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碧海のサルティーナ  作者: あんさん
第3章 挑戦
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23/27

第23話 設営

 朝の六時。港に面した宿の窓から、まだ薄い光が差し込んでいた。

 廊下にエンツォの声が響く。


「起きてる連中から手を動かせ。日が上がったら桟橋が混むぞ。さっさと移動するぞ」


 会場は港から水路を一つ越えた先にあった。

 入り口の大きなゲートを抜けると、大会の紋章を掲げた旗竿が両岸に並んでいた。昨日入った一般係留地とは違う、雑多な音に包まれていた。エンジンの試運転、金属を叩く音、号令、笛。それらが水面で重なって、遠くからも近くからも返ってくる。旗の奥に、サービスパークと呼ばれる区画が広がっていた。


(……凄い)


 桟橋が何本も伸びている。その一つ一つに機体が停められ、周囲にはテントや仮設の作業台、燃料ドラムを並べた区画、工具を広げた整備スペースが並んでいた。まだ朝の早い時間だというのに、あちこちで人が動いている。聞き取れない言葉が飛び交い、すれ違う人間の顔つきも島とは違う。

 アリスは旗竿の下を抜け、桟橋の並びを目で追いながら歩いた。声が出なかった。


「……これ、全部がレースのためですか」


「そうだな。二年に一回の世界大会だから力の入れ方が違う」


 フィンは前を向いたまま答えた。


 アリスは頷くことさえ忘れて周囲を見ていた。島の港とは比べものにならない。ジュリアのカフェの前でポスターを見た夜には、想像もしなかった光景だった。

 二つ隣の区画を通りかかったとき、アリスの足が止まった。

 テントの数が違う。並んでいる機体が三機。整備班の人数も明らかに多い。工具はすべて専用の棚に収まり、燃料缶は自前のラックに整然と積まれている。テントの上にはスポンサーのロゴが大きく掲げられていた。作業台の上には計器類が並び、整備班の誰もが揃いの作業着を着ている。


「チーム・ノルディックだ」


 エンツォが横目で言った。


「クラス1の本命だな。あそこは三機体制で、整備班だけで二十人はいる」


「……そんな大きなチームも出ているのですね」


 エンツォは肩をすくめた。


「うちは規模じゃ勝てん。だけどな、うちだってちょっとしたものだぜ。プライベーターでクラス2出場、さらにサポートチーム付きだ。上から数えた方が早いチームだぞ」


「そうなのですね」


 アリスは小さく頷きながら、もう一度ノルディックの区画に目を戻した。

 その桟橋の先で、背の高い男が機体の点検をしていた。白い機体は塗装まで端正で、纏っている空気が一段違う。

 昨日、マリエッティの横で言葉を交わしたときと違い、真剣な表情だった。整備班を従え、自分の区画で機体を見ている。前回の総合優勝者が、競技者として準備をしている姿だった。


「……あれはエリオさんですか。このチームだったんですね。さすが優勝候補という雰囲気があります」


 フィンは少しだけ足を緩めた。


「皆さん、凄い人ばかりですね」


「ここはそういう場所だ。だけどアリスもその列にいるんだぞ」


 フィンが歩きながら言った。

 足音と金属音が、さっきより遠く聞こえた。自分がここに立っていることが、急に心許なくなりかける。

 さらに歩くと、別の区画に見覚えのある痩せぎすの男が機体の横に立っていた。


(……あれは確かヴィペラさん)


 距離があるのに、こちらへ顔を向けている。目を細めた笑みが貼り付いたまま動かない。

 フィンは振り向きもしなかった。


「放っておけ」


「……はい」


 アリスは視線を前に戻した。胸の奥が少しざわついていた。



 ◇◇◇◇◇



 割り当てられた区画は、端から数えて七番目だった。


「うちの規模なら十分だな。テントを張るぞ。工具は内側、燃料缶は風下の端だ。動線を塞ぐなよ、入口は桟橋側だけだ」


 エンツォが腕を組んで区画を見渡しながら、一息に指示を出した。

 ルナの整備班が手慣れた様子でテントを立て始めた。骨組みを差し込み、幕を引き、ペグを打つ。声をかけなくても、次に誰が何を持つか決まっている。


「ここ、夜は海風が巻くわね。風対策は念入りにしてね」


 ルチアがテントの幕を引きながら言った。


「やっとく」


 ピエトロが無言でペグを増し打ちにかかった。

 トーノが工具箱を開き、中身を作業台の上に並べ始める。


「ここに基本セットを出しておきますね。スペアの方は奥の木箱です」


「パーツの管理はトーノとピエトロで回してくれ。使ったら記録を残せよ」


「了解です」


 カリーナが駐機場の端を歩いて戻ってきた。


「係留のフックは問題ないわ。ただ、潮位が変わると浮きの下に波が入るから、係留ロープはゆとりを持たせて」


 エンツォが「ジョバンニ、聞いたな」と振ると、板金職人のジョバンニが「あいよ」と無愛想に頷いた。

 マヌエラとベアトリーチェは設営には手を出さず、テントの隅で帳面を広げていた。書類の束を一枚ずつ確かめながら、ペンで線を引いている。

 マヌエラが手を止めて、ベアトリーチェに伝える。


「明日の参加確認に持って行く書類、もう一度確認し直します。フライトブックと周波数割当表は参加確認後の交付なので、受け取りの段取りを確認しておきました」


 ニコラが無線機を開き、周波数を確かめていた。


「大会共通周波数は入ってます。個別割当は明日の参加確認後ですけど、受信テストだけ先にやっておきます」


「頼む」


 それぞれが自分の持ち場で、黙って手を動かしている。指示待ちの時間はほとんどなかった。アリスは空いた手で燃料缶を並べ直し、ロープを束ね、テントの裾を押さえた。出来ることは限られている。それでも、立ち止まっている暇はなかった。

 桟橋を見ると、昨日係留したガネットがそこにあった。フィンが傍に立っていた。



 ◇◇◇◇◇



 昼前には設営はほぼ片づいた。

 テントの下に作業台が二つ。工具は壁際の棚に並び、燃料缶は風下に積まれ、予備パーツの木箱にはトーノの手書きラベルが貼られている。大手チームに比べれば質素そのものだが、動線は無駄なく、手を伸ばせば必要な物に届く。

 エンツォが腕を組んでテントの入口に立った。


「こんなもんだろう。あとは明日の参加確認が通れば、Day 0の機体検査に進める」


「明日はフィンと私とアリスで受付に行きます」


 マヌエラが帳面を閉じた。


「受付書類は全部揃っていますが、念のため朝にもう一度確認します。午後はアリスさんとフィンさんで、アイテナリーをなぞっておいてください」


「コース情報はまだだろ?」


「はい。ですが、リエゾンの距離配分と時間の見積もりは今の資料で出来ます」


「わかった」


 フィンが海図の束を取りに行った。アリスもそれに続く。

 テントの下にパイプ椅子を二つ並べ、膝の上にアイテナリーと海図を広げる。


「まずはリエゾンの全体を見ろ。北大陸を出てサルティーナへ渡って、また北大陸に戻って、最後にもう一度サルティーナへ渡る」


 アリスは海図に視線を落とし、ペンの先で航路をなぞった。


「移動日の距離と時間配分を頭に入れておけ」


「はい」


「SSの中身はフライトブックが来てからでいい、今はリエゾンの骨格だけ掴む」


「はい」


 アリスは鉛筆で海図に線を引き始めた。北大陸のポルト・ヴァルナを出て、サルティーナのマリーナ・グランデへ渡り、島を回って北大陸に戻る。最後にもう一度サルティーナへ渡り、そこに最終ステージがある。その間にSS区間がいくつも挟まる。


「長いですね」


「ああ、だが何度か飛んだのがリエゾンで役立つ」


「はい」


 フィンは海図の上を指でなぞった。


「リエゾンで遅れるなよ、それだけで順位が変わる」


 アリスはペンを止めて、フィンの言葉を聞いた。


「SSのタイムも大事だが、リエゾンでペナルティを出さないのも大事だぞ。練習でやったことと同じだ」


「分かりました」


 アリスは鉛筆を握り直した。海図の線は練習の時と同じだけれど、今度はこの線の上を本番で飛ぶ。



 ◇◇◇◇◇



 午後が半分ほど過ぎた頃だった。

 テントの前に、人影が立った。


「やあ、失礼。少しお時間いいですか」


 蝶ネクタイを締めた男が、にこやかに手帳を掲げている。


「実況を担当しているバーナビー・ワッツです。今日は取材も兼ねて回っていまして」


 マヌエラが対応に当たった。


「取材ですか?」


「ええ、まあ。各チームにご挨拶を兼ねて回っていまして。プライベーターのチームは特に話が面白いんですよ」


「取材対応はチーム監督を通してください」


「もちろんです。で、監督はどちらに?」


 マヌエラがカリーナの方を示した。バーナビーは一度そちらへ向かい、短く言葉を交わして戻ってきた。


「お話を伺えますか。エントリーリストで拝見したんですが、双発機のクラス2で、しかもプライベーター。珍しい編成ですね」


 バーナビーは楽しそうに手帳を開いた。


「パイロットのフィンさん。ご職業はサルティーナの運送屋さんだとか」


「運送屋っていうか、まあそうだな。荷物を運んで飯を食ってる」


「いいですね、その言い方。失礼ですが、お年は?」


「二十八だ」


「飛行歴は」


「おおよそ十年だな」


「ご年齢から逆算すると、軍にも?」


「悪いが、その話はノーコメントだ」


「これは失礼。では、機体のガネットについて。双発機ですが、運送機の改造ですか?」


「そうだ。仕事用の機体だ。プライベーターだからな。あるものを使ってる」


「なるほど。サルティーナでの運送業からストラトスへのきっかけは?」


「ストラトスは前から出たいと思っていた。今回は色々とタイミングが合った」


「タイミング。詳しく聞いてもいいですか?」


「機体と、人と、金が揃った。それだけだよ」


「シンプルですね。最後に、パイロットとして大切にしていることは?」


「最後まで飛ぶこと。勝つことより先に、それだ」


「いい言葉だ。実況で使わせていただきます。では、コ・パイロットのアリスさん。お若いですね。レースの経験は」


「レースは初めてです」


 アリスが答えた。バーナビーのペンが走る。


「初めて? それでストラトスに。なかなかの度胸ですね。フィンさんに誘われた?」


「いいえ、自分で出ると決めました」


「ほう」


「島でポスターを見たときから、どうしても参加したくて。フィンさんに無理を言ってお願いしました」


 バーナビーが目を細めた。


「いい話だ。使わせてもらいますよ、実況で」


「余計なことは言うなよ」


 フィンが低い声で釘を刺した。バーナビーは気にした様子もなく、にこにこしたまま手帳を閉じた。


「もちろん。事実だけで十分面白いんです。プライベーターの物語ってのは、大手のプレスリリースより血が通ってますからね」


 フィンは胡散臭げに目を細めた。


「ありがとうございました。レース、楽しみにしていますよ」


 そう言って隣の区画へ歩いていった。振り返りもしない。あの速度で全チームを回っているのだろう。


「……手強い人ですね」


 アリスが呟くと、マヌエラが眼鏡を押し上げた。


「実況屋は面白く伝えればいいと思ってるから。下手なことを拾われると面倒です」


「俺は何も言ってないだろ」


「だからです。黙っている人ほど、勝手に話を作られます」


「面倒だな」


 フィンは小さく息を吐いて、海図に目を戻した。



 ◇◇◇◇◇



 日が傾き始めたころ、設営の確認を終えたエンツォが、テントの入口に立って区画を見渡した。


「よし。明日の朝までに触るところはない。あとは参加確認が通れば、次は機体検査だ」


 ルナの整備班が順に手を洗い、工具を片づけていく。カリーナはガネットの傍で最後の点検を済ませ、浮きの係留を確かめてからようやくテントに入った。


「問題なし。明日も早朝に一回見るけど、今日のところは大丈夫」


「飯にしよう。食堂で食えるのも今のうちだ」


 エンツォが言った。


「宿の食堂、量はありましたし、味も悪くありません」


 ベアトリーチェが言いながら帳面を閉じた。


 全員が区画を出る中で、アリスだけがテントの出口で立ち止まった。

 振り返ると、ガネットが桟橋に繋がれていた。銀色の胴が夕陽を受けて、鈍い橙色に光っている。その隣にも、その隣にも、別のチームの機体が並んでいた。旗が風に揺れている。テントの幕がはためいている。遠くでエンジンの試運転の音がした。


(これがストラトス・グランプリ……)


 島のカフェで初めてポスターを見た夜。宝石を差し出してスポンサーになった夜。灯台を見失って何も言えなかった午後。紙とにらめっこして眠れなかった夜。全部が、この場所につながっていた。テントの下に並んだ工具も、燃料缶も、帳面の付箋も、ここで使うためにあった。


(……ここまで来られた)


 でも、まだ始まっていない。スタートラインにもまだ立っていない。


「何してるんだ」


 フィンの声がした。


「……この光景を見てました」


「食い損ねるぞ」


「はい」


 アリスはガネットに背を向けて歩き出した。桟橋の板を踏む音が、昨日より少しだけはっきり聞こえた。




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