青の鬼
「その名は捨てた。今の俺はただの人だ」
長くもない沈黙の後。
部屋の主であり、この家の主である男。そして何よりも、かつては青鬼と呼ばれていたその男は、そんな気の効かない台詞を雪女に返しました。
その言葉には様々な思いが込められていたのか、それとも既に何の感慨も抱く余地すらないほどに昇華されているのか。傍から聞いていた雪女には判別しきれませんでしたが、わずかにほんの少しだけ、青鬼と呼ばれた男の眉がピクリと動きます。
そのことに気付いているのかいないのか。雪女は男の言葉に、我が意を得たりと頷いて、再び口を開きます。
「知っています。幼少のころに母に何度もせがんで聞きましたから。友である赤鬼の願いを叶えるため、赤鬼が何の不安もなく人との縁を結ぶために、一計を案じ、望まぬ暴力に身を堕とし、己を悪とすることで異なる二者を結び付けた、およそ一般の鬼から外れ過ぎた異端の異形。その身は病を振り撒く鬼の身でありながら、その心はどこまでも情に厚い。鬼からも外れ、人からも外れ、堕ちた末に人の形をとったモノ」
「当人である俺ですら最早曖昧な過去だとなっているというのに随分と詳しいことだ」
女の謳うような説明に、男は嘆息をして返します。
その声には、呆れとも感嘆とも似ていない冷ややかな刃の気配が侵食していました。
それは確実に。触れれば切れる名刀の鋭さを聞く者に伝え、同時に心胆を凍えさせるものでしたが、生憎と頬を上気させて語る雪女には伝わっていないようで、なにやら嬉しそうに、寝ている男の布団をまくり、上半身を空気に晒させて近寄ってきます。
肌に服をつけていても伝わってくる身を切るような寒さに、青鬼は雪女にまくり上げられた布団をもう一度引き上げようとしましたが、それよりも僅かに早く、雪女が青鬼の腕を片手で捉え、布団の中に潜り込んできました。
今の二人の位置関係は、丁度布団の狭い空間の中で向き合う形になっています。
急な接近に男が停止していると、雪女は、カーテンの合間からわずかに漏れる月の光に照らして眺めるようにして男の腕を取ります。
そして何を考えたか、ふむふむと矯めつ眇めつするようにじっくりと眺めていきます。
「青鬼の肌の色は澄んだ空の色よりも鮮やかであると聞きましたが……なるほど。これならば納得ですね」
「……お前の目は節穴だな。これのどこをどう見れば空に勝る色に見えるというのだ」
取り敢えず何か言わなくては、この妙な雰囲気と目の前の女にからめとられてしまうという事を本能で察した男は、何の捻りもなく、そんなことを言いました。
しかし、それは男にとって悪手でした。
「ここを」
雪女は両手を持ったまま、器用に体を反転させます。丁度布団の中で横向きに寝て向き合っていた二人は、雪女が体を回転させたことで、男が雪女に背中から抱き着くような形になりました。
そして雪女はそのまま男の腕を自分の首へと絡ませました。
「こうですかね」
「は?」
男は、一瞬、思考が飛びました。
いえ、白一色に染まったという方が正しいかもしれません。男の脳は瞬間的にあらゆる感覚を受け取ることを拒否し、思考を凍結させて、目の前の事象を否定しようと躍起になって活動を停止しました。
しかし現実は無情です。
男がいくら現実から逃避しようとも、女が男の腕をまるで恋人のように抱いていることは事実であり、つまりこの体勢はどう言い逃れしようとも男が女を襲っているということにしか見えないという事です。
およそ三十秒ほどの停滞を経て、ようやく状況に復帰した男は腕を強引に引き抜いてしまおうと力を入れました。
ただ、雪女は男が力を入れ始めた途端、腕に絡みつくようにしてしがみついてきたので、どうも引き離せません。むふふー、とばかりに嬉しそうにしている雪女に対し、何となく声を掛けることが無性に癪に障ったのですが、背に腹は代えられませんでした。堪らず、男は女に声を掛けます。
「おい放せ」
「ふむふむ……これはやはりなかなかの色合いをしてますね」
「お前の感想なんぞ聞いてない。さっさと放せ」
「嫌です」
随分と殺気を込めていったのですが、男の言葉は柳に風とばかりに流されてしまいます。
しかも上手い具合に力加減に強弱をつけており、男は片腕ではうまく抜けることはできません。無論、全力で逃げようと思ったならば逃げられないわけもないのですが、今ここでそうやって逃げるというのは得体のしれない敗北感に襲われるようで、何とも気に障ります。
結果として、布団の中で雪女を引きはがしきれない青鬼という構図が出来上がってしまいました。
青鬼は、そのままでは埒が明かないと、とにかく言葉で雪女を撤退させることにしました。
「何故掴む」
「掴んでいると安心します。まるで日の光を浴びているかのような安心感に包まれます。お日様みたいなポカポカしたいい匂いです」
「お前らは日の光になど当たれないだろう! 感想など聞いていないからさっさと放せ!」
「お断りします」
男の言葉は、どうも雪女には届きません。
そればかりか、雪女はすりすりと男の腕に頬を擦りつけてくるようになっています。
ことこの段階に至って、流石の青鬼も、不味い、と感じ始めました。
既にして男の理性は限界に近い状態です。先ほどからかすめる肌の感触と、冷たさの中にどこか色っぽさを感じる体臭に、青鬼の体は意思に反して反応しています。ともすれば、このまま獣欲の限りを尽くして、女を壊しつくしてしまいたいと思ってしまうほどに。
いま雪女が果たして何ゆえにこんなことをしているのかは、男には想像すらもつきません。
ただ、この相手の手段の選ばなさや、雪女と鬼という種族自体の相性の悪さを考えてみても、雪女には何かしらの重大な目的があるに違いないと青鬼は確信しました。
つまり、雪女は最初から全力で攻めてきているわけで、最早敗北感云々などといっていると、自分の理性が焼き切られてゴロゴロと雪女の手の平の上で転がされている未来しか想像できません。
青鬼もことここに至って、適当に雪女の相手をするだけでは状況は改善しないと確信にいたり、先ほどの適当な殺気を改めて、今度は真剣な口調で雪女に問いかけました。
「雪女。貴様らは冬に属し、穢れを雪ぎ、人の領分を警告し、神域を護る守人の一族だったはずでは無いのか。それが何をしている? 堕ちた鬼と馴れ合っているだと? 何を考えているかはっきりしろ」
「回答が知りたいです」
「回答?」
男の質問は、雪女の冷厳な即答という形でもって返されました。
しかし、そのままでは男には、意味が分かりません。反射的に聞き返しますと、雪女はその格好とは合わないほどの真剣な口調で語り始めました。
「鬼。夜に住まい、邪に属する悪意の化身。男を殺し、女を犯し、子供を泣かせ、老人を喰らう。己の欲するところに忠実であり、あらゆる行為をその身に宿る暴力で補って、果ては病を振りまいて人々を脅かし、世に穢れと邪気を振りまく存在――――――――――なのに貴方はここにいる」
それは鬼という妖の存在根源。
鬼というものがいかなる理由にて生きているのか。もしくは存在しているのか。それを余すところなく語るのならば、その形を取るだろうという最適解。
悪逆非道の限りを尽くすその有様は確かに、鬼として知られるモノの生き方でした。
それはかつての青鬼も同じ。ただ、今の彼はそんな鬼とは違う。男は、どことも知れない場所へ言い訳をするような妙な居心地の悪さを感じます。
そして同時に、青鬼は雪女が自分に問いただしたいことを直感しました。
「別に。力を失ったからここにいるというだけのことだ」
「でも存在は失われなかった」
雪女は、寸分たがわず言葉を返します。まるで、青鬼の次の言葉が分かっていたかのように。
「ねえ? 青鬼様」
艶やかな月の光を艶やかに反射するその唇が開かれて、青鬼の耳もとへと囁きが届きました。
まるで呪言だ。いつまでも聞いていたいと思わせる魔性の声。青鬼はどこか遠くでそれを認識して。
ただ同時に、その声には雪女の言葉にならない淋しさのような感情が含まれているようにも感じました。
「瘴気と邪気にまみれた身体に情が宿ってしまったのなら、本当なら貴方は朽ちて、塵となり、風と消えなくてはおかしかった。なのにあなたは消えず、こうして人の中に住まうだけの形を持っている。私はそこに答えを知りたい。もしかしたらそれで母様を救えるかもしれない」
「……どういうことだ」
雪女に告げられた事実は、青鬼にとっては寝耳に水の出来事でした。
それは当然というものでしょう。かつては自分の天敵であり、それどころか妖たちの中でも異端と知れた雪女の一族が、まさかいつの間にやら滅亡の危機に瀕しているなどどうやって知ろうというのでしょうか。
まして、今の青鬼は、鬼としての往時の力を失った存在でありましたから、必然、他の妖たちも避けて生活していたため、そんな話など風のうわさにも聞くことは無かったのです。
最早いつの間にやら雪女が丸まって腕にすがりついていることなど意識の端にも登りません。青鬼はそんな信じがたい話をしてきた雪女への不信と事実だったらどれほどのことなのかという事を想像した驚愕に、雪女の話に耳を傾けざるを得ませんでした。
「雪女の一族は、世界が明るくなって、人が夜を畏れなくなって、世界が科学という剣で切り開かれ始めた時から、徐々に滅亡へと転がり落ちてきました。それは今もそう。いえ、むしろ時代が進めば進むほど、私たちのような夜に潜む存在は数を減らしています」
切なそうに。身を切るように。
痛みを堪えて告げるその声には、先ほどまでの艶めかしい色も、童子のような無邪気さもありません。
ただただそこにあるのは、何か大切なものを無力なままに失おうとする少女の悲痛な感情だけが取り残されていました。
「そのこと自体はいいのです。これが時代の流れというもの。古きが淘汰され、新しきに覆われていく。栄枯盛衰と生病老死は万物の常なのですから」
そのことは受け入れましょう、と雪の化生は続けます。
でも、と同じ口で女は続けます。
「努力し続けた母様たちが、何も報われずに滅びていくのはどうしても許容したくない」
「……」
それは、己の無力を嘆く少女のどうしても譲れない最後の一線。
何をしても、それだけは回避してみせるという覚悟を感じさせる声。
「ねえ? 青鬼様。どうか私に化生がその身に背負う業から解放する術を授けてはくださいませんか? そのためでしたら何だっていたします。目を千切れというのならそうしますし、抱かれろというのなら、抱かれます」
「……お前たちは、人を愛し、人の愛を受け入れれば人となれるのではなかったのか」
己を捨ててまで他を生かそうとする雪女に対し、答えの代わりに青鬼の語った話は、雪女の中でも有名な伝説。
人の男に恋をした雪女がその男と添い遂げたいと思ったとき、それが真実の愛で溶かされた結果ならば雪女は溶けた水たまりから人として生まれ変わることが出来るという奇跡。
業と欲望に従うだけの鬼等には与えられない、世界から厳しい責を背負った雪女達にのみ与えられた慈愛。
「……それでは救えません。一族のみんなも母様も、今の自分たちの窮地を作った人間となり、百に満たぬ時しか生きられぬのだったら、せめて雪女として最期まで在りたいと」
「ならば――――――」
青鬼はしばしの逡巡を経て、しかしはっきりと告げました。
「それを受け入れてしまえ。世の中というのは、あれも嫌だこれも嫌だといっていて通用するほどには上手くいくものでは無い。足掻く分には結構だが、生憎と俺はお前らを助けられるような秘策はない」
「――――――教えては、もらえませんか」
「そもそも、どうして俺が消えなかったのか、そのことを俺自身が分かっていない。……助けられる要因なんぞ、一つも思いつかない。しいて言えば、己の業に逆らうことをすれば変わるかもしれないという事しか言えん」
長い長い時を、一人で過ごした。
孤独に身をつままれ、己の業に従って居ればよかったと嘆いたときもあった。
青鬼だったモノは、己の半生というには長い時間へと思いを馳せる。
そこにあるのは深い悔恨と後悔。
力を失い、半端に寿命だけが残り、同じ時を生きる存在は一人も見つけられなかった孤独の日々。
果たして己の変質の原因は何なのか。それを探して諦めて、もう幾年が経ったことなのか
そんなあらゆる苦労を滲ませて、青鬼は丁寧に己の半生を雪女に語っていきます。
最後に、「これが俺の精一杯だ」と鬼は告げて。
「そうですか」
「そうだ」
とやり取りをかわしたきり、雪女も青鬼も語りません。
雪女がそれ以上催促しなかったのは、青鬼の言葉に感化されたのかそれとも青鬼の瞳の帳の昏さに、もの言わぬ説得力を感じたのか。
ただの傷のなめ合いのようなものだと男は感じましたが、それを言葉に出すことだけは何故か憚られるような気がして身じろぎひとつしませんでした。
そして雪女も、あえて動こうという気も起こさず、その後は静かにしゃべらなくなりました。
結局その晩。雪女が青鬼の布団から出ていくことは無かったのでございました。
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その吹雪の一夜が過ぎて、二日後の事でした。
その日は昨日から続く晴れのお蔭で洗濯物が実によく乾き、青鬼は実に上機嫌で家事にいそしんでいた時のことです。
家の玄関を掃除していると、外から来客を知らせるノックがしました。
誰であろうか? と戸を開ければ、そこにいたのは白の着物に身を包んだ一人の女の姿がありました。
見まごうこともなく、吹雪の時にやってきた雪女でした。
「なんの用だ」
「責任を取ってください」
唐突な雪女の言葉に対し、はて、責任? と青鬼は首をかしげました。
あの晩、確かに雪女は青鬼の布団にもぐりこんできて、そのまま朝まで一緒に眠ることになったわけであるが、そのまま何かをしたというわけでも無い。
これが一昔前であれば、女の方が何らかの悪評を受けてから行かず後家にでも妾にでもなってしまうというのが現実だったが、少なくとも今は自由恋愛が謳われて久しい現代である。
そのことは雪女も知っているはずであろうし、こうなると俗に女が男に言う「責任を取ってほしい」という定型文としては成り立たないはずであろう。青鬼の考えたことは、大凡このようなものでした。
なので心底不思議そうに、青鬼は問い返します。
「何のことだ?」
それを見た雪女の額に、青筋が浮かんだのは日の光の所為でしたでしょうか。
「雪女の業は―――――――魔を祓い、穢れを雪ぐことです。それは一族を通して変わることの無い不変の真理であり、摂理。生き物に取っての生理的な反応といってもいいほどに深く存在の根底に刻まれる行動原理。ですが今回、私は母を救い一族を救うために、本来ならば祓うべき貴方に逢って、危害を加えませんでした」
唐突に語られるのは、雪女という存在の行動原理。
果たしてそこにいかなる意味を含めていったのか。男には皆目見当もつかず、一体何が言いたいのだろうと普段は使わない頭を捻って考えました。
そして男は気づきます。
今は晴天で、日の光が降り注いでいるというのに、女は男の眼前に何でもないように立っていることに。
「おい……まさかお前……」
「今の私は雪女ではありません。そして同時に人でもありません」
男の確信をそのまま事実として刻むように、雪女は――――――否。雪女だったモノは、己の胸に手を当てて、まるでそれが大切なことを告げるかのようにはっきりと告げます。
それは何処か今までを懐かしむようでもあり、新しい世界を喜ぶようでもあり。
雪女だった時とは違う世界への、
「私は貴方と同じ存在です」
ですから、里からも追い出されてしまいました、と雪女だったモノはつづけます。
その姿は、どこかしら嬉しそうにも見えました。
青鬼だったモノはそれを聞いて、頭を抱えてしゃがみこみたい気分で一杯になりました。
まさか自分と同じものを創ってしまうことになるなんてという後悔と、これから相手を襲う孤独への同情。そして何よりも、自分に責任を取れといわれても、戻し方を知らないという事実に対してです。
ここで跳ね除けようと思えば、簡単に跳ね除けることはできるだろうとは考えます。ただそうなると、雪女の一族が「私たちの大切な娘を変えた癖に、戻せないとはどういうことだ」と理不尽にも乗り込んでくる予感がするというのが問題でした。
それでも一縷の可能性にかけて、眼前の女へと問いかけます。
「……それと、俺が責任を取ることの何が関係してくるんだ」
「既に同衾しましたし、そうなると他の殿方には娶ってもらえないだろうということで、娶ってください」
即答でした。
青鬼の脳は真っ白に染まりました。
「…………嫁だと!?」
叫んだ。
外聞など関係ないというように、全力で叫んだ。
否定してほしいという気持ちを込めて、全霊を込めて叫んだ。
今の時代、何もしてない同衾で、娶らないといけない訳でもあるまいという思いを込めて、青鬼は叫んだ。
しかし、雪女だったモノは嬉しそうに
「はい」
と頷いただけでありました。
――――――
その後、その集落には一組の夫婦が増えたという話です。
その出会いは史実に残ることもなく、伝承として遺ることもなく、伝説として独り歩きすることもない。
ただこれは、幼き頃より憧れた鬼を捕まえた一途な少女の話でありました。