60話 嘘をつける勇気
鮫の群れが飛びかかってきた。遥か遠くの海面から飛び出し、数百メートルもの距離を越えて砂浜めがけて降ってくる。
総数は五匹。全長五メートルはある鮫たちがテーブルの上の刺身を狙ってやって来たが、その勢いで正面にいるレイジとセツナに衝突するのは確実だ。
「きゃあああ!」
叫んだセツナは咄嗟にレイジの影に隠れ、彼は彼女を庇うように構えつつ二本のサバイバルナイフを取り出した。
「無茶だ!逃げろレイジ、セツナ!」
いくら能力を無効化できるヒエイにも、生の物体の衝突を防ぐ術はない。幻影を見せても意味はない。できることなど一つもない。
今まさに鮫がテーブルに飛び乗る瞬間、爆音が鳴り響くと先頭の鮫が弾かれ海へと飛ばし返された。
一匹、また一匹。次々と鮫は空中で押し返され、一度海に戻されると二度は戻ってこなかった。
「サンキュー。助けられたな、イブキ。」
「っ、平気よ、これくらい……」
‘覚醒’。イブキの持つ能力であり、S+ランクたる力の原点。速度、パワー等のあらゆるフィジカル面を大幅に強化する代わりに、発動後に一気に負荷がかかる。
スタート地点は蹴りあげる踏ん張りの効かない砂浜で、迎撃地点はさらに踏ん張りようのない空中だ。そして一秒足らずの間に五匹すべて押し返さなければならない。
一匹突き飛ばした反動で自分も吹き飛んだり反動のダメージを受けていては残りに対応できない。過剰に力を出しつつ機敏に空中を転回し、休むことなくまとめて倒さなければならない。その判断を一瞬で下し、自分の体への過度な負荷を考慮せず助けることだけを考えて動いた。そして全部始末した今、彼女の体に激痛が走っている。
いくら強い能力があるからといって、簡単にできる選択ではない。一方で自分は能力を持っていながら最初から諦めていた。ヒエイは思った。これが人を守るために戦う人の姿だと。
何が勝負に勝ったら認めてほしいだ。いざこの瞬間何もできなかった時点で勝負にすらなっていないじゃないか。
彼は自分の考えが間違っていたことに気づき、改めてイブキの強さを認めた。
「イブキ……その体じゃあ、もう……」
「言ったでしょ……平気だって。」
見ただけでも腕や指がボロボロなのが分かるのに、彼女が決して声に出すまいと痛みを堪えている心が伝わってくるレイジには、彼女の姿は見るに堪えないものだった。今すぐにでも病院に連れていきたい。しかし、彼女はそれを拒否している。
イブキの心の中にある気持ちは、痛みによる辛さでもこんな勝負に巻き込まれた怒りでもない。いや、それらも少なからず存在している。一番大きな思いに比べてあまりにもちっぽけなそれらの思いは、彼女の心を深く読まないと見えてこない。
彼女の心にある一番大きな気持ち。それは誰一人怪我することなく守れたという安心感だ。
これこそまさにイブキのイブキたる由縁。だからこそレイジは彼女の力になりたい、そう思い続けていたのだ。
「さあ、続けるわよ……むしろこのぐらいでちょうど良いハンデじゃなくて? それともアンフェアな勝負は嫌かしら?」
「いーや、ここですっぱり諦めてやる。俺はお前に敵わないって。けど、勝負は下りない。このまま真剣勝負して、潔く負けを認める!」
勝てないと分かっていながら、全力で勝負に挑む。その思いは能力で心を読めなくとも強く伝わってきた。レイジは思った。この戦いを最後まで見届けなければならないと。
改めて両者はスタート地点に立った。
レイジはイブキの心を深く読んだ。彼女は自分がハズレと言った左端の皿を取るつもりだ。それを取って負けようものなら彼の言葉は本当だと知ることができた。しかしそれがハズレではなく勝ち、または続行になれば彼の言葉が嘘だったことを知ってしまうことになる。
イブキが見ているのは目の前のヒエイとの勝負だけではない。自分の考えを読んだうえで仕掛けた並び、そして与えた一つのヒント。この結果次第で、彼女からの信頼が変わってしまう。
もちろんそれを考慮したうえでの並べ方であり付け加えた宣言なのだ。
「逆にお前たちが俺の言葉を信じるか否か。それで判断する。」
セツナはレイジになんて上から目線な物言いだと心の中で突っ込んだ。
そう思われると自覚してしまったので、レイジは海の家に入った。
勝負で使うために買って、まだ半分以上残っているわさびのチューブを持って出てくると、それをテーブルの上に寝かせて置いた。
「勝負の結果に恨みがあるならそれを使ってかまわないぜ。どう使うかは自由だ。」
イブキに言ったことが嘘であれば、勝敗がどうだろうと中身すべて飲み込ませるという物騒なことを考えている。
ヒエイは考えた。ここまで予測しての言動なら、イブキに言ったことが本当なのではないだろうか。認めたくはないが、怒らせると怖いのは自分ではなくイブキだと思っているのは納得がいく。だとすれば、この勝負は確実にヒエイが勝つように仕向けている。
そもそもこの勝負、イブキが勝つメリットなんて存在しない。この学年に四人しかいないS+ランクとして、Aランクに負けることは許されないというプライドがあるならどんな状況でも勝ちに来るだろう。
この島のランク測定のシステム上、格下のランクに負けたからといって個人が降格することはない。逆に格上に勝てば昇格することもあるが、それは結果に影響されるのでなくその勝負を経て成長した能力がランクのボーダーを越えたときに限る。
降格に影響するのは勝敗ではなくボーダーの調整と再診断のみ。
負けることが能力の再審査に影響するのは事実だが、それだけで降格することはない。
ただ勝負がしたい。違う。イブキは信用したいのだ。
「それではよーい……始め!」
イブキとヒエイはほぼ同時に、僅かにスタートはイブキが早かったがほぼ同時に走り出した。
レイジの想定通り、イブキは真っ直ぐに左の皿へ向かう。
しかしヒエイの動きに変化があった。彼はレイジの言った左ではなく右の、イブキに対してハズレと言った、彼女が狙っている皿へと狙いを変えて走っていく。
結果、先に皿を取ったのはヒエイだ。早い者勝ちなのでイブキは残りの二皿、向かって右か中央のどちらかの刺身を取らなければならない。
仕掛けた本人であるレイジはどれがハズレか分かっており、そしてここで決着が着くことも分かっている彼は、なぜヒエイはそれを、イブキに対してハズレだと言った皿を選んだのかを聞きたかった。
「ヒエイ、お前はどうしてそれを選んだ。」
「本当のことを伝えた相手は俺ではなくイブキ。そう決断したからさ。」
イブキに対して言ったことが本当だと信じたならば、ヒエイが選んだ物はわさび入り、つまり彼の負けを自ら選択したことになる。
「俺はあいつより早く取れれば満足だ。早く手にすることができれば、それで良かったんだ。」
満身創痍とはいえその気になればいくらでも力を出しきれるイブキより速く走ることができたのは、確かに誇れることかもしれない。
この勝負、結果としてはヒエイの負けにはなるが、彼にとっては悔いのない形なのであった。
「レイジ、そろそろ始めて。」
中央の皿を選んでいたイブキが急かしてくるが、レイジは焦ることはなかった。彼女はヒエイが選んだ物がハズレでなければ即テーブルに置いたわさびのチューブを握り彼の喉に突っ込むという物騒なことを考えているが、その心配はないからだ。
「よし、では両者とも食べて。」
ルール上、二人が選んだ後ならばいつ食べても良い。相手が食べたのを見届けてから自分が食べるというのもありだということだ。
そしてイブキはすぐ食べることはせず、ハズレであり確実に辛いと分かっていながら覚悟を決めてまるごと口に入れたヒエイを見ていた。そして彼の表情が変わるのを待っていた。
「……あれ? 辛くない……」
ヒエイはなんとも感じていなかった。ただ普通のわさび抜きの握り寿司だとしか思えず、首を傾げている。
「どういうこと? 私に嘘をついたのね、レイジ。」
そう言いながらイブキはチューブを手に取った。
「違う違う! あれだ、俺が使ったわさびはセツナに能力で作ってもらったもの。だからそれを無効化してしまうヒエイには味が伝わらなかっただけで、本当はわさびが入っているんだ。お前が食べていれば分かったことだぜ。」
イブキとヒエイの頭にはハテナが浮かんだ。
「何でわざわざ俺に効かないわさび使ったんだ? 分かりにくいだけじゃん。」
「……私の足が遅かったって言いたいのね。」
「いやほら、普通のわさび切らしてて……」
今まさにイブキが強く握っているのが市販のわさびであり、半分以上残っている。
「そもそも私、そんなの作れま、んぐっ……」
レイジはセツナの口を強く押さえ話せなくした。
その間にイブキは、自分の選んだ皿と残りの一皿、そしてわさびのチューブを持ってレイジの元に迫っていった。
「この中にわさび入りがあれば、それは嘘ってことになるわよね……この私に、一度ならず二度までも嘘をついて、どうなるか分かってんでしょうねぇ……」
イブキはもう、勝負のことなど眼中にない。二つの皿に盛られた寿司を同時に口に放り込んだ彼女は、どっちのものかは分からないがとてつもない辛さを味わっていた。
あまりの辛さに涙を流し思えず皿を落としてしまったイブキから、特大サイズの憎悪が漂ってきた。
「そ、それじゃあ、また……明日学校で!」
「やっぱり嘘じゃないの! 覚悟しなさいよレイジィ!」
逃げ出そうと一歩踏み出す前に追いついたイブキはレイジを仰向けにさせて跨り、チューブの蓋を回して外した。
「分かったから、謝るから、お前もう帰れ! 帰って治療してもらえ!」
「心の傷は治まらないのよ……分かってるでしょ?」
命乞いをして叫ぶレイジの口にチューブの先を突っ込んだ。そしてチューブの底をおもいっきり指で挟むと、ゆっくりと前に押し出した。
真ん中まで指が進んだ所で、イブキは一旦手を止めた。
「何がしたいんだ、あいつは……」
「せめてどれにもわさび入れてなければごまかせていたのに……どうせまた即興かつガバガバなアドリブなんでしょうけど。
まったく助けようとしないヒエイとセツナは、横に立って一連の様子を眺めている。
そして再びイブキに目を向けると、今まさに挟んだ指を一気に押し出し、チューブの中のわさびを一度に口に流し込もうとしている。
「待ってくれ! それは本当にシャレにならないから! 本当に……」
言い終える前に、彼女は高速で押し込んだ。舌の上にわさびがまとめて乗せられたのが伝わる。この時点で苦しいが、飲み込むのはもっとヤバい。
何とかして吐き出そうと顔を振って拘束から逃れようとするが、レイジの四肢はびくともしない。
「早く飲みなさいよ……早く、早く……」
鬼の形相で追い詰めてくるその姿はあまりにも恐ろしく、その表情に気を取られた瞬間に思えず全部飲み込んでしまった。
「んぎゃあああ! し、死ぬ。死んじゃうかゲホッゴホッ!」
レイジは慌てて水道に向かおうとするが、その手を掴んだイブキは微笑んだ。
「どこ行くの? 水ならいっぱいあるじゃない。」
イブキは右手一本でレイジを投げ飛ばし、海に叩きつけた。その体はみるみる沈んでいき、すぐに見えなくなった。
「やりすぎだろー。」
「なぜでしょう。気分爽快です。」
力の使いすぎで動けなくなったイブキは助けに向かえないだろうと分かっていながら、二人とも一歩も動く気がない。さっきまで鮫がいた海に投げ込まれたのもかかわらず一切不安に思わないのは、どうせなんともなくピンピンして戻ってくるだろうという信頼があるからだ。
「お待たせー。」
「おっ、待ってたぜイノリ。バイクは向こうにあるから、一緒に来てくれ。」
イノリはガードレールに衝突しそのうえ水没したバイクを直すために駆けつけてくれた。今いる場所からは少し離れた所に止めているので、そのまま帰るつもりでいたヒエイはイブキに話しかけた。
「改めて分かったぜ、お前の強さが。今回は俺の負けだ。けど、次戦うときは負けない。」
「そう、その心意気は認めるわ。勝負にこだわるのもいいけど、その先を見据えられるようになればいいわね。」
「勝負の先、か……」
まだまだ力不足だった。けれども今後負けるつもりはない。そう思っているヒエイは別れの挨拶を告げ、海岸から去っていった。
今日ここで何をしていたのかというイノリからの質問に答えながら、二人は駐車場へ歩いていった。
「さてと、そろそろ機嫌直しなさいよ。」
二人を見送ったイブキは店の入り口で体育座りしているレイジに話しかけた。鮫に襲われることもなく、無事に生還したはいいが、イブキからの仕返しやそのときの彼女の表情がトラウマになり、茫然としている。何を言っても体を揺さぶっても、表情一つ変えなかった。
「まったく……」
「レイジ、しっかりしてください。」
セツナの声を聞いた瞬間レイジは顔を上げ、その態度の変わりようにイラッとしたイブキは拳を握った。
「イブキ、嘘をついちまって悪かったな。けど、それはお前が望んでいたことなんだろ?」
イブキに勝つように仕掛ければ、それは彼女に勝てない、従わざるをえないということになる。だから自分の強さには自信がある。S+ランク相手にも怖じ気づかず立ち向かえる。その気持ちをアピールしてほしいという思いが、彼女の心の奥底にあった。
だからレイジは立ち向かった。イブキにやられることを覚悟し、立ち向かった。その態度に、少なからず安堵しているのは彼には分かっていた。
「期末試験、あるでしょ?」
一学期の期末試験は七月の上旬。一般的な学力検査に加えて、能力を自由に使った実技検査が行われるのがこの島の学校の制度だ。
「ああ、ランクの近い者同士、一対一で戦うあれだろ?」
「そこで正式な決着をつけるわ。楽しみにしてるから。」
今日戦えなかったことを内心残念がっているが、その一方で次の勝負への期待が高まっている。
「これからはもう、遊んでいる余裕はねえな。」
S+ランクの一人、トシヤとの決戦も来週土曜に控えている。そしてその後は文化祭に期末試験、そしてイブキとの決戦が待っている。忙しい日々になるのは目に見えていて、それは決して嫌なことではない。むしろ燃える。ここからが本番みたいなものだ。
「よし、今日はもうおしまい。帰って寝るとするか。」
「ちょっと待ってくださいよ!」
すっかり忘れていた。一日散々付き合わせて迷惑もかけてしまったセツナが、このまま黙って帰るわけがない。
「ちょっと付き合ってもらいますから。閉店まで時間ないので、早くしてください。」




