神官と温泉
私たちは現在小さな村の宿屋にいる。
「くあー、い、生き返る……!」
比喩だ、もちろん。しかし、顔中ゴブリンの体液だらけだった私にとってはまさに地獄からの生還といっても過言ではなかった。少しとろみのあるまろやかなお湯をぱしゃぱしゃと肩に掛ける。乳白色の湯っていうのがまた良い。首から下が見えないからたとえ中で大開脚してたって誰も分からないし。いや、していないけども。大開脚。
いやしかしお風呂って良いよな、本当に。温泉万歳!!
その村は天然温泉を観光資源としている小さな集落で、当初は立ち寄るつもりもなかったのたが、私が盛大に待ったをかけた。
もふもふ生物からの手痛い洗礼を顔面に受けて半ば死に体の女の子に、勇者はいつも通り面倒そうに言い放った。川の水で流せ? 手ぬぐいで拭え? ハッ、ご冗談を。きれいな水で贅沢に石鹸使って洗いたいと思うのは当たり前だろう女の子だもの。私は間違っていない!
そんなこんなで渋る勇者を先の戦闘での功労を盾に説き伏せて、ようやく町への立ち寄り許可を勝ち取った。ちなみにすべての元凶はそんな私たちのやりとりを終始不思議そうに首を傾げて眺めていた。くそ、可愛いから許す。
「はー……お風呂とかほんと、久しぶり……」
それもこれもみんな一匹狼(笑)の勇者のせいだ。さすがに何日も冷たい川の水で身体を拭くだけとか辛い。こちとら妙齢の女の子なんだぞ。
鼻の下まですっぽりお湯に浸かってぶくぶく鳴らしていると、ふとお湯が揺れた気配がした。驚いて顔を上げると、湯けむりの中に浮かぶ確かな人影を見つけた。
瞠目する。いつの間に人が来たんだろう。ぜんぜん分からなかった。
視界は湯気で真っ白でその人物の顔はよく分からないが、なんとなく、若い女性のような気がした。お湯がゆらゆらと波紋を作る。どうやら湯に身体を沈めたらしい。
(観光客、とかかな)
宿に着いたときは他の客の姿は見えなくて、観光地なのに妙に閑散としているなと思ったけれど、やはりそこは温泉地。温泉目当てのお客さんも多いのだろう。
温泉。そういえば勇者はいつ温泉に入るのだろうか。部屋を取ったあと、いきなり外に出て行こうとするのでせめてアルティスだけはきれいに洗ってからにしてくれと言ったら本気で嫌そうな顔をされた。私だってイヤだよ体液まみれ。乾いてかっぴかぴだし。あんたの犬だろうが何とかしろよ。私が洗おうとすると嫌がるんだよあいつ。どうやら伝説の聖獣はお風呂が嫌いらしい。
「良いお湯ですねえ」
びっくぅ!! 突如隣から上がった声に本気で驚いて固まる。喉の奥から「ひっ」だか「ぎっ」だか、変な音が鳴った。
そうだったほかにも人がいたんだったと顔を向けると、白いもやの中からころころと鈴を転がしたような笑い声が聞こえた。
「いやや、驚かしてしまいました? 堪忍ね」
ーー美しい女性だった。思わず、二の句をつげなくなるほどには。
乳白色の湯になお映える白肌は両の頬だけ薄く紅を落としたように赤く、艶やかな黒髪と同色の目が楽しげに細められる。こんな田舎にはなんとなく似つかわしくない、洗練された美貌。なんだこのひと。というかいつの間にこんなに近くに。
「ほんに、可愛いらし……。お嬢ちゃん、旅のお方? すこし、お話しましょ?」
口元に手を当てて笑う女の爪は、その唇と同じ真紅ーーって、お話!?
ちゃぷ、と湯が揺れる音がする。波紋が広がる。女が、さらに近づいてきたのだ。
お嬢ちゃんーーなまめかしい声だった。背中をざわりと撫でるようなその声に背筋が一気に泡立つ。う、うわうわうわうわ……!
「し、し、し、失礼しました!!」
ざばぁ! と水しぶきを盛大に上げてお湯から抜け出すと、そのまま女性の横をすり抜けてざっぱざっぱとお湯をかき分け逃亡を図る。ふと背後から「あん……いけず」と拗ねたような声が聞こえたが気にしていられない。命からがら脱衣所までたどり着き、ようやく深く息を吐いた。
びびび、びっくりした。なにあのとんでもない色気。女同士なのにドキドキしてしまった。「においたつ色香」ってのはああいうのを言うんだな。いやはや勉強になりました。
(そういえば、妙なイントネーションだったな)
手早く着衣を済ませながらふと思う。なんというか、不思議な話し方だったような気がする。訛り……なのだろうか。私は聞いたことがないけれど。
浴場を後にして宿屋の廊下を歩く。静かだ。というかやはり、静かすぎやしないだろうか。小さい町ながら、宿屋はここにしかないのだから、普通はもう少しお客さんがいても良いような気がする。誰ともすれ違わないし、今まで会った他の客といえばお風呂で出会った色っぽいお姉さんだけだ。
……ここって、本当に観光地なんだよね?
「きゅ」
ううむ、と腕を組みながら歩いていると、ふと下の方から聞き覚えのある高音の鳴き声が聞こえた。はた、と瞬いてその名を呼ぶ。今ではすっかり耳慣れた、もふもふ聖獣の無駄に愛らしい鳴き声ーーって。
「なんだそれ!!」
ぐわっと目を剥いて目の前のアルティスに叫ぶ。「なに?」と言わんばかりにきょとんとする仕草は文句なしに可愛いが、違う。いま大事なのはそこじゃない。もふもふ聖獣の命たるもふもふの毛皮が、なんだかバホッとなっていた。洗った後適当にタオルドライだけ施され放置されたんだろう。見るからにまだ湿っているし。いつものふわふわ感が無くなり、痩せた貧相な犬みたいだ。
ーーおのれ勇者め、あれほど洗ったらちゃんと乾かせと言ったのに!!
□□□
「きゅるっ、きゅ、きゅっ」
「ああもうちょっと、暴れない暴れない」
いやーん、と言わんばかりに身を捩って逃げようとするアルティスを押さえつけて膝に乗せ、ごしごしとタオルで擦る。きちんとタオルで拭いたあと温風をあてて乾かさなければ風邪を引いてしまうことだってあるんだから。聖獣も風邪を引くのかなんて疑問は受け付けません。
しっかり乾かしてブラッシングすればあら不思議、あっという間にもっふもふ聖獣の出来上がり。この手触り。うん、これこそ私のもふもふ聖獣! もう、勇者め。洗うだけ洗って放置しやがって。あいつは本当にアフターケアがなっていない。
「ありゃ、アルティスってば爪のびてるじゃない。引っかかったら危ないからね。切ってあげるね」
きゅーんきゅーんと悲壮な声で鳴いているが知ったことか。よじよじと隙あらば逃げ出そうとする子犬を両膝でがっちりホールドして無駄に伸びた爪も切ってやる。ぱっちん、ぱっちん。うーん、ようやくすっきりした!
短くなった爪を見てアルティスが何やらしょんぼりしているような気もするが、良いよね。爪のばしっぱなしにしとくほうが危ないもんね。のびすぎると歩行にも問題が出てくるって言うし。そうだ、よし。やすりもかけてあげよう!
さらなる不穏な空気を察したのか、アルティスがじたばたと腕の中で抵抗している。ふふふ、甘いわ。一回膝に挟んだものはぜったいに離さないからな。ふふふ。
『アルティス の こうげきりょくが 5 さがった!』