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最終話

春の風は、あの日と同じ匂いがした。


校門の横の桜は、今年も満開で。

花びらが、ひらひらと舞っている。


「……綺麗だな」


月見海里は、少しだけ立ち止まって空を見上げた。


あの日から、何度目の春だろう。


結衣がいなくなった春。

一人で過ごした春。

少しずつ前を向き始めた春。


そして——


今日もまた、新しい春が来ている。


海里は、ゆっくりと歩き出す。


校舎の中は、あの頃と何も変わらない。


廊下の匂い。

教室のざわめき。

窓から差し込む光。


全部が、あの日の記憶を連れてくる。


「……ここ、だよな」


立ち止まったのは、三年のときの教室。


ドアを開けると、そこには誰もいなかった。


当たり前だ。


もう、自分はここの生徒じゃない。


それでも——


自然と視線は、あの席へ向かう。


窓際の、一番後ろ。


(……いたよな、ここに)


笑っていた結衣。

弁当を広げていた結衣。

ちょっと無理して笑っていた結衣。


「……ほんと、うるさかったよな」


小さく笑う。


でも、その声は少しだけ震えていた。


海里は、ゆっくりとその席に近づく。


手を伸ばして、机に触れる。


「……ちゃんと、来たぞ」


誰もいない教室で、ぽつりと呟く。


もちろん、返事なんてない。


それでも——


どこかで、聞いてくれている気がした。


ポケットから、あのノートを取り出す。


“やりたいことリスト”


少し色褪せたページ。


何度も開いた跡。


「……結構、やったよな」


一つ一つ、指でなぞる。


放課後に寄り道。

屋上で昼ごはん。

文化祭で一番になる。

海を見に行く。


どれも、ちゃんと覚えている。


全部、あの日のまま残っている。


そして——


最後の言葉。


——後悔しないさよならをする


「……したよ」


静かに、言う。


「あのとき、ちゃんと言えた」


胸の奥が、少しだけ痛む。


でも、それはもう前とは違う痛みだった。


「……でもさ」


少しだけ、空を見上げる。


「やっぱ、寂しいもんは寂しいよ」


本音が、こぼれる。


「会いたいし」


「声も聞きたいし」


「もう一回、くだらないことで笑いたい」


喉が、ぎゅっと締まる。


「……それでも」


ゆっくりと、息を吐く。


「ちゃんと生きてるよ」


ノートの最後のページを開く。


そこには、新しく書き足した言葉。


——ちゃんと生きる


「これ、続けてる」


窓の外。


桜の花びらが、風に乗って舞い込んできた。


ひらり、と。


まるで——


あの日と同じように。


「……なあ、結衣」


少しだけ、笑う。


「俺さ、また走ってる」


あの日、止まっていた時間。


止まっていた自分。


それを動かしてくれたのは——


間違いなく、結衣だった。


「最初はさ、怖かった」


「また失うんじゃないかって」


「また、意味なくなるんじゃないかって」


「でも——」


「お前が言ったんだよな」


“前を向いてほしい”って。


海里は、目を閉じる。


あの日の声。

あの日の笑顔。

あの日の涙。


全部が、今でもはっきりと残っている。


「……だからさ」


ゆっくりと、目を開ける。


「ちゃんと、前向いてる」


そして、少しだけ照れくさそうに笑った。


「約束、守ってるだろ?」


そのとき。


風が、ふわっと吹いた。


カーテンが揺れて、

桜の花びらが舞い上がる。


それはまるで——


優しく背中を押されているみたいだった。


「……ありがとな」


小さく、でも確かに。


「お前に会えて、よかった」


ノートを閉じる。


そして——


教室を後にする。


廊下を歩きながら、ふと思う。


もし、あの日出会っていなかったら。


もし、あの春がなかったら。


今の自分は、ここにいなかった。


「……ほんと、ずるいよな」


笑いながら、呟く。


こんなにも大切なものを残していくなんて。


でも——


それ以上に。


たくさんのものを、もらった。


校門を出る。


振り返ると、桜が一斉に舞った。


あの日と同じ景色。


でも、もう違う。


あのときは“終わり”だった。


でも今は——


「……行くか」


前を向く。


春の風が、背中を押す。


これは、終わりじゃない。


「またな、結衣」


その言葉は、優しくて。


もう、涙はなかった。


君と約束した、最後の春。

それは——


別れの季節じゃなくて。


未来へ進むための、はじまりの春だった。

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