1話、2話
春の風が、少しだけ冷たかった。
校門の横にある桜は満開で、花びらがひらひらと舞っている。
その下を通るたび、みんな楽しそうに笑っていた。
「……今年も、綺麗だな」
そう呟いたのは、三年生の月見海里。
だけどその目は、どこか遠くを見ているようだった。
かつて彼は、陸上部のエースだった。
全国も狙えると言われていたのに——
怪我で、すべてを失った。
「もう、頑張る意味ないだろ」
そう思ってから、海里は何にも本気になれなくなっていた。
そのとき。
「ねえ」
不意に声をかけられた。
振り向くと、そこには見知らぬ女子が立っていた。
肩までの黒髪に、少しだけ不思議そうな瞳。
「この学校の人?」
「……そうだけど」
「そっか。よかった」
彼女は、ふわっと笑った。
「私、転校してきたばっかりでさ。ちょっと案内してくれない?」
「……なんで俺?」
「なんとなく。優しそうだったから」
その一言に、海里は少しだけ眉をひそめる。
(優しい、か……)
そんな風に言われたのは、久しぶりだった。
「……別にいいけど」
そう答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。私、白石結衣」
「月見海里」
「海里くんね。よろしく」
そのとき、また一枚、桜の花びらが舞い落ちた。
——この出会いが、
彼の止まっていた時間を、動かすことになるなんて。
このときの海里は、まだ知らなかった。
2話
「で、どこ行けばいいの?」
結衣は校舎を見上げながら、きょろきょろしていた。
「とりあえず職員室だろ。転校初日なんだし」
「そっか。案内よろしくね、海里くん」
軽い調子でそう言って、隣に並ぶ。
その距離の近さに、海里は少しだけ戸惑った。
(なんなんだ、この子……)
初対面なのに、妙に距離が近い。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
手続きを終えたあと、二人は校舎裏に出ていた。
昼休み。
人の少ないこの場所は、海里のお気に入りだった。
「ここ、いいね」
結衣はベンチに座りながら言った。
「静かで、なんか落ち着く」
「……まあな」
海里も隣に座る。
少しの沈黙。
風が吹いて、桜の花びらが舞った。
「ねえ、海里くん」
「ん?」
「高校生活って、あとどれくらい?」
「……一年、ないくらい」
「そっか」
結衣は空を見上げた。
その横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
「じゃあさ」
そう言って、急に立ち上がる。
「やりたいこと、全部やろうよ」
「……は?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「やりたいことリスト、作るの」
結衣はくるっと振り返って、笑った。
「青春って、そういうものでしょ?」
「いや、急すぎるだろ」
「いいじゃん。どうせ時間は有限なんだし」
その言葉に、海里の胸が少しだけ引っかかった。
(時間は有限……か)
妙に重く聞こえたのは、気のせいだろうか。
「例えば?」
「んー……」
結衣は指を折りながら数え始める。
「放課後に寄り道するとか、屋上でお昼食べるとか、文化祭で一番目立つとか」
「普通だな」
「じゃあ、ちょっと特別なのも入れる」
ニヤッと笑って、結衣は言った。
「一番最後はね——」
一瞬、間が空く。
そして、少しだけ優しい声で。
「後悔しない“さよなら”をすること」
その言葉に、海里は何も返せなかった。
冗談っぽく言っているのに、どこか本気で。
どこか——切なかった。
「で、海里くんは?」
「……は?」
「やりたいこと。一個くらいあるでしょ?」
海里は少し考える。
でも、すぐに首を横に振った。
「ない」
「えー、つまんない」
「悪かったな」
「じゃあさ」
結衣は、少しだけ真剣な顔になる。
「私と一緒に探そうよ」
まっすぐな視線。
逃げ場なんて、どこにもない。
「……なんでそこまで」
思わず聞いてしまう。
すると結衣は、一瞬だけ目を伏せて——
すぐに、いつもの笑顔に戻った。
「秘密」
その一言に、海里はそれ以上何も言えなかった。
その日、二人は“やりたいことリスト”を作った。
・放課後に寄り道
・海を見に行く
・文化祭で一番になる
・屋上で昼ごはん
・夜にこっそり学校に入る
そして、一番下に小さく書かれた言葉。
——後悔しないさよならをする
(なんなんだよ……これ)
そう思いながらも。
海里は、少しだけ笑っていた。
止まっていたはずの時間が、
ほんの少しだけ、動き始めていた。




