野々村部屋三人衆の友沼部屋周遊記 その2
訪問者は久須村で畜産農家を営む年配の男だった。応対に立った女将と玄関で何やら話をしていたが、男はそのまま玄関を上がり、まるで勝手知ったる他人の家とでもいった風情で女将の前に立ってつかつかと歩き出し、そのまま一同が食事をしている板の間に顔を出した。
「よう親方、元気かい?」
男は元々の地声が大きいのか、誰もが箸を持つ手を止め、男の方を振り返った。
男を見た親方の相好が崩れる。
「あれえ? 源ちゃんじゃないか? こりゃまた随分と、久しぶりだねえ」
源ちゃんこと高橋源太郎は、自身が経営する〈源ちゃん牧場〉で、オスの黒毛和牛にメスのホルスタインを掛け合わせたこの地域特産のブランド牛を育てている畜産農家だ。その豪放磊落とも言える社交性の裏で繊細な気配りのできるセンサーを併せ持ち、この久須村では一番に潤っている畜産農家だと言われている。
こんな風にひょっこりと友沼部屋に顔を出す際には必ず手にあまる程の差し入れを持ってきてくれるので、親方ばかりか友沼部屋の力士たちまでもが喜んで源ちゃんを向かい入れた。事実、この時も源ちゃんの左手には、大きな風呂敷包みが重そうにぶら下がっている。
「源ちゃん、今日はまた、どうしたんだい?」
そう言う友沼親方の目は、既にその風呂敷包みへと向けられていた。
「どうしたもこうしたも……、今夜はよその部屋の力士が三人も来るっていうから、こうして差し入れを持ってきたんじゃねぇか」
機嫌良さそうに源ちゃんは、そばにいた増田男にその重そうな風呂敷包みを渡し、「いいから開けてみな」と言った。
期待に目を輝かせた増田男が包みを開く。
「うわ、うわ、うわわわわぁ~」
それを覗き込むように見ていた日の出山が、歓喜の声を上げる。
中からは箱詰めされたブランド牛の高級感溢れるギフトセットが、いくつもいくつも現れたのである。
「今夜は特別に、A5ランクのブランド牛だ。遠慮しねえでどんどん食え」
そう言いながら一つ一つ手渡していく。
「えっ、えっ……、A5ランクのブランド牛~!」
手渡された日の出山は、お白洲で大岡裁きを受ける越後屋とでもいうように、大袈裟な身ぶり手振りで腰を抜かすようにしながら、ひっくり返った声を上げた。
「さあ、お前さんたちも、遠慮しねえでやってくれ」
「いや、俺たちは……」
箱を差し出された犇は、先ほどの件をもう一度説明し、受け取りを拒んだ。
「何い~、牛肉が食べられないだとぉ~!? だって、そんな、ヒンズーの教えだかケンコーチューハイだか知らんが、お前さんたちには、全然関係ねえことだべや」
「牽牛崇拝です。しかし、それが野々村部屋の規則ですので」
「そんな、誰も親方に言いつける奴なんていねえんだから、食っちまえよ」
「いや、しかしですねえ……」
「うわあっ! このお肉、ヤバい~!」
犇たちが言い合っているすぐ横のテーブルでは、早速そのお肉を口に入れた日の出山が歓喜の声を上げ、増田男との凸凹コンビによるパフォーマンスが始まった。
「増田男君っ、僕のほっぺが落ちる。押さえて押さえて押さえて~っ!」
「お、押さえきれない~っ! 誰かヘルス、じゃなかった、誰かヘルプ~っ!」
「うんうん、相変わらず面白い連中じゃのう」
その様子に源ちゃんも、愉快そうに頷いている。
「コ、コンナオ肉……、ナイロビニハ無イロビ~ッ!」
その向こうのテーブルでは、将威の歓喜の声が、打ち上げ花火のように上がる。
「相変わらずよく分からん日本語じゃが、そうじゃろそうじゃろ」
「うっ、うっ……、僕、これまで生きてきた中で、一番幸せ……」
目頭を押さえた平和が、しみじみと言う。
「どこかで聞いたようなセリフじゃが、健気な若者じゃのう」
「今、分かったぞ! 俺様は、このお肉と出会うために、この世に生を受けたんだと……」
しまいには増田男が、殊更芝居がかった調子で天を見上げながら目を潤ませ、そう続けた。
「お主はその前に、まず腋臭を治せよ」
そして源ちゃんは、再度犇たちのテーブルに向き直った。
「ホレ、みんなあんなに喜んでおるではないか。お前さんたちも、早く食え」
「いや、しかしですねぇ……」
拒み続ける犇を差し置いて、源ちゃんはブランド牛の箱を開けると、犇たちが座るテーブルの鍋に、放り込むように投入してしまった。
「あ、ちょっと、何を――」
犇の言葉を遮るかのように、鍋からはグツグツと肉の脂が溶け出し、食欲を誘う温かな匂いがモクモクと漂い始めた。コク深い甘味のある香りが白い煙となって三人の鼻腔をくすぐり、それは瞬時にして深い葛藤に悩める三人の脳の視床下部を直撃した。繊細な神経核が刺激された三人はまるで、グラグラと脳みそを撹拌されたかのごとく目眩を起こし、訳が分からなくなった丑満の摂食中枢は一気にマックスへと振れた。
「モー、たまらんっ!」
言うが早いか、丑満の箸は一直線にブランド牛へと伸びる。
「あっ、お前、何を――」
そう諌めようとする犇の言葉を無視し、丑満は摘まんだ肉をサッと溶き卵に浸すと、素早く口の中へと放り込んだ。
「んめえぇぇ~」
その瞬間、それまで強張っていた丑満の顔面はふにゃりと崩れ、大いなる喜びに打ち震える声音が咆哮となって喉の奥から一気に溢れ出た。
「俺も、モー限界っ!」
その様子を涎を垂らさんばかりに見ていた艮も、サッと箸をブランド牛へと伸ばす。
「んめえぇぇ~」
と艮の喉からも、同じような咆哮が迸り出た。
「ちょっと、お前ら――」
そう言いかけた犇の口の中にも脂の溶け出した牛肉の香ばしい匂いが充満し、ついには視床下部にある摂食中枢のリミッターが限界まで振り切り、理性の弾け飛んだ犇は「俺はモー、どうなっても知らんぞ!」と言いながらブランド牛へと箸を伸ばした。
その様子を満足気に見ていた源ちゃんが、摘まんだ箸でタクトを振る仕草をすると、三人はまるで昭和の時代に隆盛を極めたコーラスグループのごとく、それに操られるように美しいハーモニーを奏でた。
「んめえぇ~、んめえぇ~、んめえぇぇ~」
重厚感溢れるハーモニーは、グツグツと煮えゆくすき焼き鍋の煙へと、静かに溶けていった。
「上手~、ダークダックスみたい~」
昭和歌謡に詳しい女将は一人、パチパチと手を叩いて喜び、「胎教に良いわぁ」とお腹を擦りながら思わず口を滑らせてしまい、慌ててその口を閉じた。
そして仲良くハーモニーを奏でた三人組は、まるで憑き物が落ちたような顔で互いの顔を見合わせた。そう、一切れ食べてしまえば後はもう、いくら食べようと食べた事実に違いはないのだ。
三人はそこからは堰を切ったように牛肉に箸を伸ばし、競うように食べ始めた。もちろんそれは、友沼部屋の面々にしたって同じこと。こんな豪華な食事はそう滅多にはないのである。
源ちゃんの持ってきたブランド牛はあっという間にみんなの胃袋の中へと消え失せ、この日の夕食は大盛況のうちにお開きとなった。




