を移した。
見てはいけない。
目の毒にもほどがある。あんな肉の塊を凝視していたら、私のリビドーはあっという間に限界を迎えてしまう。
だが、サキュバスの悲しい本能が、私の眼球を執拗に固定する。
莉愛が楽しそうに笑うたび、その振動が机を伝って私の指先にまで届く。
机の角に押し付けられたお尻の肉が、むにぃ、と形を変える。
その圧倒的な弾力感。柔らかさ。女の子の、それも現役のピチピチしたギャルのお尻という特級の果実が、私のすぐ目の前にあるのだ。
(だ、ダメです……! 落ち着くのです私! 素数を数えるのです! 2、3、5、7……あああ、でも莉愛さんのお尻、すごく柔らかそうです! 触りたい、あのスリットに指を挟み込んで揉みしだきたいですーーっ!!)
【現在の蓄積リビドー:55%】
ゲージの上昇が止まらない。
前髪の奥で、私の瞳が怪しく紫色に明滅しそうになる。必死に歯を食いしばり、机を掴む手に力を込める。
しかし、私のその異常な硬直ぶりに、莉愛の隣にいたお団子ヘアのギャル、高橋千代が気づいてしまった。
「ねえ、さっきからジメ子ちゃんが莉愛のお尻、穴が開くほど見てるよ?」
「はえ? なになにー?」
もう一人のボブヘアのギャル、野沢ノン子が、おでこを出した顔をのんびりと覗き込んでくる。
その言葉に、莉愛が「は?」と声を漏らし、私の机からお尻を離してこちらを振り返った。
派手なメイクで縁取られた、気が強そうな瞳が私を値踏みするように見下ろす。
「えっ? マジで? なんかさっきから妙な視線を感じると思ったら……」
クラスの視線が、一瞬にして私に集まる。
完全なパニック状態に陥った私は、挙動不審の極みのような動きで両手を振り回した。
「ご、御免なさいっ! おいしそうなお尻が机に思いっきり食い込んでいたので、つい、その、視線が吸い寄せられてしまいまして……!」
口を突いて出たのは、弁明ではなくセクハラを告白する言葉だった。
教室が一瞬の静寂に包まれ、次の瞬間、千代とノン子が手を叩いて爆笑した。
「あははははっ! 何言ってんの、ジメ子ちゃん」
「……ついじゃねーよ! キモいんだよジメ子!」
友達二人は楽しそうだが、セクハラされた当事者の莉愛は顔を真っ赤にして怒鳴る。
威嚇する小型犬のようで可愛いが、その怒気は本物だ。
「ギャハハ! ウケる! ねえ莉愛、ジメ子ちゃん、実は莉愛のこと好きなんじゃないのー?」
千代がお腹を抱えて笑い転げる。
ノン子も「お、熱烈な告白~、付き合ってあげなよー」と、のんびりとした調子で追随する。
「ウチがこんなジメジメした奴と付き合うわけないじゃん! 冗談でもキモいからやめてよ!」
フン、と鼻を鳴らして腕を組む莉愛。
目の前でギャルが怒っている。
ここで「すみません、すみません」と平身低頭に謝り、嵐が過ぎ去るのを待つのが『ジメ子』の正しい処世術だ。
だが、女子高生の瑞々しいお尻を前に、脳内に妙なアドレナリンが分泌されていた私は、焦りのあまり最悪のカウンターをブチかましてしまった。
「あっ、いえ! それは結構です! 軽井沢さんは、その、私の好みとは全然違いますから! なんと言いますか……軽井沢さんのお尻は、その、見た目は素敵なのですが、なんだかすごく『くさそう♡』ですし! 何しろギャルですからね!」
静まり返る教室。
千代の笑い声がピタリと止まり、ノン子が咥えていたお菓子の手が止まった。
私はそれに気づかずにしゃべり続けた。
「あっ、でも、それはそれでありだと思いますよ。でも、なんと言いますか、私の好みとは違うというか、正反対というか――」
莉愛の顔が、怒りと羞恥で引き攣っていく。
「はあっ……!? さっきからお前、ウチを値踏みしてんじゃねーよ! つーか、ウチのお尻は臭くねーし! 毎日ちゃんと綺麗に洗ってるし、いい匂いのボディソープ使ってんだけど!!」
「ぎゃははははは!! 臭そうって言われてやんの! 莉愛どんまい!」
「莉愛のお尻の匂い、ジメ子ちゃんに全否定されちゃったね~」
千代とノン子が再び大爆笑し、莉愛のプライドは完全にズタズタになった。
莉愛は私の机に両手を叩きつけ、顔を至近距離まで近づけて凄んできた。
「お前マジで許さねえ……。じゃあ、誰が好きなの、誰なら満足なわけ!?」
ヒィッ、と悲鳴を上げそうになりながら、私は脳裏に浮かんだ『唯一のオアシス』の名前を口にした。
「わ、私の好みですか……? それは、我が校が誇る、品行方正で清純な生徒会長、天ヶ瀬清子様です……っ! 会長様なら、きっとお尻も軽井沢さんとは違い、気高く清廉な匂いがするはずです……!」
「……。……。……はぁ?」
莉愛の目が、完全に据わった。
彼女はニヤリと、悪魔のような(サキュバスの私よりよっぽど悪魔らしい)冷酷な笑みを浮かべ、私の胸ぐらを掴み上げた。
「ふざけんなてめー。実際に嗅いでみなくちゃ、ウチと会長のどっちが清廉かなんて分からねーだろーが」
「え……?」
「お前、放課後――会長のところ行って、スカートめくって匂い嗅いで来い。ウチらが見張っててやるからさ」
「そ、そんなっ! そんなことをしたら、清子様に嫌われてしまうじゃないですか! 犯罪です!」
「やかましい! 逃げたら明日の朝、お前の教科書全部裏庭の池に沈めるからな。放課後、生徒会長のところに行くぞ!」
キーンコーンカーンコーン、と非情にも授業開始のチャイムが鳴り響く。
莉愛は私の胸ぐらを乱暴に離すと、髪をハタハタと揺らしながら自分の席へと戻っていった。
後に残されたのは、絶望に打ち震える一匹の地味子。
【現在の蓄積リビドー:60%】
(ど、どうしましょう……! 憧れの生徒会長のスカートをめくるなんて、そんな破廉恥なミッション、よわよわでジメジメな私にできるわけがありません……!)
私は震える手で前髪を抑え、迫り来る放課後の恐怖に、小さく悲鳴を上げるのだった。




