〒003−0005
結局郵便局へ戻ったのは、夕方を過ぎた頃だった。
「おかえりなさい、お疲れ様」
「ただいま」
ドアを開けると、いつものように羽月ちゃんが顔を上げた。そしてその顔が怪訝な表情に一変する。
「どうしたのそれ。……まさかまた?」
「いやー、成り行き上仕方なく……」
力なく笑う僕の手には、雨咲さんの編んでいた白いマフラーと、彩音さんからの青い写真立てが握られている。手紙はいつものようにジャケットの胸ポケットだ。
「口酸っぱく言ってるじゃない、未練に深く関わると心が壊れちゃうわよって。なのになんで?」
「うーん、タイミングの問題かなぁ」
小言を呟く羽月ちゃんをかわして、自分の机に向かう。そして一番目立つ小さな引き出しの上に写真立てを飾った。
まるで小鳥が自分の机に止まって鳴いているようで気に入った。思わず頬が緩む。
「ちょっと夕詩くん、聞いてるの?」
そんな僕の表情を見てか、羽月ちゃんが眦を上げる。
「羽月ちゃん、頼みがあるんだけど、いい?」
笑顔でそう言うと、羽月ちゃんはうっと怯んだ。勢いを削がれて怒る気力をなくしたらしく、
「……なに?」
僕はマフラーを差し出す。不思議そうな彼女の顔がちょっと面白い。
「これ、届けて欲しいんだ。今淵彩音さん宛に、雨咲遠子さんから」
途端、彼女は烈火のごとき勢いで再び怒り出した。
「だから! わたしが! なんのために! 怒ってるか! わかってるの!?」
びしびしと僕に指をさしながらこっちへ向かってきたその勢いに、僕は後ずさった。こ、怖い……。
よく通る声でそんなに叫ばれると、迫力が桁違いだ。
「わかってるよ、心配してくれてるんでしょ!」
負けじと僕も叫び返す。でも、羽月ちゃんは止まらない。
「心配してるわよ、当たり前でしょ同僚なんだから! 確かに夕詩くんの言い分もわかるわ、だって夕詩くん優しいものね。でもね、もう少し自分のことも考えてって言ってるの!」
「僕なら大丈夫だって!」
「その根拠のない自信がいつか崩れちゃったらどうするの!?」
歩み寄っていた彼女と僕の距離はもう拳一個分もない。僕の後ろには真っ白な傷一つない壁。
追い詰められた。絶体絶命。蛇に睨まれたカエル。
真っ直ぐに見つめてくる漆黒の瞳としばし見つめ合う。
ああ、そういえば以前、前島さんにも同じことを思った時があった。頭の片隅でそんなことをちらりと思ったその時、羽月ちゃんはパッと身を引いた。
諦めたような表情でため息をひとつ。そして、暗い声で言った。
「届けるわ、届けるわよ、仕事だもの。でもね、」
あ、ここでその表情はずるい。
一瞬だけど、泣きそうな顔になった。
「絶対に未練に取り込まれたりなんでしないでよね。私、夕詩くんがいなくなるのは嫌だから。だって寂しいもの」
「……うん」
羽月ちゃんは僕から拍子抜けするほどあっさりマフラーを受け取り、郵便手続きを始めた。
さっきまでの目まぐるしい展開とは一変、いつも通りに、ううん、いつも以上に静かになった受付内の居心地が悪くて、僕は首筋を掻いた。
「どうしたー? 騒々しかったけど」
この場に似合わないほど能天気そうな嗄れ声が聞こえて、僕は顔を向けた。
局長室に続く廊下から、にゅうっと顔だけ出した前島さんにも、空気の悪さは伝わったらしい。
姿勢のよかった背中を少しだけ丸めて僕に近づき、そっと耳打ち。
どうしたの。
いや、怒らせちゃって。
あーあー、羽月と喧嘩すると長引くよ。あいつ、頑固だし絶対自分から謝らないから。
うーん、喧嘩、なのかな?
意見が食い違ってたら喧嘩だよ。……今日も見たんでしょ?
……よくご存知で。
黙々と作業を続けていた羽月ちゃんがいきなり立ち上がったので、僕と前島さんは小さく飛び跳ねる。
「私、今日は帰るわね。……お疲れ様でした」
「う、うん、気をつけてかえりなよ」
「お疲れ様ー……」
二人してぎこちなく手を振り、彼女を見送る。細い背中が外に出て行ったのを見届けて、同時に息をついた。
「とにかく、謝るなら早めに謝っときなよ。時間が空くとますます険悪になるよ」
「えええ、あれ以上怖くなるんですか」
「怖い怖い、非じゃなさ。それから」
前島さんはさっきの羽月ちゃんによく似た、真っ直ぐな漆黒の瞳で僕を見据える。
「自分の意見もしっかり言っておきな。いい機会だ、違う考え方を取り入れるのも大事だよ、あの子にとっても、君にとってもね」
その力強さと年長者らしい包容力に僕は縦に首を振ることしかできなかった。
☆
「やあ、お疲れさま。……遅かったね」
カフェ『柘榴』のドアを開けると、朝樹くんの爽やかな声が出迎えてくれた。
非難よりも労いの言葉を最初に言ってくれるところが、何とも彼らしい。
それが申し訳なくて、僕はドアを閉めるよりも先に深く腰を折った。
「ごめん! 予想外に時間を使ってしまいました」
もともとの約束は夕方だった。でも、もうとっくに日は暮れていて、あたりには闇が広がり始めてだいぶ経つ。
「いいや、大丈夫だよ。予想外の出来事ってものは、いつでも起こりうるものだからね」
そう言う朝樹くんは、もうトレードマークのギャルソンエプロンを外している。
「……まぁ、もう少し遅かったらお店閉めるところだったけどね」
少しだけ視線を僕から外してそう呟いたのが、心に刺さる。ううう。
小さくなってカフェの扉をくぐる。すると、朝樹くんがポンと肩を叩いた。
「気にしないでってこと。ほら、座って。すぐ用意するから。お腹空いてるんでしょ」
いつものようにカウンターの左隅に促されて、ストンと腰を下ろした。朝樹くんが厨房に入っていく。
エプロンをつけたと思ったら、彼の長い手足が踊るように厨房を行き来する。ああ、包丁を握るだけでもあれだけ優雅な男性が、他にいるのだろうか。少なくとも僕は朝樹くん以外にそんな人を知らない。
僕は料理ができないという訳ではないが、そんなにうまくない。だから、朝樹くんみたいに何でもパパッと作れる人が羨ましい。
彼曰く、「料理なんて鍋に材料入れて焦がさないように煮込めば、誰でもできるんだよ」……それでもマズくなるのは天性の才能ってやつですかね。誇れない才能だ。
普段はお昼に来るからか、吃驚するほど静かなのが新鮮だ。いつもは気にならない、お冷やの氷が動く音がよく響く。
ふと思って、目を閉じてみた。視覚が完全にシャットダウンされて、周りの状況をつかむためには聴覚、そして触覚しか頼れなくなる。
ジューという何かを焼く音が止まった。液体を入れたのだろう、弾けるような音。続いて、お玉がフライパンに当たっているのだろう、カンカンという金属音。そして微かに空気の流れが変わった。誰かがこっちに向かってきている……。
「夕詩くん? 寝てるの?」
「いやいや、起きてますよ」
ゆっくり目を開けると、朝樹くんが立っていた。クリームパスタの大皿を、いとも容易く片手で持っている。
彼は柔らかく笑うと、トン、と皿を僕の前に置いた。勿論フォークもきちんと添えて。
「どうぞ。新作、秋の味覚のクリームパスタ」
いい匂いが鼻をくすぐる。ほんのりとしたバターの匂いだ。
秋の味覚というだけあって、キノコがこれでもかというくらい使われている。所々に見え隠れするベーコンのピンクと人参のオレンジ、ブロッコリーの緑が何とも美味しそう。
「いただきまーす!」
ぱくりと一口。うーん、美味しい!
よっぽど締まりのない顔をしていたのだろうか、朝樹くんに小さく笑われた。
彼はカウンターの向こうから回り込んできて、僕の隣に座った。ヘアゴムをするりと取って、一度頭を振る。すると、色素の薄い長い髪がふわりと舞い上がって、また柔らかく彼の背中に戻ってきた。
「……なにかあった?」
僕の方に目だけを向けて、そう訊いてきた。
思わずフォークが止まる。……なんでわかるのかなぁ?
「……ちょっとね」
朝樹くんはカウンターに肘をついた。このポーズの彼はたぶん、テコを使っても動かない。完全に僕の話を聞く体制だ。
「仕事絡みだよ。いつもみたいにお節介が過ぎちゃって。そのことで仕事仲間と、ちょっと」
たぶん、初めての喧嘩だ。
僕が入社してから羽月ちゃんはずっと気をつけな、って言ってくれていた。それに耳を貸さない僕も僕だ。改善の見込みが全くないように見えていただろう。
でも、やっぱり何もなくそのまま終わっていくのは寂しい。受け取って読むだけじゃなくて、来藤さんや雨咲さんみたいに、待ち望んでいたんだからこそ、誰かに伝えたい事だってあるだろう。
そんな想いの捌け口になれたら。溢れる涙を見守るだけでも、側にいるだけでも救われる思いだってあるのに。
そうやって思っていても、周りが妙に心配してくれるものだから、たまに不安になる。
「僕なんかがいたところでどうにもならないっていうのはわかってるよ。力になりたいっていうのも、もしかしたら独りよがりで相手には迷惑かもしれない」
力なく笑う僕に対して、朝樹くんはふうん、と相槌を打つ。切れ長の目が小さく揺れた。
彼はそんな僕をしばらく見つめてから、ため息をひとつ付いた。そして、僕の頭にチョップを一発。
「わ、びっくりした。なんだよ急に」
痛くはなかった。そこは彼の優しさだろう。
思わず叩かれたところを抑えると、朝樹くんは少々呆れたように答えた。
「ネガティブはダメだよ。夕詩くんのそういうところに救われる人が絶対いるんだから。そんなこと言ったらその人に失礼だ」
そこまで言って優しく笑う。
「どうにもならなくなんてないよ。いつかきっと、その成果が帰ってくる。それは明日かもしれないし、一週間後かもしれない。もしかしたら十年後かも。だから、気長に待ってなよ」
……ああ、もう。本当にいい友人だ。
何があったのかは聞かない。それでも、僕を元気付けてくれる。
朝樹くんの言葉がじんわりと胸に広がっていって、暖かいものがお腹まで落ちていった気がした。
「……ありがと」
「どういたしまして」
彼の綺麗な笑顔がその時の僕には太陽みたいに見えた。




