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友沼部屋奮闘記  作者: 魚屋ボーフラ
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襁褓山改名 その1

 六月の(なか)ば、気象庁はこの夏も猛暑になるとの予想を発表していた。しかし友沼部屋のある久須村はまだまだ寝苦しい程の熱帯夜とは無縁で、開け放った窓の網戸から吹き込む夜風は、田舎の澄んだ空気が織り成す清浄な天然の涼風だった。

 しかしその夜、友沼親方はなかなか寝付くことが出来ずにいた。布団の中で何度も寝返りを打ち、苦しそうな呻き声を上げた。

 眠れぬ夜の原因は、悩み事だ。もちろん相撲部屋の親方なんかやっている以上、悩み事は絶えないもの。特にこの友沼部屋には、増田男などという規格外の問題児もいるのだ。そして現在、友沼親方の頭を一番に悩ませているのは、襁褓山(むつきやま)に関する事だった。

 今年になってから、襁褓山の身体に驚くべき異変が起きている。この半年以上も、襁褓山は稽古中に一度も粗相をしたことがないのだ。

 さすがにこれで襁褓山はやばくないだろうか、と友沼親方は口をへの字に結んだ。襁褓とはつまり、オムツのことなのだ。それに昨今の風潮のことだ、いづれは名付け親である自分のことを、マスコミがイジメだパワハラだと、騒ぎ出すかもしれない。

「う~ん、ムムム……」

 思い起こせば襁褓山は、今から5年前、友沼部屋をこの久須村に立ち上げた時からの初期メンバーだった。学生相撲出身で体格も良く、当時は友沼部屋の将来を担う逸材と期待され、鳴り物入りで入門した。ところが強い自尊心から稽古は自己流を貫き、大した量をこなすでもなく、友沼親方とはよく口論にもなった。

 そして1年後に千大王が入門すると、伸び悩んでいた襁褓山は稽古熱心で真面目な千大王に番付でもあっという間に追い抜かれ、更には右肘の怪我なども重なり、その差は開くばかりとなった。

 その頃からである。襁褓山が稽古の前に牛乳をがぶ飲みし、度々腹を壊すようになったのは。

 そんな襁褓山ももうすぐ28才になる。関取になれなければ、そろそろ進退を考えなければならない年齢だ。

 そんな焦りもあるからだろうか、あるいは襁褓山を慕う後輩が現れ、情けない姿は見せられんぞと奮起をしたか、さすがにここ2、3ヶ月は目の色も変わってきた。恐らく、大好きな牛乳もあまり飲んではいないのだろう。

 やはりそろそろ、変えてやるべきだな。

 友沼親方はそう結論付け、暗闇に大きく目を開いた。するとここ数年来の、襁褓山に関する様々な騒動が友沼親方の脳裏に去来し、ふっ、と口元を緩めながら親方は静かに目を閉じ、最後に未練がましく、虚空(こくう)に向かってこう独り()ちた。

「それにしても惜しいことよ。襁褓山保(むつきやまたもつ)、俺がネーミングした中では最高の四股名(しこな)だったな――」


 真夜中に下した英断を友沼親方が発表したのは、翌日の夕餉(ゆうげ)の席でのことだった。

 襁褓山の斜向(はすむ)かいに座っていた友沼親方は、視線をチラと襁褓山に向けると、何の前置きもなく、毎日の挨拶を交わす程度の軽い口調でこう言った。

「あー、襁褓山、次の場所からお前は、襁褓山返上だ」

「……ええっ!」

 余りの何気なさに誰もが瞬間的な間が空いたが、友沼親方の言葉に驚きの声を上げたは襁褓山だけではない。その場にいた殆どの者が箸を持つ手を止め、声を揃えて顔を上げていた。

「おっ、親方っ! い……、今、一体、な、な、何と……!?」

 当の襁褓山に至っては、お白洲でいきなり桜吹雪を目の当たりにしてたじろぐ越後屋のように、顔を強張らせ、声を継ぐことさえ出来ずにいる。

 この日のメニューはちゃんこ鍋だ。

 相撲部屋といえば、食事に関する作法もうるさいようなイメージがあるが、友沼部屋に関していえば、食事時の七面倒臭いルールや仕来(しきた)りはなく、先輩も後輩も、番付が上か下かも関係ない。もちろん上座も下座もなく、それぞれが好きな位置に陣取り、それぞれが好きな分だけ茶碗に盛って食べるのだ。

 そんなフランクさから、時には食材の差し入れを持ってきた久須村のおじちゃんおばちゃん連中が、一緒に食卓を囲んでいたりもする。

 室内のどよめきが静まるのを待って、友沼親方はもう一度口を開いた。

「襁褓山よ、お前、次の場所は四股名を変えて出場するぞ。以前の四股名に戻すのも良し、全くの新しい四股名にするのも良し。どっちでもお前の好きにしろ。あー……、ただし、俺の現役時代の四股名にして、二代目襲名、何てのは無しだからな」

 少し照れたように話す友沼親方の言葉がそこで途切れると、襁褓山の太くて濃い眉毛の間に刻まれた深い皺がみるみる溶けていき、次の瞬間、襁褓山は頬張った飯を咀嚼(そしゃく)していたその途上にあることも忘れ、ちょうどベテラン大関の菊卍(きくまんじ)が仕切りの最後に胸を大きく反らせて天井を見上げるような仕草で、「やったあー!」とどでかい叫び声を上げた。

 それと同時に襁褓山の口からは、エトナ山の噴火を彷彿とさせる勢いで粘ついた米粒が大量に吹き出し、周りの者は自分の茶碗に両手を(かざ)して降り注ぐ火山灰から己の飯を守ろうとしたが、身軽な増田男だけはひょいと自分の茶碗を持って立ち上がり、くるりと後ろを向いた。だがそこへ、垂直に落下してきた二本の箸がズブッと突き刺さり、あたかもそれは、死者の枕元に供える枕飯(まくらめし)のようになった。

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