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碧海のサルティーナ  作者: あんさん
第3章 挑戦
22/22

第22話 合流

第3章に入ります。


 北大陸の沿岸線が見えてきたとき、アリスは膝の地図板に到着時刻を書き込んだ。

 風は弱く、巡航は安定していた。海の色は、サルティーナの碧とは違う。深い灰青の水面が、低い陽射しを鈍く跳ね返している。


「フィンさん、ポルト・ヴァルナまで、あと十五分です」


「ああ」


 短い返事だった。アリスは前席の後頭部を見て、ペンを握り直した。

 高度を落としていく。やがて港が見えてきた。湾の手前で右へ回り、進入路に入った。港湾の煙突が見えてくる。その手前を、何機かの飛行艇が低く行き交っていた。

 桟橋がいくつも伸び、その両側に機体が並んでいた。白いの、灰色の、塗装の剥げたもの。整備用のクレーンが動き、燃料缶を積んだ台車が桟橋を行き来している。

 アリスは思わず風防越しの景色に見入った。サルティーナの港とはまるで規模が違う。


「……すごい港ですね」


「ああ」


 指定された桟橋の方角を、フィンは目で確かめた。一本隣の水路を抜けてくる艇との間合いを測りながら、ゆっくりと寄せていく。

 桟橋の端に、見慣れた人影があった。エンツォとベアトリーチェ。その後ろで腕を組んでいるのはカリーナだった。隣の桟橋には、三日月の紋章を腹に抱いた大型貨物機と、その奥に中型旅客機が並んで繋がれている。ルナの二機の方が一足先に着いていたらしい。

 フィンは桟橋の人影に目をやった。揃っていた。

 フロートが水面を切り、速度を落としていく。機体は緩やかに桟橋へ寄り、エンジンの音が一段下がった。



 ◇◇◇◇◇



 着岸して係留索を結び終えるなり、カリーナが桟橋を歩いてきた。

 作業服の袖を肘までまくり、手にはチェックリストを挟んだ板。エンツォとベアトリーチェがその後ろから続く。


「お疲れさま。長かったでしょ」


 カリーナはそう言いながら、ガネットの脇へ視線を走らせた。フロートの上に立っていたフィンが、片手で帽子を脱いで額を拭く。


「予定通りだ」


「それなら何より」


 軽く笑って、カリーナはアリスの方にも目を向けた。


「アリスもお疲れさま、順調だった?」


「……はい」


 地図板を抱えたまま頷いたが、声は少しかすれていた。長時間の集中の後で、自分の喉が乾いていることに今さら気づく。


「マヌエラとトーノは?」


 フィンが尋ねると、エンツォが顎で港の方を示した。


「昨日の夕方には着いている。今は宿で書類と工具の整理だ。夕方には合流する」


「向こうの旅客機は」


「うちの機体だ。サポートチームの移動用だな」


 フィンは桟橋の隣を見やった。ルナの機体と、その奥の中型旅客機。三日月の紋章が二つ並んでいる。

 ベアトリーチェがチェックリストの一枚をめくった。


「宿はこの先です。歩いて五分。狭いですけど、全員分は押さえてあります」


「助かる」


「夕食は宿の食堂でまとめて取る予定です。そこで明日以降の段取りを共有しますね」


 カリーナがフィンの方に向き直った。


「飛んでて気になったところは?」


「特にない。問題なく飛んできた」


「ならいいわ。明日、整備班に一通り見てもらうから、今日のところは係留しておけば大丈夫よ」


 フィンが片手で応じると、カリーナは板を脇に挟み直し、桟橋の縁を歩いて係留索の結び目を確かめた。

 ルナの整備班が、すでにスペアパーツの箱を桟橋に並べ始めていた。ピエトロが鼻歌を歌いながら荷を抱え、ジョバンニがその後ろで黙々と工具箱を運んでいる。


「荷下ろしはこっちで進めるから、二人は先に宿に行って休んで」


 エンツォが声をかけた。アリスが慌てて手を振る。


「お手伝いします」


「いいから。明日からのこと考えると、今のうちに休むのが仕事よ。私も一緒に行くから」


 カリーナにそう言われると、アリスは少しだけ俯いて頷いた。



 ◇◇◇◇◇



 桟橋を歩いて宿へ向かう途中、カリーナと並んでいたアリスは、自然と周りに目を向けていた。

 港にはたくさんのチームの機体が並んでいた。整備中の機体の前で工具を持って怒鳴り合っている男たち、書類を抱えて走っていく若い女性、燃料缶を積んだ台車を押していく作業員。どれもサルティーナの港では見ない光景だった。


(……みんな、これからレースに出るのね)


 そう思うと、足元の桟橋の板が少し遠く感じた。

 その時、横手の桟橋から聞き覚えのある声が飛んできた。


「あら、来てたの」


 顔を向けると、マリエッティが作業服の袖をまくり、自分の機体の脇に立っていた。コバルト・タイドの細身の機体が、夕方の陽射しを受けて鈍く光っていた。


「さっき着いて、チームと顔を合わせたところだ」


 フィンが短く返すと、マリエッティはこちらに向かって歩いてきた。


「うちは昨日の朝からよ。大所帯だから早く来て準備しないといけなくてね」


 苦笑しながらそう言って、アリスの方に目を向ける。


「アリス、元気そうじゃない。少し顔つきが変わったかしら」


「そう……ですか?」


「前に会ったときは、まだどこか迷ってる顔をしてたもの」


 マリエッティはくすりと笑って、アリスの肩に軽く手を置いた。


「ちゃんと飛んできたのね」


 短い言葉だったが、アリスの胸に小さく響いた。何と返していいかわからず、ただ頷くと、マリエッティはふっと笑って手を離した。

 その時、桟橋の先から長い影が伸びてきた。


「マリエッティ」


 声に振り向くと、白いシャツを風になびかせた男が歩いてくるところだった。歩き方には急ぐ気配がない。それでいて、視線だけはまっすぐにこちらへ向いていた。

 アリスは小さく息を呑んだ。前にサルティーナで顔を合わせて以来のエリオだった。


「久しぶりだな。機体は仕上がったか」


「ふふ、エリオに心配してもらえるなんてね。ええ、悪くないわよ」


「それは何よりだ。君もライバルの一人だからな」


「あら、光栄ね」


 マリエッティが軽く返すと、エリオは目線をフィンに移した。


「お前も準備はできたのか?」


「ああ」


 短いやりとりだったが、二人の間には言葉以上のものが流れているように見えた。フィンはそれ以上何も言わなかったし、エリオもそれ以上は続けなかった。

 すぐ近くで荷を運んでいた数人の作業員が、足を止めてこちらを見ているのに、アリスは少し遅れて気づいた。


「おい、あれ……銀翼の魔女じゃないか」


「誰だ?」


「知らないのか。前回初出場で入賞した女だ。あの異名で呼ばれてるんだよ」


「隣はエリオだろ。前回の優勝者だぜ。もう一人は誰だ……」


 声はそこまでしか聞こえなかったが、視線が集まっているのは肌でわかった。

 アリスは居心地が悪くなって、半歩だけフィンの後ろに下がる。マリエッティは慣れた様子で気にもせず、桟橋の向こうのガネットに目をやった。


「ところで、新しい機体、見せてもらえる?」


 すぐに歩きだそうとする彼女に、フィンが軽く頷き、アリスもその後を追った。エリオも後ろからついてくる。

 ガネットの手前で立ち止まったマリエッティは、機体を一通り眺めてから、口元を緩めた。


「ノーズの女神、可愛いじゃない。あなたがモデル?」


「ち、違います。あれは、カリーナさんがスポンサーの……」


 アリスの顔が赤くなる。マリエッティはくすりと笑う。


「サルティーナじゃ、幸運の女神って呼ばれてるんでしょう? 悪くないデザインだわ」


 エリオが横でわずかに口元を上げた。


「そうだな、機体に守り神がいるのは縁起がいい」


「からかわないでください……」


 アリスが俯くと、マリエッティが軽く笑い、エリオも肩を揺らした。フィンだけが黙っていたが、迷惑そうにはしていなかった。


「まあ、本番で会いましょう。空の上では容赦しないわよ」


 マリエッティはそう言って、自分の機体の方へ戻っていった。エリオも片手を上げて去っていく。

 アリスは頬の熱がまだ引かないまま、フィンの横に並び直した。


「……女神って、恥ずかしいです」


「飛んでりゃ気にする暇はないさ」


 フィンは前を向いたまま歩き出した。アリスは小さく息を吐いて、その後を追いかける。

 突き放すような言い方だったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。



 ◇◇◇◇◇



 宿は港から五分ほど歩いた、運河沿いの小さな建物だった。

 石造りの壁にツタが絡んだ古い宿で、看板の文字も剥げかけている。それでも一階の食堂は思ったより広く、奥のテーブルには既にマヌエラとトーノが書類と工具箱を広げて待っていた。


「お疲れさま」


 マヌエラが顔を上げて、フィンとアリスを見て小さく頷いた。トーノは工具箱から顔を上げ、軽く片手を上げる。


「無事に着いたな。よかったよ」


 部屋に荷物を置いてから降りてくると、テーブルにはすでに人数分の水と、薄く切ったパンが並んでいた。エンツォとベアトリーチェ、ピエトロら整備班も席についている。

 最後にカリーナがチェックリストの板を抱えて入ってきて、テーブルの端の席に腰を下ろした。


「全員揃ったわね。じゃあ、明日からの段取りを共有しましょう」


 その一言で、自然と全員の目がカリーナに集まった。


「明日がDay-2、会場オープンの日。搬入と設営をその日のうちに済ませる。明後日Day-1が参加確認。書類審査と、フライトブックや周波数の交付がここで一気に来るわ。Day 0が機体検査。ここまで全部通って、ようやくスタートラインに立てる」


 手元の板に視線を落としながら、カリーナは続けた。


「マヌエラ、明日の動きをお願い」


「会場の搬入受付は朝六時開始です。エンツォさんの整備班には朝五時半に荷を運び始めてもらいたいんですが、宿から会場までの動線、ベアトリーチェと一緒にもう一度確認してきました」


 マヌエラが手帳を開いて、書き込んだ手順を読み上げた。


「サービスエリアの区画番号は控えてあります。ガネットとルナの区画は並んでいるので、整備テントの設営はその場で。私はそのまま会場に残って、Day-1の参加確認に必要な書類受付の窓口位置と提出順を確認してきます」


 フィンは黙って頷いた。


「アリスは明日の搬入には立ち会わなくていいわ。会場の中をひと通り見ておいて、Day-1の参加確認の流れに目を慣らしておいてちょうだい」


「はい」


 カリーナは次にエンツォの方を向いた。


「ルナの機体と燃料の方は」


「燃料は各ビバーク地点に分けて先送り済みだ。前回の大会で燃料切れリタイアを何組も見たからな、そこは確実に押さえた。ルナの機体も、サポート用の旅客機も今のところ問題なし。明日の搬入でもう一度全部点検する」


「整備班の人手は足りてる?」


「足りてる。ただ、ガネット側に予備で二人回す。明日の設営で機体検査の準備までやっちまうつもりだ」


「お願い」


 カリーナはそれだけ言って、エンツォに小さく頷いた。


「フィン。明日は搬入に立ち会って、識別表示の最終確認だけお願い。それが終わったら、明後日の参加確認まで自由にしていいわ。アリスと一緒に会場の様子を見てきてもいい」


「わかった」


「フライトブックと周波数割当は明後日Day-1にならないと手元に来ない。コース情報も同じ。だから今日と明日のうちに、できる準備をしておく。それでいいわね」


 全員が頷いた。

 話が一段落ついた頃、ベアトリーチェが立ち上がって、宿の主人に夕食の支度を頼みに行った。残った全員の前に、湯気の立つ皿が運ばれてくる。魚の煮込みとパン、それに温かいスープ。サルティーナの味とは違う、潮と香草の入り混じった匂いが立ち上った。


「乾杯はどうする?」


 カリーナが水のグラスを手にしてフィンを見たが、フィンは首を振った。


「監督の仕事だろ」


 カリーナは少し驚いた顔をしてから、軽く息を吐き、グラスを掲げた。


「じゃあ……無事の到着と、明日からの段取りに。乾杯」


 全員が水のグラスを掲げ、それで一同は静かに食事に入った。

 しばらく誰も競技の話をしなかった。航路の天候、宿の湯のこと、領収書のこと、たわいない話が代わる代わる出ては流れていく。アリスはパンを千切りながら、テーブルを見渡した。サルティーナでは別々に動いていた人たちが、今夜は同じテーブルを囲んでいる。


(……ここまで来たんだ)


 胸の奥で、小さく呟いた。


 食事の終わり頃、エンツォが水のグラスを置いた。


「一つだけ言っておく」


 全員の目がエンツォに向いた。


「飛ぶからには一つでも上の順位を目指すぞ。パイロットは最後まで飛べ。サポートチームは命を預かっていることを忘れるな」


 フィンとアリスが目を合わせる。


「こっちは飛ばし続ける準備をする。機体も燃料も整備の手も、全部こっちで揃える。お前たちがやるのは飛ぶことだけだ。余計なことは考えるな」


「ああ、頼む」


 短く返したフィンに、エンツォは満足そうに頷いた。

 その隣で、カリーナが小さく笑った。


「明日は早いから、皆さっさと休みなさい」


「それ、監督の仕事じゃない?」


 マヌエラが横から口を挟むと、カリーナは肩をすくめた。


「だから言ってるのよ」


 軽い笑いが食堂に広がった。



 ◇◇◇◇◇



 食事が終わり、エンツォとベアトリーチェが先に部屋へ戻った。マヌエラが帳面を抱えて続き、トーノとルナの整備班も連れ立って引き上げていく。最後にカリーナが、もう一度だけ窓の外を確かめてから「お疲れさま」と短く言って去っていった。

 残ったのは、フィンとアリスの二人だけになった。


 食堂の窓は、運河の方を向いていた。

 夜の港はもう静まりかけていて、桟橋の灯りが水面に細く滲んでいる。風が止んでいるのか、揺れる波もごく小さい。アリスは窓辺に近づいて、しばらくその灯りを見ていた。


「……ここまで、来ましたね」


 しばらくしてから、アリスは静かにそう呟いた。


「ああ」


「サルティーナを発ったとき、本当に北大陸まで飛べるのかなって、まだ少しだけ不安でした。途中で、何度も地図を確かめて」


「気づいてた」


 短い返事だったが、責める色はなかった。アリスは小さく息を漏らして、窓の外に視線を戻した。


(……気づいてたんだ)


 胸の中で、ふっと笑った。


「明日から、本当に始まるんですね」


「始まってるさ。とっくに」


 その短い言葉に、アリスはフィンの横顔を見た。

 言われてみれば、サルティーナを発ったときから、いや、その前の特訓の日々から、もう自分はこの流れの中にいたのかもしれない。


「……そうですね」


 小さく頷いて、窓の外に視線を戻す。


「……怖い、というのとは違うんです。ただ、ここから先はもう、後ろを振り返っている暇がない、というか」


「そうだな」


 フィンはそう答えてから、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと続けた。


「振り返ってる暇は、ない方がいい」


 その声には、いつもより少し余裕があった。アリスは前を向いたままのフィンの横顔を見て、それから視線を窓の外に戻した。

 港の灯りが、ゆっくりと水面に揺れている。


「フィンさん」


「なんだ」


「エンツォさんが、最後まで飛べって言いました」


「ああ」


「あれは、私たちだけに言ったんじゃなくて、自分にも言ってたんだと思います」


 フィンは少し黙って、それから小さく息を吐いた。


「……そうだろうな」


 二人はしばらく黙ったまま、夜の港を見ていた。

 言葉がなくても、不思議と落ち着いていた。サルティーナでの慌ただしい日々も、北大陸まで飛んできた今日の長い時間も、全部この静かな夜に流れ込んでくるようだった。


「明日は早いぞ」


 やがてフィンが立ち上がった。


「はい」


 アリスも椅子から立ち上がる。

 部屋へ戻る前に、もう一度だけ窓の外を見た。明日からはもう、この景色を眺めている時間もないかもしれない。それでも、心の奥は、来たときよりもずっと静かに整っていた。


(いよいよ、始まるんですね)


 胸の中で、誰にともなく呟いた。

 明日から、本番に向けた数日が始まる。




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