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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
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野々村部屋三人衆の友沼部屋周遊記 その1

「え~っ! 牛肉食べちゃいけないの~っ?」

 到着した野々村部屋の三人が板の間へ通されると、そこにはすでに夕飯の支度が準備万端、整えられていた。

 この日のメニューはすき焼きで、大皿の上に山と盛られた牛肉を見た一番の兄弟子である(ひしめき)が、「野々村部屋では牛肉は禁じられているので」と申し訳ない顔で告げると、それを聞いた友沼部屋の一同が驚きの声を上げたのだった。

「牛肉が駄目だって、どういうことだ?」

 目を皿のようにして驚く友沼親方に、「いや、実は……」と言いづらそうにしながらも犇は、訥々(とつとつ)とその事情を説明し始めた。

 野々村親方は学生の頃にインドへ一人旅に行った経験があり、そこで一人のインド人女性と親しくなった。それが今の野々村親方の妻であり、女将さんであった。

 日本人はよく無宗教だと言われるが、親方は次第に熱心なヒンドゥー教の信者である奥さんの影響を受けるようになっていき、ことに牛を神聖視する聖牛崇拝の思想には傾倒し、弟子の四股名にも牛にまつわるものをつけさせるようになった。そしてついには牛肉を食べるなど言語道断ということにまでになり、以来、野々村部屋の食事には、牛肉は一切使用されなくなったのだという。

「だけど牛肉なんて、身体の大きな力士が最も好むような食材じゃないか。それを禁止にされちゃあ、お前たちもたまらんだろ?」

「いやあ、そうでもないですよ。慣れてしまえばどうってことないです。お前らもそうだろ?」

「は、はいっ! もちろんそうッス!」

 急に振られて虚勢を張るように答えた(うしとら)に対し、涎を垂らさんばかりの顔で山と盛られた牛肉の大皿を見つめていた丑満(うしみつ)は、「え、ええ……、そうですね……」と、どこか上の空の口調でそう答えた。

「丑満関、すごいっ! 自分なんか、牛肉が食べられなかったら、一週間ともたずに部屋から逃げ出してますよ」

 隣に座った日の出山が、親しげに丑満の肩に手を置きながら感心したように言う。

「いやあ……、それほどでも……」

「ホント、牛肉食べられなかったら、力士やってる意味がない、というか、人間やってる意味がないですよー」

 と、調子にのった増田男がまたいつもの増田男節を炸裂させて三人の苦笑を誘ったところで友沼親方が声を掛ける。

「でも俺は、牛肉が駄目だなんて、野々村親方からは一言も聞いてないぞ。たまには外で旨い牛肉でも食ってこいっていう、親心なんじゃないか? せっかく用意したこの地方特産のブランド牛なんだ。今日ぐらいは食べていっても良いんじゃないか?」

「そ、それもそうですよね……。せっかく用意して頂いたんだし……」と丑満は、お伺いを立てるように兄弟子である犇の顔色を見ながら、「それじゃあ、お言葉に甘えて――」と続けようとした。

「俺は食べないぞ!」

 友沼親方に(ほだ)されそうになった丑満の言葉を遮るように、犇がキッパリと言い放つ。

「俺は、野々村部屋の力士で、野々村親方には恩義もある。その親方の教えに逆らうようなことはできないし、裏切るわけにはいかない。だから俺は、牛肉は食べない」

「お……、俺だって、同じです。親方には恩義がある。牛肉は食べません」

 犇の言葉に艮も続き、お前はどうなんだというように二人に睨まれた丑満に、もはや逆らえるだけの気概はなく、垂れそうになった涎を飲み込むようにして声を絞り出した。

「自分も……、食べません……」

 その丑満の言葉を待ち、犇は友沼親方に向き直った。

「聞いた通りです、親方。俺たち三人は、申し訳ないのですが、牛肉は食べません」

「それじゃあ、あなたたち三人は、申し訳ないけれど、こっちのお肉で我慢してくれる。近所のスーパーで買った、安い豚肉に過ぎないけれど」

 事情を聞いていた女将が、別の皿に盛られていたお肉を、朗らかに笑いながら差し出した。

「はっ、ありがとうございます。俺たちは、それで十分です」

「それじゃみんな、席に着いたかな?」

 牛肉の一件が落着し、友沼親方が一同を見回す。

 現在、友沼部屋には千大王、土佐武蔵、日の出山、増田男、将威(まさい)、平和の六人の力士と、この春から床山に転身した床沼の、全部で七人の者が所属している。相撲部屋としてはかなりの少人数な所帯ということもあり、ちゃんこの席には親方と女将も同席するようにしている。この日はそれに加えて野々村部屋の三人が同席し、総勢十二名での夕食となった。

「それじゃあ――」

「ちょっと待って下さい!」

 そう始めようとする友沼親方の言葉を遮るように、板の間にだみ声が響き渡った。そのあまりの大音声だいおんじょうに、フライング気味に身を乗り出していた友沼部屋一番の食いしん坊である日の出山の握っていた箸がするりと滑り落ち、板の間に乾いた音を立てた。

「その前に一言、謝らせて下さい」

 煮えたぎるすき焼き鍋を目の前に、立ち上がったのは、艮だった。この世の不幸を全て背負ったかのような、そのあまりにも神妙な顔つきに、その場が一瞬、シーンと静まり返る。しかしそこにはもはや、熱い熱いと雄叫びを上げながら、グツグツと美味しそうな肉汁を染み出させ煮えていく、大量投入されてしまったブランド牛の、待ったなしの香しい匂いがモクモクと立ちこめていく。

「謝る……? 何をだ?」

 親方でさえ、ここに至って何をするんだというように、少し面倒くさそうな早口になった。

「あの日の……、千大王関の、祝賀会でのことです」

「ああ……、あんな――」

 昔のことかと言いかけた親方が、慌てて口を(つぐ)む。だがその場の空気を読むことを知らない間の悪い男である艮は、生真面目な顔で千大王の方へ身体を向けた。

「あの日はお前の……、千大王関の、大事な祝賀会が、俺のせいでぶち壊しになってしまった。本当に申し訳ありませんでしたっ!」

 艮は九十度に身体を折り、深々と頭を下げた。

「そんな、ぶち壊しだなんて、そんなことありませんから……。それにこっちだって、あの増田男君との対戦では申し訳ないことをしてしまって、悪かったと思っているんです。頭を上げて下さい」

 生真面目な千大王も急いで立ち上がり、丁寧に言葉を返す。

「いや、あれだって俺が、増田男のことを痛めつけてやろうだなんて、(よこしま)なことを考えなければ起きなかったことだ。俺の自業自得だよ」

 だが当の増田男は、煮えたぎっていくブランド牛のことばかりが気にかかり、話さえろくに聞いていない様子だ。

 テーブルを挟んだ二人のやり取りは長くなりそうだと感じた友沼親方は、他のみんなに、もう食べ始めようとゼスチャーで示した。

「いや、そうは言ってもですねぇ。目も眩むような腋臭で対戦相手を失神させてしまおうだなんていうのは、神事でもある大相撲を冒瀆しているとしか思えません」

「だがな、腋臭というのは一種の病気でもあるわけだし、特に反則規定にあるわけでもないんだから、それをとやかく言うのは間違っているんじゃないか?」

「でもあの時は、明らかな悪意を持って、あの、ゾンビが両手(もろて)を上げて逃げ出すとまで囁かれる腋臭を利用したわけであって、やはり、倫理的に許されることではないと……、ねえ、増田男く――」

「――ん?」

 不意に千大王から話を振られそうになった増田男が顔を上げると、増田男は二人の話を聞いていないどころか、もはやその口に一杯、牛肉を頬張っているのだった。

 少し冷静になった二人が見渡せば、早くもみんな、口一杯にお肉を頬張り、満足気な顔で美味しそうに咀嚼している。

「二人とも、もうその位でいいんじゃないか」

 そう口を挟んできたのは土佐武蔵だった。思わぬところから飛び出してきた声に、艮はポカンとした顔を向けた。

「襁褓山さん……あ、いや、土佐武蔵関……」

「確かにあの時は俺も、なんて野郎だと思ったさ。だけどあれから野々村部屋に入門し、二年あまりで幕下まで昇進したお前はもう、立派な力士だ。去年の名古屋場所、三段目で優勝を争った時のお前の突き押しは、本物だったよ。きっと、いい親方や仲間に恵まれたんだろ」

 そう言うと土佐武蔵は、艮のすぐ横に座っている犇と丑満にチラリと目をやった。

「そ、それは……」

 思わぬ援護射撃を受けて、言葉を詰まらせた艮の脳裏には、サラリーマンという退路を断ち、大相撲界に飛び込んだこの二年あまりの苦難が走馬灯のように浮かび上がり、「うっ……」と思わず喉を震わせた。

「まあ、人の人生なんていろいろあって、あの時はお前も、いろいろと悩んでいたんだろ。あれはあれで、俺たちにとっても懐かしい思い出になったんだよ。そんなに気にしないでくれ。まあ……、俺が言うのも変な話だけどな。なあ、千大関よ」

「あ、そんなことは……。でも、本当にそうです。もう、あの時のことは、気にしないで下さい。それよりも先輩、早く幕内に昇進して、本場所で対戦しましょうよ」

「あ……、ああ、そうだな。その時は、全力で倒しにいくから、よろしくな」

 そう言うと艮は、握手をしようと差し出しかけた左手を、「ああ、こっちは不浄の手だったな」と独り言ちながら引っ込め、すぐに右手を差し出した。そして二人は、テーブル越しに固い握手を交わした。

 千両大学の先輩後輩である艮と千大王。長年のわだかまりが解消した二人が席に座って胡座をかき、今度こそ落ち着いて食事を始められると誰もが思った次の瞬間、「ピンポーン」と玄関チャイムの鳴る音が板の間に響き渡った。


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