雪の女
それは冬の夜、とある山の麓で起こったことである。
その夜は、一歩外に出ればすぐにでも視界が失われてしまうような、本当に今となっては珍しいほどの激しい雪が降り、とても暴力的な夜であった。
勿論外を出歩く人などおらず、そもそも人も少ないこの村落においては夜は基本的に寝静まる時間帯のことであったので、民家が立ち並ぶ場所であっても雪に包まれて物悲しい、まるで世界の終りのような光景が広がっていた。
未だ畑が町中に点在する村の中。そこは既に厚い雪が降り積もり、どこからどこまでが畑なのかなんてもう誰にも分からないほどに白一色に染まっていて、常には無い別世界が広がっていたのです。山が近いため、害獣避けの為に家々の十件に一件ほどは犬を飼っているのですが、犬たちも今晩ばかりは犬小屋では無く家の中にあげられて、外には本当に生き物一ついない世界であった。
その日の後、人づてに聞けた話では、その夜には村に二百ある民家の内、実に五分の一である四十件で何らかの家屋ヘの被害があったということだそうです。それほどまでに激しい夜でしたから、やはり自分の家に籠ってしまえば、どこかしら近所の家々で暮らしている人の気配が感じられる常とは違い、雪と冷気と暴風の音が日常を侵食していたのであった。
そしてそんな風に誰もかれもが静まる中で、集落のはずれにある瓦葺きで漆喰の壁の古民家に一人の来訪者があった。
「すいません」
家の主であり、唯一の住人である男が丁度玄関にいた時に、扉をたたく音と一緒に外から声がかかった。
「誰だ?」
「宿に困っているものです。恥ずかしながら、家を追い出されてしまったため、どうにか泊めていただけないかと思案していたところ、偶然にこの家を見つけましたので、せめてどこか雪を凌げるところにでもおいていただけないかと思いお尋ねした次第です。頼れる縁戚もおらず、友もおりませんので、ここに置いていただけるとありがたいのですが」
男が一言問えば、帰ってきたのは実に懇切丁寧な説明とお願いです。
果たしてそれが本当かどうか男には判断できなかったのですが、その声を聞く限り、女であるようであったので、まあ何かあってもどうとでもできるだろうと、深く考えることもなくその人を招き入れることにしました。
懐に入れていた手を伸ばして、鍵を上へ引き上げます。
「……まあいいだろう。鍵は今開けた。勝手に入れ」
男がそう告げた途端、ガラガラと引き戸が開いて一人の女の姿が見えました。
それは今の時代には珍しい、くるぶしまである長く白い着物を着た女性でした。
足は雪駄を履き、しっかりと帯で着物を止めてある姿にはあちこちに雪が被っています。
しかしそれ以上に彼女の流している髪は白く、純白を思わせる、これ以上なく白の似合う女でした。
しかし男は、そんな時代錯誤な女の美しさを一瞥するだけで、特に深く感慨を持つこともなく背中を向けました。
そのままついて来い、と指だけで伝え、廊下をのそのそと歩いて行きます。
女も慌てて雪駄を脱ぎ、その後ろをついて行きました。
「そっちが台所。そっちが風呂。後は布団がそこの奥に入ってるから自分で出してから適当に雑魚寝で我慢してくれ」
廊下から少し入ると、すぐにそこは居間となっていました。
男はそこで別々の方向を指さしながら家の間取りを説明し、自分はというと部屋の左手にあった障子をあけて、奥の方へ引っ込もうとします。
堪らず、女は尋ねます。
「いいのですか?」
女の戸惑った言葉には、果たして自分をこの家に置いてくれるのか、得体のしれない女を一人で家の中に放置していてもいいのか、といった様々な疑念が含まれていたのですが、
男は、
「別に盗まれて困るものは無い。俺は寝る」
とだけ告げて、奥の部屋に引っ込んでしまいました。
その後二分もすれば女が立ち尽くしていた場所には、男のものらしきいびきの音が響いてきました。
結局女も、その立ち尽くすばかりではどうしようもないので、勝手に動くことにしたのでした。
―――――――――――――――――――――――――
夜半。
草木も寝静まる丑三つ時と、かつてより語られる夜の時間。
男の眠る部屋に、侵入者の影が。
スススッと。床に裾を擦ったようなすり足をして部屋の中央を目指す白の人影。
それは、男が家に上げた女でした。
無言で、しかし顔をこれ以上ない位に真っ赤に上気させて、こっそりとひっそりと部屋の主に気取られないように歩きます。
そして床に直接引いてある布団の傍まで来ると、両足をそろえて綺麗にしゃがみこみました。
「何の用だ」
いつの間にか起きていた男が人影――――――否。女に向かって冷たい声を掛けました。
触れればヒヤリ、とするようなものを感じさせるその声音に女はひるむことなく返します。
「宿を貸してくださったお礼に」
そう言って、白の着物を胸元からはだけた女の顔が寝ている男の傍へと近づいていきます。
しかし、男は表情一つ動かす素振りも見せませんでした。
「いらん。帰れ」
あまつさえ、冷たい一言を言い放ちます。
しかしその男のつれない態度に怯む様子もなく、女はスルスルと男の寝ている隣に膝をついて、顔と顔を近づけていきます。
あと少し。もう三センチも進んでしまえば、顔と顔がくっついてしまうような、そんな至近距離。
「私には魅力はありませんか? 泊めるための宿賃代わりとして、私の肢体を思いのままに貪ることは対価になりませんか? どうせ家族にすらも捨てられた憐れな女。一晩の慰めとでも思って抱いてくださいませんか?」
ダメ押しとばかりに告げる女の声は、蠱惑的でひどく官能的でした。
ともすれば、何の理由が無くとも、その声を聞いた男を狂わせて、虜にしてしまうのではないかと確信を抱くほどの艶美な声。
みずみずしさを感じさせる白い肌に浮かぶ、赤い朱の麻薬。
それを見た芸術家が、己の腕の低さを呪うほどの、甘く濡れた眼差し。
およそ人間の男であれば、耐えられたものではありません。その姿を見れば、どんな紳士であろうとも、すぐにでも飛びついて襲い掛かったことでしょう。
ですがここにいた家主の男は、身の内から湧く己の欲望に負けることなく耐え切りました。
それはやはり、男が一つの事実を知っていたことが大きいでしょう。
「その嘘くさい芝居を止めろ――――――――雪女」
億劫そうに、気だるげに。
己の身の内にひそむ暴力を見ない振りしたように。
しかし、平静を装う以上に、遥かな確信を声に込めて、男は女へと向けて言葉を放ちました。
するとどうでしょう。
今の今まで、人を誘い込むような雰囲気を醸し出していたその女は。
それまでの雰囲気とは対象の、見る者の理性をドロドロに溶かす雰囲気ではなく、見る者を凍らせる冷徹な気配へとゆるゆると変化していきます。
水であってもここまで簡単には冷え切らないであろうと思われるほどの速さで纏う空気を変えたその女――――――雪女は、男が気づいたことが面白いといわんばかりにクスクスと笑っていました。
その姿は童子にも見えましたし、男を誑かす悪女にも見えました。
「一体いつから気づいていたんでしょう? 今後の参考までに是非ともお聞かせ願えると嬉しいのですが」
「この時代。こんな辺鄙な田舎にお前のような輩がいるか。百歩譲って格好までには目を瞑ってやるが、今の世の中でお前くらいの年の人間は、大抵において、家から捨てられたら見ず知らずの他人を頼ることに気付く前に野垂れ死んでいる」
「あらあら。それはまた、何とも悲しい意見ですね」
そういって、またクスクスと笑う雪女。
隙を与えないようにできうる限り早く相手の言葉に応えた男は、その目論見道理に会話が途切れた瞬間を狙って、さっさと雪女にこの部屋を出ていくように告げました。
「……私のことを追い出さないのですか?」
「面倒だ」
可能な限りそっけなく。相手に向ける言葉はできる限り短く。
雪女とは、伝承に語られる中、男の精を搾り取って憑り殺すという話もあります。
それはつまり、今一時、己の溶けてグズついた理性の囁きを無視して、己の望むところを暴走すれば、眼前の捕食者に殺されてしまうかもしれないということでもあります。
言葉に僅かでも情欲に支配された色を見せれば、相手は好奇とばかりにやってくるかもしれない。そんな警戒心こそが、今の男のそっけない態度を表しているといってもいいかもしれません。
何よりもまず、この現代において、未だに自然に近い生活を営む男にとっては眼前の女の気配を見間違うことはありませんでした。
これは捕食者だと。
だからこそ、男は軽い様子で、女を跳ね除けようとしました。
しかし、それはどうやら逆効果のようだったようです。
据え膳食わぬは男の恥、との言葉とはいいませんが。己に自信を持った女に対し、色仕掛けまでしてきたというのに気のない素振りを見せてしまえば、それは女の矜持を傷つけることに他なりません。
案の常、というべきか。雪女といわれた白の女も、世にいう女性の範疇に含まれたようで、その柳眉を逆立てて男のことを睨みます。
男としてはその反応の意味はさっぱり理解できませんでしたが、それでも相手が怒っていることくらいは理解できました。
そして家主の男以外の男であれば、雪女の込められた視線の意味を間違ってくみ取ったでしょう。
そして大部分の女性であれば、雪女の瞳の内に、昏い感情が渦巻いていることに気付いたに違い有りません。
だけれどもしかし。
本当にごく限られた、わずかな数しかいないほどのとても優れた観察眼を持つ女性でなくては、その雪女の瞳に込められた底の深い場所に眠る意思の全てには気づかなかったに違いありません。
そして雪女は、己の期待に応えない不誠実な男へ向けて言葉を言い放ちます。
「それは私程度など脅威にはならないという事ですか? それとも私のことなどどうでもいいということですか? 己を脅かすまでの危険すら感じないと? 答えてください――――――――――――青鬼」
雪女の艶やかな口から飛び出したそれは、男――――――青鬼へと、挑む言葉でした。




