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第一章・二 「ログイン前夜」



 リビングへ漂う夕飯の匂いは、

 どこか安心する。


 テレビでは、

 まだレイナの歌が流れていた。


 透き通る歌声。


 青白い照明。


 観客席の歓声。


 紗雪はソファへ座りながら、

 完全に画面へ釘付けになっている。


「この曲マジで好きなんだよね……」


「今日だけで五回くらい聞いてない?」


「それは言わない約束」


 真顔で返されて、

 悠真は少し笑った。


 母親がキッチンから皿を運んでくる。


「悠真、ご飯よ」


「ん」


 テーブルへ並べられる夕飯。


 湯気の立つ味噌汁。


 焼き魚。


 サラダ。


 どこにでもある普通の夕飯だった。


 悠真は椅子へ座る。


 窓の外は、

 もうかなり暗くなっていた。


 住宅街の明かり。


 遠くを走る車のライト。


 時折聞こえる電車の音。


「お父さんから連絡来てたわよ」


 母親が言った。


「また向こう忙しいんだって」


「……そっか」


 父親は海外企業の技術部門で働いている。


 仕事の関係で海外滞在が長く、

 ここ最近は数ヶ月帰ってきていなかった。


 昔から家を空けることは多かったが、

 最近は特に忙しいらしい。


「また今度通話するって」


「分かった」


「お兄、また英語で喋ってよ」


「嫌だよ」


「えー」


 紗雪が不満そうな顔をする。


 そんな他愛ない会話。


 それが、

 悠真は割と嫌いじゃなかった。


 食事中も、

 テレビではAstral Ring関連のCMが流れている。


 今や珍しくもない。


 それくらい、

 Astral Ringは社会へ浸透していた。


『本日20時より、

 星海航路祭開催』


『限定海上エリア解放』


『幻想夜景イベント』


 映像の中では、

 夜の海を巨大船が進んでいる。


 青白い灯りが波へ揺れていた。


「お兄今日入るの?」


 紗雪が聞く。


「まあ」


「ロスト事件怖くないの?」


 箸が少し止まる。


 母親も小さく視線を向けてきた。


「……怖いよ」


 悠真は正直に言った。


「でも、

 別にAstral Ringだけじゃないし」


「まあねぇ……」


 母親も少し困った顔をする。


 最近はVR全般への不安が広がっている。


 だが、

 Astral Ring関連が圧倒的に多い。


 だからニュースでも毎日騒がれている。


「でも無理しないでよ?」


「分かってる」


 そう答えながら、

 悠真自身も少しだけ胸が重かった。


 本当に大丈夫なのか。


 そう考えないわけじゃない。


 だが。


 それでも、

 ログインしたいと思ってしまう。


 レグナスの夜景。


 潮風。


 酒場の喧騒。


 あの世界の空気。


 それを思い出すだけで、

 少しだけ胸が高鳴る。


 食事を終え、

 悠真は部屋へ戻った。


 自室はそこまで広くない。


 机。


 本棚。


 壁際のゲーム棚。


 VR接続用デバイス《ARCADIA-X》。


 Astral Ring正式推奨モデルだ。


 悠真は制服を脱ぎ、

 部屋着へ着替える。


 窓を少し開ける。


 夜風が入ってきた。


 遠くで犬の鳴き声。


 車の走行音。


 住宅街の静かな夜。


 机の上の端末が震える。


【カナタ:お前もう入る?】


 悠真は端末を手に取る。


【ユウマ:まだ】


【カナタ:ミコトもうVCいる】


【ユウマ:早】


【カナタ:ガイはまだ行方不明】


 少し笑う。


 容易に想像出来た。


 ガイは多分、

 どこかの未発見地帯を歩き回っている。


 悠真はデスクチェアへ座る。


 ARCADIA-Xを見つめる。


 白と黒を基調にした流線型デザイン。


 高価な機材だ。


 最初に買った時は、

 本当に嬉しかった。


 中学生の頃。


 初めてAstral Ringへログインした日を、

 今でも覚えている。


 あの時は、

 ただ綺麗な景色に感動した。


 戦闘より先に、

 街を歩き回っていたくらいだ。


 端末通知が再び鳴る。


【ミコト:ユウマまだー?】


【カナタ:絶対景色見ながらぼーっとしてる】


【ユウマ:してない】


【ミコト:してる人の返答】


 思わず笑った。


 いつもの空気だった。


 VCを繋げる。


『やっと来た』


 ミコトの声。


『お前絶対また広告見てただろ』


 カナタも笑う。


「見てないって」


『嘘つけ』


『今日レグナスやばいぞ』


『人多過ぎ』


『花火始まった?』


『まだ』


 雑談。


 笑い声。


 そんな空気を聞きながら、

 悠真は少しだけ肩の力を抜いた。


 怖さが消えたわけじゃない。


 でも。


 こうして話していると、

 いつものゲーム前みたいだった。


『そういや深層特別航路、

 マジで何なんだろうな』


『また運営の謎イベントじゃね?』


『絶対嫌な予感する』


『ユウマそれ毎回言ってる』


 笑い声が重なる。


 悠真は小さく息を吐いた。


 部屋の明かりを落とす。


 窓の外。


 夜の街が静かに光っていた。


 ARCADIA-Xを手に取る。


 冷たい感触。


 慣れた重み。


 心臓が少しだけ高鳴る。


 怖い。


 それでも。


 あの世界へ行きたい。


 ARCADIA-Xを装着する。


 視界がゆっくり暗転した。


 耳の奥で、

 微かな起動音が鳴る。


 慣れた感覚。


 何百回も繰り返したログイン。


 いつもと同じはずだった。


 なのに。


 なぜか胸の奥だけが、

 妙にざわついている。


『ユウマー?

 聞こえてるかー?』


 カナタの声が遠く聞こえる。


 悠真は小さく息を吐いた。


 そして。


 意識は静かに、

 蒼い光の中へ沈んでいった。

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