第2話:緑の包帯を巻いた男
北の地は、誰に対しても優しくはなかった。
ケンジが太陽の里を後にしてから、すでに数日が過ぎていた。進めば進むほど、道は狭くなり、寒さは増し、周囲から音が消えていった。
眠る場所は、その場その場で見つけるしかなかった。ねじれた木の根の下や、昼間の熱をわずかに残した岩陰。食べ物は、自分で狩った獲物で何とかする。だが、火を起こそうとしても、半分以上は制御を失ってしまう。
祖父から受け継いだ二本の剣は、一歩進むたびに背中へぶつかった。
手首の腕輪が肌に触れるたび、ケンジは思い知らされた。もう自分には、帰る家も、家族もいないのだと。
残されたものは、ただ一つ。
北の山々。そして、祖父フジが最期の息とともに名を告げた男。
ようやく道場が見えた頃には、太陽が山々の向こうへ沈みかけていた。
建物は黒ずんだ木材で造られ、背の高い松林の中にひっそりと隠れるように建っていた。屋根には穴が開き、正面の庭は伸び放題の草や雑草に覆われている。
とても達人が住む場所には見えなかった。
むしろ、誰かを迎えることなどとうに諦めた人間の隠れ家のようだった。
ケンジは戸口の前で立ち止まり、深く息を吸った。
そして、扉を叩いた。
返事はない。
もう一度、今度は強く叩いた。
しばらくして、扉がゆっくりと開いた。まるで、開くこと自体を嫌がっているかのようだった。
そこに現れた男は、旅の間にケンジが想像していた人物とは、まるで違っていた。
黒い長髪を乱雑なポニーテールにまとめ、額には何本かの髪が垂れ下がっている。顔には細い傷跡が刻まれていた。
首も、前腕も、手の甲も、露出している肌のほとんどが包帯で覆われていた。包帯には、きれいなものもあれば、古びた黄色い染みが浮いているものもある。
胸元の開いた、色褪せた緑色の着物を身にまとっていた。
目は充血していた。長い間眠っていないのか、それとも、つい先ほどまで泣いていたのか。
男は笑顔一つ見せず、ケンジを頭から足先まで眺めた。
「お前、いったい何者だ?」
ケンジは背筋を伸ばした。自分でも意外なほど、しっかりとした声が出た。
「ケンジです。太陽の里から来ました。フジの弟子を探しています」
その名を聞いた瞬間、男の表情がわずかに動いた。
ほんの一瞬、痛みのようなものが顔をよぎる。
だが、それもすぐに消えた。
男は身を横にずらし、道を開けた。
「入れ。この時間の風は肌を切る」
ケンジが中へ入ると、そこで初めて、道場の中の惨状が目に入った。
床には座布団が散らばり、低い机には乾ききった食べ物の残骸が残されている。部屋の隅には衣服が山積みになっていた。
別の小机には、数本のキセルと小さな包みが置かれていた。
甘ったるく、濃い煙の臭いが部屋にこもっている。
座布団のそばには、半分隠れるように短刀の刃先と、折り畳まれた一通の手紙が見えた。
男はケンジの視線を追った。
そして、苛立ったような素早い動きで、足を使って短刀と手紙を見えない場所へ押しやった。
その後、包帯を巻いた手で顔をこすった。まるで、少年に見られたものすべてを消し去りたいかのようだった。
「客が来るとは思っていなかった」
声が少し低くなった。
「腹は減っているか?」
「はい」
「座っていろ。腐っていないものが残っていないか、探してくる」
ケンジは慎重に二本の剣を外し、自分の前の板張りの床に置いた。
男が戻ってきたとき、手には冷えた飯の入った茶碗があった。男はそれをケンジの手が届くところに置いた。
その後、しゃがみ込んで剣の一本を手に取り、両手で支えるように持ち上げた。
その重みが、男を二度と戻りたくない過去へ引き戻したようだった。
「これはフジの剣だな」
問いかけではなかった。
「はい。亡くなる前に、僕に渡してくれました。先生の弟子に届けろって……それから、僕を鍛えてくれるよう頼めって」
その瞬間、部屋を満たす沈黙の質が変わった。
先ほどよりも重く、息苦しい沈黙だった。
男は剣から目を離さなかった。包帯の下で、拳を握る指の関節が白く浮かび上がっていた。
「……あの爺さんを殺せる奴がいたのか?」
ようやく男が尋ねた。
ケンジは唾を飲み込んだ。
「里が襲撃されたんです。祖父は……亡くなりました。最期に剣を渡して、ここへ来いと言ったんです。あなたが僕を鍛えてくれるって」
男は、まるで儀式でも行うかのような慎重さで、剣を床に置いた。
それから両手で顔を覆い、短く笑った。
苦く、乾いた、喜びなど微塵も感じられない笑いだった。
「そうか……とうとう逝っちまったか。あの爺さんがベッドの上で静かに死ぬなんて、最初からあり得なかったんだ。最後まで、あいつらしい最期だったってわけか」
ケンジは膝の上で拳を握りしめた。
「祖父の最期の言葉は、はっきりしていました。あなたが僕を鍛えてくれるって。きっと引き受けてくれるって……」
男――ダイチは、ようやく顔を上げた。
充血した目には、疲労と、鋭く硬い光が宿っていた。
「一つ、問題がある」
ダイチは言った。
「俺はもう、誰かを教えるような師匠じゃない。教える気がないからじゃない。あいつがお前に授けたかったものを、俺には与えられないんだ」
彼は一度、言葉を切った。
「俺には元素がない。火も、岩も、水も、影も……何一つな。生まれつき、何の力も持っていないんだ」
ケンジは黙って聞いていた。
「お前は火の使い手なんだろう? あの爺さんと同じだ。違うか?」
「はい……でも、まだうまく制御できません」
ダイチはしばらくケンジを観察した。
乱れたポニーテール。包帯。顔の傷。そして、あまりにも多くの眠れない夜を過ごしてきた人間のような、疲れ切った動き。
ケンジは、どうしても気になっていたことを尋ねた。
「……何歳なんですか?」
ダイチは片眉を上げた。
それから、今度は少しだけ本当に楽しそうに笑った。
「二十五歳だ。そんなに老けて見えるか?」
「少し。包帯もそうですけど……目も」
「包帯は、元素を持つ連中と、元素を持たずに戦った代償だ。目は、眠るべきときに眠らなかったせいだよ。余計なことは考えるな」
ダイチは立ち上がった。
「裏庭へ来い。お前の言う、制御できない炎ってやつを見せてもらおうか」
裏庭は、地面を固く踏み固めた長方形の空き地だった。周囲には背の高い松が立ち並び、樹脂の香りと冷たい空気が漂っている。
ダイチは中央まで歩き、腕を組んだ。
「やってみろ」
ケンジは構えを取った。
ブルーノと一緒に練習したとき、ほんのわずかに成功した感覚を思い出す。
手のひらに意識を集中し、熱を集めた。
炎が生まれた。
だが、次の瞬間には消えてしまった。
もう一度。
今度は火が大きくなりすぎた。制御を失った炎が不格好に広がり、あやうく袖に燃え移りそうになる。
ケンジは慌てて手で叩き、炎を消した。心臓が肋骨を打ちつけるように激しく鼓動していた。
三度目。
今度は弱々しい火花が散っただけで、地面に届く前に消えてしまった。
悔しさが喉元まで込み上げてくる。
ケンジは歯を食いしばった。
目の奥が熱くなり、涙がこみ上げてきた。それでも、必死にこらえた。
ダイチは急ぐことなく近づいてきた。
そして、包帯を巻いた手をケンジの肩に置いた。
軽いが、確かな重みだった。
「もういい」
ダイチは静かに言った。
「誰だって、最初から炎を操れるわけじゃない。古い血筋を受け継ぐ者だって同じだ。座れ」
ケンジは言われたとおりに座った。
ダイチもその前にしゃがみ込む。
「よく聞け。まずは、これを頭に叩き込むんだ」
彼はケンジの目を見つめた。
「この世界には、元素を持たずに生まれる者と、生まれつき元素を宿している者がいる。お前の元素は火だ。だが、その力は、単に『持っている』か『持っていない』かで決まるものじゃない」
ダイチは人差し指を立てた。
「第一段階。 炎はまだ、お前の体の外にある。生み出し、放ち、消す。火花や基本的な火炎を扱う段階だ。さっきのお前がやっていたのが、まさにそれだ」
次に、中指を立てた。
「第二段階。 炎が体の中に宿り始める。拳や足、武器に炎をまとわせられるようになる。ちょっとした風で消えるような炎じゃない。攻撃の途中で火が消えることも少なくなる」
さらに、薬指を立てた。
「第三段階。 全身を炎で包み込む。炎が身を守り、力を与え、触れることさえ危険な存在になる。だが、まだ体は生身のままだ。攻撃を受ければ、傷つくこともある」
そして、小指を立てた。
「第四段階。 もはや、ただの肉体ではなくなる。歩く炎そのものへと変わるんだ。普通の打撃じゃ、まともに捉えることさえ難しくなる。そこまで到達できる奴は、ほんの一握りだ」
ダイチは手を閉じた。
「第五段階。 そこは伝説の領域だ。何十年もの修練が必要になることもある。人生のすべてを捧げても届かない奴だっている。本当にその境地に達した者なんて、ほとんどいない」
彼はあぐらをかいて座った。
「岩は少し違う。お前の友達のブルーノ……あいつが扱う岩は、最初のうちは比較的、言うことを聞きやすい。その代わり、各段階の中に『階級』がある。第一階級、第二階級、第三階級……。細かい段階がある分、より精密な制御が求められるんだ」
ダイチは指を折りながら説明を続けた。
「鋼も、たいていは独立した元素じゃない。岩の力を高度に発展させた先にある、上位の階級として扱われることが多い。そのほかにも、水、氷、雷、影……それぞれに独自の法則がある」
最後に、彼は念を押すように言った。
「すべてを支配できる人間なんていない。誰一人としてな」
ケンジは袖で顔を拭った。
「だったら……どうして祖父は、元素を持たないあなたを選んだんですか?」
ダイチは、かすかに笑った。
今度の笑みも、どこか苦いものだった。
「あの爺さんは、肉体と意志も武器になると信じていたからな」
彼は立ち上がった。
「相手が動き出す前に、その動きを読む方法を教えてくれた。相手の元素がお前を叩き潰そうとしてきても、立ち続ける方法もな。それに、俺はこいつの使い方も教わった」
ダイチの周囲で、空気の密度が変化した。
彼が両腕を広げると、濃い緑色の霊体装甲が姿を現した。
拳から肩にかけて、まるで生きているかのような装甲板が次々と形成され、皮膚に密着していく。
「鬼の腕。」
ダイチは両拳を握りしめた。
「一撃の威力を二倍に引き上げる。鬼の力を拳に宿す装甲だ」
装甲板が溶けるように消えた。
今度は、胸部と肘までの前腕、そして両膝を覆う新たな装甲が現れた。
「ぬりかべの甲冑。」
ダイチは正面から腕を構えた。
「前方から受ける衝撃を吸収し、分散させる。防御力は二倍だ。まるで、どれだけ攻撃しても倒れない壁と戦っているようなものさ」
胴体の装甲が消失する。
代わりに、足先から太ももまでを覆う、軽量で流線型の脚部装甲が形成された。
「天狗の歩法。」
ダイチは片足を軽く踏み出した。
「摩擦を減らし、初動の速さと敏捷性を二倍にする。風だって、今までのようにはお前の動きを妨げられない」
ダイチは深く息を吸い込んだ。
次の瞬間、三つの装甲が同時に現れた。
緑色の装甲板が一つに融合し、全身を覆う巨大な姿へと変わっていく。
周囲の空気が重くなり、静まり返った。
「三つを同時に発動させた状態を、**大鬼装甲**と呼ぶ」
ダイチの声が、静かな庭に響いた。
「すべての能力が六倍になる。筋力も、防御力も、速度もだ。これは過負荷状態だから、長くは保てない。だが、発動している間なら、元素を持たない人間でも、元素使いと真正面から渡り合える」
装甲が消えた。
ダイチは、まだ重みが残っているかのように腕を振った。
「それから、全エネルギーを一点に集中させる技もある」
彼は片方の拳を軽く握った。
「冥境拳。」
「すべての力を拳に集め、相手に叩き込む。一撃がまともに入れば、相手は立ち上がる気力さえ失う。場合によっては、二度と立ち上がれなくなることもある。どれだけ本気で怒りを込めたか、その日の気分次第だな」
そう言って、ダイチはケンジを見つめた。
風が吹き、ポニーテールからこぼれた髪が揺れた。
「……考えてみれば、俺はあの爺さんに借りがありすぎる」
ダイチは小さく息を吐いた。
「最後の頼みを一つ聞いたところで、死ぬわけでもないか」
彼はケンジの目をまっすぐに見た。
「鍛えてやる。お前が伝説になると信じているからじゃない。ただ、あいつに頼まれたからだ。もう取り立てに来ることもできない相手の借りを、今度こそ返してやる」
ケンジは顔を上げた。
瞳が輝いていた。
「本当に……いいんですか?」
「本当だ」
ダイチは答えた。
「お前は、まだ自分が何者なのかもわかっていない。だから、まずはその情けない炎に、命令された場所にとどまることを覚えさせてやる」
ケンジが何か言おうとした、そのときだった。
ダイチは、見た目からは想像できないほど優しい力加減で、彼の背中をぽんと叩いた。
「中に戻るぞ。今日はもう終わりだ。お前もボロボロだし、俺も疲れた。明日から本格的に始める。甘やかしてもらえるなんて思うなよ」
ケンジは二本の剣を拾い上げた。
戸口をくぐる前に、もう一度だけ庭を振り返った。
松林。そして、緑色の包帯を巻いた男。
自分とともに歩むことを決めてくれた男の姿を、ケンジは目に焼きつけた。
その夜、借り物の布団に横たわったケンジが疲労に身を委ね、眠りへ落ちていく頃。
ダイチは窓辺に座っていた。
キセルに火をつける。
煙がゆっくりと立ち上った。
彼は山々の暗闇を見つめた。
すると、十五年前の記憶が、許しも請わずに脳裏へとよみがえった。
十五年前
道は乾いた土埃に覆われていた。
十歳の痩せた少年が、道を歩く一人の男の前に立ちはだかった。
少年の手には、短い刀が握られていた。小さな手には大きすぎる代物だった。
「おい、爺さん! どこへ行くつもりだ?」
フジは歩みをわずかに緩めただけだった。
「そこをどけ。都へ行くところだ」
「通りたければ通行料を払え!」
少年は刀を掲げた。
「俺と、このちっぽけな刀が通行料を徴収してやる!」
フジは片眉を上げた。
「通行料だと?」
「払わなきゃ斬るぞ!」
「やれるものなら、やってみろ」
少年は叫び声を上げて飛びかかった。
刀が、不格好ながらも勢いだけは十分な弧を描いて振り下ろされる。
フジは体をほんの少し傾けた。
刃は空を切った。
次の瞬間、フジの足が跳ね上がった。
足首を炎が包み込む。
蹴りが少年の胸にまともに炸裂した。
少年の体は宙を舞い、そのまま茂みの中へ吹き飛ばされた。
「このクソ爺ぃ!」
少年は葉っぱまみれになりながら叫んだ。
「もう金なんかいらねえ! 今度はお前をぶっ殺してやる!」
少年は立ち上がると、再び突進した。
フジは最初の斬撃をかわし、二度目をかわし、三度目も難なく避けた。
すぐには反撃しなかった。
必要な分だけ体を動かし、少年の攻撃をすべて空振りさせていく。
やがて、怒りだけで刀を振り続けていた少年の呼吸が乱れ始めた。
その瞬間、フジが短い連撃を繰り出した。
脇腹への拳。
足払い。
そして、少年を背中から木に叩きつける蹴り。
少年は咳き込みながら地面へと滑り落ちた。
それでも、刀だけは手放さなかった。
フジはしばらく少年を眺めていた。
やがて、低く笑った。
「大したガキだな。しぶといじゃないか。今のを食らって、まだ立ち上がる奴はそうそういないぞ」
少年は唾を吐き捨てた。
その目には、まだ激しい怒りが燃えていた。
フジは興味深そうに首を傾げた。
「お前の目には、何か気になるものがあるな」
彼は少年をじっと見つめた。
「よし。俺が引き取ってやろう」
「離せ!」
少年が抗議する間もなく、フジは襟首をつかみ、まるで重さなどないかのように持ち上げた。
「行くぞ」
少年はしばらく足をばたつかせていた。
だが、やがて疲れ果てたように抵抗をやめ、歯の間から言葉を絞り出した。
「……ダイチだ」
フジは、わずかに笑みを浮かべた。
「よろしくな。俺はフジだ」
現在。
ダイチは窓の外へ煙を吐き出した。
いつの間にか、キセルの火は指の間で消えていた。
「……クソ爺め」
彼は小さくつぶやいた。
キセルをしまい、もう一度だけ、部屋の奥に目を向ける。
ケンジはすでに深い眠りについていた。
それでも、夢の中で何かと戦っているかのように、眉間には皺が寄っていた。
ダイチは静かに目を閉じた。
太陽の里の少年が、ここへやって来た。
そして、緑色の包帯を巻いた男は、渋々ながらも、いつまでたっても返し終わらない借りを、再び背負うことになったのだった。




