二度目の命は、コワモテ公爵様とともに
「痛い……、寒いよ……」
体の奥から絞り出すような私の声は、激しい風の音にかき消されていきました。
ここは『終わりの魔境』と呼ばれる、恐ろしい魔物たちが住む暗い森の奥深く。
衣服はボロボロに破れ、冷たい地面に倒れた私の体からは、もう指一本動かす力も残っていませんでした。
私の名前はリアナ。今年で十四歳になるはずでした。
生まれた時から孤児院で育ち、十歳の時に「お前を私の専属メイドにしてあげる」と言って近
づいてきた貴族の令嬢、イザベラ様に引き取られたのです。
それが、地獄の始まりでした。
イザベラ様は、私の心の中に隠されていた特別な力――触れたものの傷を癒やしたり、頭の中で思い描いたものを形にする『創造と癒やしの魔法』に気づいていたのです。
彼女は私を真っ暗な地下室に閉じ込め、毎日毎日、魔力を吸い取る魔道具を作るために私を酷使しました。
私の小さな手は、いつも傷だらけで血がにじんでいました。ご飯は一日に一回、固くなったパンの耳だけ。
そして十四歳になり、私の魔力が枯れ果てて使い物にならなくなると、イザベラ様は冷酷に笑
いました。
「もうゴミね。誰も行かない魔境へ転移させて、捨てておしまいなさい」
そうして私は、この危険な森へと魔法で無理やり飛ばされ、魔物に襲われて、今まさに命を終えようとしていたのです。
(ああ……、私の人生って、なんだったんだろう……)
薄れゆく意識の中で、私はもう一つの不思議な記憶を思い出していました。
それは、この世界とは違う『日本』という平和な国で、ものづくりや美味しいお料理をすることが大好きだった
大人の女性としての記憶――前世の記憶です。
転生というものをしていたのに、私は二つの人生のどちらでも、本当の幸せを知らないまま死んでいくんだ。
(もしも、もしももう一度だけチャンスがあるなら……。今度こそ、誰かに怯えることなく、温かい場所で、大好きなものづくりをしながら、のんびりと暮らしたいな……)
そんな叶うはずのない願いを胸の中で呟いた瞬間、私の視界は真っ白な光に包まれました。
「――おい、起きろ! いつまで眠っているつもりだ、この役立たず!」
鋭い怒鳴り声と同時に、バチンと激しい衝撃が私の体に走りました。
「ひゃんっ!?」
私は飛び起き、思わず自分の体を抱きしめました。またムチで叩かれるんだ、そう身構えたのです。
しかし、手のひらに触れた自分の体には、さっきまであったはずの魔物の爪痕も、ひどい火傷の跡もありません。
それどころか、着ている服はボロボロのメイド服ではなく、見覚えのある、つぎはぎだらけの灰色のワンピースでした。
「な、何をしておる。早く広場へ行く準備をせんか。今日はお前を引き取りたいという奇特な貴族様がいらっしゃる日なのだからな!」
目の前に立っていたのは、意地の悪い顔をした孤児院の院長でした。
私は唖然として、周囲を見回しました。そこは、カビ臭くて狭い、私が十歳まで過ごした孤児院の屋根裏部屋だったのです。
(え……? 私、死んだんじゃなかったの? 傷が全部消えてる……。それに、この部屋は……)
机の上にある古ぼけたカレンダーに目をやると、そこには私がイザベラ様に引き取られる『あの日』の日付が刻まれていました。
(まさか……私、時間を遡って、十歳の時に戻ってきたの!?)
いわゆる『回帰』という現象が、私の身に起きたのです。
信じられない気持ちでいっぱいでしたが、院長が私の腕を強引につかんで引っ張り上げたことで、これが夢ではないと確信しました。
(戻ってきたんだ……。でも、今日はお騒がせなイザベラ様が私を買いに来る日。このままじゃ、またあの地下室に閉じ込められて、ボロボロにされる未来が待っている……!)
恐怖で心臓がバクバクと激しく鐘を鳴らします。
私は必死で院長の手を振り払おうとしましたが、小さな子供の力ではどうにもなりませんでした。
私は引きずられるようにして、一階の広場へと連れて行かれたのです。
孤児院の広場には、十数人の子供たちが怯えたように一列に並んでいました。
私はその一番端っこに無理やり押し込まれ、頭を低く下げました。
髪の毛で顔を隠し、とにかくイザベラ様の目に留まらないようにと神様に祈り続けました。
(お願い、私を見つけないで。どこか遠くの、優しい農家の人とかに引き取られたい……!)
やがて、広間の大きな扉がギギギと音を立てて開きました。
私は恐怖で身をすくませました。
あの、高慢で冷たいイザベラ様の高笑いが聞こえてくるのを覚悟したのです。
しかし、聞こえてきたのは、地響きのような重い足音でした。
ドシン、ドシン、と、一歩歩くたびに床が揺れるような錯覚を覚えるほどの重圧感。
広場全体の空気が、一瞬にして凍りついたのが分かりました。
隣にいる院長が、ペコペコと何度も頭を下げながら、声をごまをするように震わせています。
「こ、これはこれは、レオンハルト公爵閣下! まさか我が孤児院のようなむさ苦しい場所に、直々にお越しいただけるとは夢にも思わず……!」
(え……? 公爵……閣下?)
聞き慣れない名前に、私は思わず泥で汚れた前髪の隙間から、そっと顔を上げました。
そこに立っていたのは、イザベラ様ではありませんでした。
それは、まるで大柄な熊が黒い外套を羽織っているかのような、とてつもない大男でした。
身長は二メートル近くあるのではないでしょうか。
鍛え上げられた体躯は岩のように頑丈そうで、腰には禍々しいほどに大きな剣を帯びています。
そして何より恐ろしかったのは、そのお顔でした。
短く刈り込んだ黒髪に、鋭く尖った琥珀色の瞳。
そして、右の眉の上から頬にかけて、戦場をくぐり抜けてきたことを物語るような、大きな一本の傷跡が刻まれていたのです。
周囲の大人たちからは『血塗れの熊』、あるいは『冷酷無比な戦争狂』と恐れられている、帝国最強の騎士――レオンハルト・フォン・ブラウエン公爵その人でした。
(ひ、ひえええ……っ!)
私は心の中で悲鳴を上げ、慌てて視線を床に戻しました。
イザベラ様も十分に恐ろしかったけ
れど、この公爵という人は、怒らせたら一瞬で首をはねられそうなほどの恐ろしいオーラを放っています。
レオンハルト公爵は、並んでいる子供たちの前をゆっくりと歩いていきました。
彼の鋭い視線が注がれるたびに、子供たちは泣き出しそうな顔で身を縮めます。
そして、その足音が、私の目の前でピタリと止まりました。
冷たい沈黙が広場を支配します。
私は床の木目を凝視しながら、息をすることさえ忘れていました。
(通り過ぎて……お願いだから、通り過ぎて……!)
しかし、私の願いは届きませんでした。
頭上から、地鳴りのような低い声が降ってきたのです。
「――お前が、リアナか」
「っ!?」
なぜ、私の名前を知っているのでしょうか。
驚きで顔を上げると、公爵様が私を見下ろしていました。
その鋭い瞳が、じっと私を射抜いています。
公爵様は、大きくてゴツゴツした手をご自身の顎に当て、ひとこと、こう告げました。
「よし。この子を私が引き取る。手続きをしろ」
「ええっ!?」
院長が驚きの声を上げ、私もまた、目を見開いたまま固まってしまいました。
(どうして……? 私はただの、魔力も目立たない貧相な孤児なのに。どうしてこの恐ろしい公爵様が、私を選ぶの!?)
前世の記憶と一度目の人生の記憶をどれだけひっくり返しても、このレオンハルト公爵と私に接点はありませんでした。
(もしかして……私の『創造と癒やしの魔法』のことが、もうバレているの? 兵器として、戦争の道具として私をこき使うために、連れて行くんだわ……!)
私は最悪の『勘違い』に囚われ、絶望で目の前が真っ暗になりました。
イザベラ様の地下室から逃れられたと思ったら、次は戦場という名の、もっと恐ろしい地獄へ連れて行かれるのだと、幼い私の心は完全に閉ざされてしまったのです。
孤児院を出てすぐに、私は公爵家の馬車へと押し込まれました。
押し込まれた、と言っても、乱暴にされたわけではありません。
公爵家の黒い制服を着た強面の御者さんが、まるでガラス細工でも扱うかのように、おどおどとした手つきで私を車内へと案内してくれたのです。
けれど、当時の私にはその気遣いすらも「逃げ出さないように監視されているんだ」としか思えませんでした。
馬車の内部は、驚くほど豪華でした。
ふかふかの革張りのシートに、美しい刺繍が施されたカーテン。
しかし、私の向かい側にレオンハルト公爵様がドカリと腰掛けた瞬間、その空間はまるで狭い檻のようになってしまいました。
公爵様が大きすぎて、馬車が心なしか傾いている気さえします。
ガタゴトと馬車が動き出しました。
孤児院が遠ざかっていくのを見ながら、私はシートの端っこで体を丸め、ガタガタと震えていました。
(怖い……。何をされるんだろう。逆らったら、あの大きな剣で斬られちゃうのかな……)
私の小さな手は、ワンピースの裾を白くなるほど強く握りしめていました。
一度目の人生での虐待のトラウマが、私の頭の中でフラッシュバックします。
叩かれる時の痛み、冷たい言葉、暗
い部屋。
新しい主人がこんなに恐ろしい人なら、きっともっとひどい目に遭うに違いありません。
そんな私を、レオンハルト公爵は無言で、じーーっと見つめていました。
その琥珀色の瞳は少しも動かず、じっと私を観察しています。
(ひぃっ、睨まれてる……! 何か機嫌を損ねることをしちゃったのかな!?)
私は恐怖のあまり、ポロポロと目から涙をこぼし始めてしまいました。
声を上げて泣くと怒られると思い、必死で両手で口を塞ぎ、しゃくり上げるのを耐えます。
しかし、この時。リアナには知る由もありませんでしたが、レオンハルト公爵の内心は、彼女の想像とは一ミリもかも違って、大パニックに陥っていたのです。
(な、泣かせてしまった……! なぜだ!? 私はただ、この子が怪我をしていないか、お腹を空かせていないかを見ていただけなのに……!)
実はレオンハルトは、極度の上手下手というか、人付き合いが苦手で不器用な男性でした。
戦場での癖で、どうしても無表情になり、目つきが鋭くなってしまうのです。
彼の頭の中は、今や大嵐のようでした。
(なんて小さくて、細い女の子なんだ。
私がちょっと触れただけで、骨が折れてしまうのではないか? 孤児院の院長め、こんなに痩せ細るまでこの子を放置していたとは、万死に値する
な。
……いや、まずはこの涙を止めねば。そうだ、子供には笑顔で接しろと、部下の騎士が言っていたな)
レオンハルトは、パニックになりながらも、精一杯の「優しい笑顔」を作ろうと試みました。
口元を少し上げ、目を細めようとしたのです。
しかし、その顔には恐ろしい傷跡があります。
彼が作った笑顔は、リアナの目には、獲物を前にしてニヤリと残虐に笑う『人食い熊の笑み』にしか見えませんでした。
「ひううっ……! ご、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
リアナはついに耐えきれず、シートの上で頭を抱えて縮こまってしまいました。
「あ……いや、私は……」
レオンハルトは差し伸べようとした手を、虚しく空気の中で止めました。
自分の大きな手が、
さらに彼女を怯えさせていることに気づき、彼は深くショックを受け、それ以上言葉をかけることができなくなってしまったのです。
こうして、二人の初めての旅路は、完全なすれ違いと勘違いのまま、重苦しい沈黙の中で進んでいきました。
数日間の馬車旅(公爵様は私が怯えるので、何度も休憩を挟み、最高級のクッションを敷き詰めてくれていましたが、私はそれも『逃走防止の罠』だと思っていました)を経て、私たちはつ
いにブラウエン公爵家の本邸へと到着しました。
馬車の扉が開くと、そこに広がっていたのは、まるでおとぎ話に出てくるような巨大で美しいお城でした。
白い石造りの壁に、色とりどりの花が咲き乱れる広大な庭園。
(ここが、私の新しい収容所……)
私は絶望的な気持ちで地面に降りました。
これから地下の魔導工房へ連れて行かれるのだと思い、ぎゅっと目を閉じます。
しかし、レオンハルト公爵様がメイド長らしき優しい顔立ちの年配の女性に命じた言葉は、私の予想を裏切るものでした。
「ハンス、この子を『太陽の間』へ案内しろ。それと、すぐに温かい食事を用意させろ。一番消化に良くて、栄養のあるものをな」
「かしこまりました、閣下。よくぞお帰りくださいました、小さなお嬢様」
メイド長のハンスさんは、私を見て優しく微笑み、そっと手をつないでくれました。
その手はとても温かく、私を叩いた院長の手とはまるで違っていました。
案内された『太陽の間』は、地下室どころか、公爵邸の中でも特に日当たりの良い、お姫様のようなお部屋でした。
ふかふかの絨毯が敷き詰められ、大きな窓からは美しい庭園が一望できま
す。
壁には可愛らしい小鳥の絵が飾られ、中央には私が四人くらい同時に寝られそうな、レースの天蓋付きのベッドが置かれていました。
「こちらが今日からあなたのお部屋ですよ、リアナ様。まずは旅の疲れを癒やしてくださいね」
ハンスさんはそう言うと、私を柔らかなソファに座らせてくれました。
私は混乱していました。
(どういうこと……? 兵器として使うなら、どうしてこんなに良いお部屋をくれるの? もしかして、最初に油断させておいて、後から絶望させるタイプの残酷な拷問……!?)
前世の知識があるせいで、変に深読みをしてしまい、私の疑心暗鬼は止まりません。
そこへ、部屋の扉がノックされ、若くて優しそうなメイドさんが大きなトレイを運んできました。
トレイの上から立ち上る、かぐわしい湯気。
そこに置かれていたのは、見たこともないほど澄んだ黄金色のスープと、白くてふんわりとした焼きたてのパンでした。
スープの中には、細かく刻まれた色鮮やかなお野菜と、柔らかそうなお肉がたっぷりと入っています。
「閣下からの伝言です。『お腹が空いているだろうから、遠慮せずにたくさん食べなさい』とのことですよ」
メイドさんが器を目の前に置いてくれます。
その瞬間、私の小さなお腹が「ぐうう……」と大きな音を立てて鳴りました。
恥ずかしさで顔が真っ赤になります。
そういえば、孤児院を出てから緊張のあまり、出された食事(実は高級な
お弁当でしたが)にほとんど手を付けられなかったのです。
(ど、毒が入っているかもしれない。でも……すごく良い匂い……)
前世の日本での記憶が、このスープの素晴らしさを理解していました。
これは、じっくりと時間をかけて鶏の骨やお野菜を煮込んで作られた、最高級のコンソメスープです。
一度目の人生では、イザベラ様が残した冷え切ったスープの残りかすさえ、飲ませてもらえなかったのに。
私は震える手でスプーンを握り、恐る恐るスープをすくって、口へと運びました。
「――っ!」
口の中に広がる圧倒的な旨味と、優しい温かさ。
お肉のコクとお野菜の甘みが溶け込んだ液体が、冷え切っていた私の喉を通り、お腹の中へと染み渡っていきます。
美味しい。信じられないくらい、美味しい。
パンをちぎってスープに浸して食べると、口の中でふわっと溶けて、夢のような味がしました。
それは、私の凍りついたお腹だけでなく、傷ついた心までをも、じんわりと温めていくような感覚でした。
「おいしい……、おいしいよぉ……」
気づけば、私の目から大粒の涙がぽろぽろと溢れ、スープの器の中に落ちていきました。
誰かが自分のために、こんなに温かくて美味しい料理を作ってくれたこと。
それを「食べなさい」と言ってくれたこと。
前世の記憶を含めても、私の人生の中で、そんな優しい出来事は一度
もありませんでした。
嬉しくて、切なくて、美味しくて、涙が止まらない私。
その時、部屋の扉が静かに開き、大きな影が部屋に入ってきました。
レオンハルト公爵様でした。彼は、泣きながらスープを食べている私を見て、一瞬ギョッとしたように足を止めました。
また私を怯えさせてしまうと思ったのか、近づくのをためらっています。
しかし、私はスープの美味しさに魔法をかけられたように、勇気を出して、公爵様を真っ直ぐに見つめました。
「こ、公爵様……。スープ、とっても、おいしいです……。ありがとうございます……」
弱々しい、けれど精一杯の感謝の声。
それを聞いたレオンハルト公爵は、目を見開いた後、ふっとその険しい表情を緩めました。
彼は長い足を動かして私の前まで歩み寄ると、ソファの前にドサリと膝をつきました。
私と目線を合わせるためです。
二メートル近い大男が、私のために小さくなっているその姿は、どこか
不思議で、少しだけ可笑しく見えました。
「……そうか。美味いか」
彼の声は相変わらず低かったけれど、不思議と、馬車の中のような恐ろしさは感じられませんでした。
公爵様は、大きくてゴツゴツした、戦いの傷跡がたくさんある手をゆっくりと伸ばしてきました。
私は一瞬、身構えましたが、目をつぶって待ちました。
やがて頭の上に載せられたその手は――
驚くほど、優しく、そして温かいものでした。
まるで、壊れやすい宝物に触れるかのように、そっと、そっと、私の泥で汚れた髪を撫でてくれます。
「リアナ。もう、お腹を空かせる必要はない。怯える必要もない。ここはお前の家だ。もう誰も、お前を虐げたりはさせない。私が、お前を守る」
その言葉には、嘘偽りのない、真っ直ぐな重みがありました。
(え……? 本当に、私をこき使うためじゃ、ないの……?)
公爵様の大きくて温かい手の温もりが、私の頭からじわじわと体中に広がっていきます。
それは、虐げられ、孤独の淵にいた私の心を、優しく包み込んでくれる魔法のようでした。
もちろん、一度傷ついた私の心が、これだけですべて癒やされたわけではありません。
「いつか捨てられるかもしれない」というトラウマは、まだ胸の奥に深く残っています。
けれど、この美味しくて温かいスープと、コワモテの公爵様がくれた不器用な優しさは、間違いなく私の閉ざされた心に、小さな、けれど消えない温かな灯りをともしてくれたのでした。
ここから、私の二度目の人生――コワモテのパパや、優しい人たちに囲まれた、新しくて幸せなスローライフが、静かに始まろうとしていたのです。




