第21話 壮行会
第2章最終話です。
二日ほどかけて、フィンは慣らしを行った。短く出ては戻り、反応の出方を確認し、おやっさんとセッティングを調整し直してはまた飛び立った。
そうして迎えた帰り、北大陸の港を出たのは朝のうちだった。
雲は高く、海は静かだった。離水のあと、すぐに巡航高度へ落ち着いた。
後席のアリスは、地図板を膝に置いて、出発時刻を書き込んだ。来たときと逆の航路。風は弱い北寄り。次の確認点までの予定時刻を書き、針路を読み上げる。
「針路、一八〇。次の確認点まで、一時間の予定です」
「ああ」
短い返事に、アリスは黙って書き込みを続けた。エンジン音だけが、しばらく機内を埋めていた。
海の色は来たときと同じだった。雲の高さも、流れも。だが、機体の鳴りだけが、はっきり違った。前は、もっと低いところで唸っていたが、今はもう少し高く澄んだ音が響いていた。振動も、来たときとは違う。
「フィンさん」
「どうした」
「……やはり音が、変わりましたね」
「変わったな」
「振動も少し荒々しくなりました」
「そうだな」
それきり、またエンジン音だけになった。アリスは時計を見て、次の予定時刻を書き足す。来たときと同じく風の向きを確認し、無線で方向を合わせる手順をこなしているはずなのに、ペンを持つ指の収まりが、来たときとは少しだけ違っていた。
「フィンさん」
「なんだ?」
「本番までに、何回飛べますか?」
「島に戻ってから、三日か四日だな」
「それだけですか……」
「不安か? 短く区切って、訓練の密度を上げるしかないだろ」
「そうですね、頑張ります」
アリスは頷いて、地図板の余白に、戻ってからの日数を書き入れた。横へ、こなしておきたい項目を並べていく。風の読み、通過点、燃料の見積もり。ペンの先がだんだん速くなっていくのを、自分でも止められなかった。
「フィンさん」
「ああ」
「私、新しいガネットのこと、まだあまりわからないです」
「俺もだ」
前席からは、フィンの後頭部しか見えない。それでも、声の響きから、軽く笑ったのだろうとアリスには分かった。
「だから、戻ってから一緒に覚える」
「……はい」
アリスはペンを握り直し、地図板に目を戻した。指先で次の予定時刻をなぞりながら、その下に、本番までの日数をもう一度書き直す。二人を乗せた機体は少しだけ力強く、南へ向かっていった。
日が高くなり、傾き、海の色が少しずつ変わっていく。雲の縁が金色に染まる頃には、見慣れた島影が浮かび、行きのミスを繰り返さなかったアリスは少し安堵した。
島影が近づく。着水へ向けて高度を落としながら、フィンは何度か機体の反応を確かめた。動きは前より明らかに速く、遊びも少ない。しかし悪いものではなく、力強いと思わせるものだった。
◇◇◇◇◇
戻ってからの数日、とにかく飛んだ。朝の海が白み始める頃に一本。昼前に一本。風が落ちる夕方にもう一本。一本ごとに課題が変わる。速度に慣れる。通過点を拾う。旋回に入る前に方向を詰める。
前の機体よりさらにひと呼吸速くしないと間に合わない。アリスはそれに食らいつくので精一杯だった。
「次、岬です」
「遅い、もう過ぎる」
「っ、次は——」
「その次まで言え」
言われて、アリスは唇を噛む。風の影響も少しは見てきた。地図もかなり読めてきている。だが、まだ足りない。
「今の速度なら、あと十秒早く読め」
「はい」
「考えてから言うな。見えた時点で二つ先を持っとけ」
「……はい」
着水して接岸し、降りる。水を飲んで、地図を開いて、さっき遅れた場所をなぞる。食事をかきこんで、また飛ぶ。その合間に、トーノのところへ機体を入れた。
「よく飛ばしてますね」
エンジンカバーを開けて中をのぞき込みながら、トーノが言う。
「飛ばして慣れるしかねえからな」
「慣れるのはフィンさんの方でしょう。アリスさんはどうです?」
問われて、アリスは少し言葉に詰まった。
「……まだ間に合いません」
「大丈夫っすよ。そのうち慣れます」
トーノは笑って、工具箱を開いた。
オイルを替え、冷却水を見て、各部を増し締めする。計器の固定を指で確かめ、配線の留め具を締め直し、にじんだ油を布で拭った。
アリスはそのあいだも休まず、地図を広げ、風を見て、計算を書き直す。飛んだ航路をなぞって、どこで遅れたかを洗い直す。フィンに聞いて、また書く。食後にも灯りの下で数字を追っていることがあった。
マヌエラはそれを見て、呆れたように肩をすくめた。
「この短期間でレースのナビゲーターを仕上げるなんて、正気の段取りじゃないのに」
「ああ、わかってる」
フィンは短く答えた。
「でも、止めないのでしょう?」
「本人の希望だからな」
「無茶を承知でお願いしましたし……」
アリスは地図から顔を上げ、まっすぐマヌエラを見て答えた。マヌエラは肩をすくめながら答えた。
「なら倒れない程度にやってください。倒れたらレースに出る前に終わりますよ」
「……はい」
そう言って去っていく背中に、アリスは小さく頭を下げた。
その後もフィンはひたすら飛ばした。後席で地図板を押さえたまま、アリスが短く息を吐く。
「……まだ、遅れます……ね」
「わかっているなら手を打て」
同じコースをもう一度なぞる。入る角度、引き起こし、次の目標。
「……もう一回」
もう一度、高度を下げながら加速する。エンジン音が高まり、風の音が高くなっていく。旋回のGで機体がきしみ震えるのを、アリスは座席越しに感じ取った。次の目標が視界に入ってくる、その一瞬を待たずに、自分の声が前席へ届いていた。フィンの手がそれに呼応するように動き、機体の収まりは、これまでより半拍分だけ素直に思えた。
旋回が終わり、いつものエンジン音が戻ってきた。フィンは前を見たまま言った。
「……ギリギリ間に合ったな」
フィンの声はそれだけで終わった。アリスは返事をする代わりに、強く息を吐く。胸の奥がまだ早鐘のように鳴っていたが、地図板を握る指の力は、さっきまでより少しだけ落ち着いてきていた。
港へ戻る頃には、もう日が傾いていた。
◇◇◇◇◇
その夜の壮行会は、港の酒場を一晩借り切って開かれた。ジュリアの店だけでは入りきらない顔ぶれが、今夜はひとところに集まっていた。
日が落ちる頃には、もう長卓の半分以上が埋まっていた。漁師も、工房の連中も、港の荷役も、いつの間にか手伝いに入った若い連中もいる。
「おい、主役はまだか!」
「酒は勝ってからだ、馬鹿!」
「じゃあ今のうちに飲んどけ!」
店の中は最初からうるさかった。ジュリアは皿を運びながら店の中を切り回し、マイケルは樽を抱えて笑い、マヌエラは隅の卓で最後の確認をしながらも、止める気はまるでない。周囲はどっと笑いさらに盛り上がった。
アリスはその喧騒の中で、最初こそ少し気後れしていたが、ジュリアに皿を持たされ、子供たちに囲まれ、立ち尽くしている暇もなくなっていた。
「アリス姉ちゃん、勝ってこいよ!」
「ま、まだ勝つかどうかは……」
「そこは勝つって言え!」
横からマイケルが囃し立て、さらに笑いが広がる。
フィンはその少し外れで、ジョッキ片手に騒ぎを眺めていた。ジュリアが隣へ来て、小さく肩をぶつけた。
「顔が硬いわよ」
「いつもだ」
「嘘。さすがに今日は少し違うもの」
そう言って、店の中のアリスを見る。
「彼女、とても頑張っていたものね、何とかなったの?」
「ああ。ほんとにぎりぎりだけどな」
それを聞いてジュリアはほほ笑むと、手にしていたグラスを卓に置いて、立ち上がる。
「はいはい、少し静かに」
ざわめきは消えなかったが、それでも近くの声がいくらか落ちた。
「二人は明日から北大陸に向かいます! 無茶をするのは分かってるわ。でも、行くなら最後まできっちりやってきなさい! 健闘を祈って、乾杯!!!」
おお、と声が上がり拍手が湧きあがり、杯がぶつかる音が一斉に鳴る。
杯が揺れ、声が重なるなか、マヌエラがフィンの肘を軽く叩いた。
「騒ぐのはいいけど、飲みすぎて朝に響かせたら承知しないわよ」
「マヌエラとトーノは別便で北大陸へ入るんでしょ?」
ジュリアが二人に確認する。
「そうよ、明日はちょうど定期便があるから、それで向かうわ。向こうでフィンたちと合流よ」
「そうなのね」
「貨物室はもうこりごりよ」
マヌエラの言い方に、ジュリアが笑った。トーノも肩をすくめる。ジュリアはアリスに向かい直した。
「いよいよね。今まで頑張ったのだから大丈夫よ。胸を張って参加してらっしゃい」
そう言うとグラスを掲げた。アリスも押されるようにグラスを持ち上げた。頬は少し赤い。だが目は、もう逸れていなかった。
ジュリアはぐるりと店を見回し、もう一度フィンたちを見た。
「ちゃんと帰ってきなさい」
その一言が、店の中に静かに残った。
ジュリアの声が店の喧騒の中へ溶けていくのを、アリスは少し下を向いて聞いていた。目の奥が熱い。瞬きをすると、視界の縁がぼやけた。
顔を上げると、長卓の向こうから子供がこちらを見て笑っている。マイケルが樽を抱えて何か叫んでいる。マヌエラはいつのまにか席を立って、トーノと何かを確認している。
……ああ、そうか。
胸の中で、アリスは小さく呟いた。今夜ここにいる人たちは、フィンを送り出すために集まっているのだと、ずっと思っていた。けれどそれだけではないのだ。
アリスはグラスを両手で持ち直し、もう一口、口をつけた。
◇◇◇◇◇
翌朝、港には見送りが集まっていた。まだ眠たげな空気の中でも、声だけはいつも通り大きい。
「忘れ物すんなよ!」
「向こうで変な喧嘩すんなよ!」
「それは主にフィンだろ!」
「違いねえ!」
好き勝手に飛んでくる声へ、フィンは片手だけ上げて応じた。アリスは隣で深く息を吸う。
「行くぞ」
「はい、フィンさん」
フロートが水面を蹴り、機体は空へと駆け上がった。朝の光を受けた航跡が後ろへ流れていった。見送りの声は、しばらく空まで追いかけてきたが、やがて風切り音と双発のエンジン音の中へ吸い込まれていく。
高度を上げながら、フィンは一度だけ眼下の島影に目をやった。アリスは地図板を膝に置き、ペンを握り直す。本番は目前に迫っていた。




