18
外灯の明かりが寮や校舎を不気味に浮き上がらせる夜、僕達は何も持たずに部屋を出た。広大な学園の敷地の片隅にある門の所まで来たけど誰にも会わなかったし、声を掛けてくる人もいない。外の世界と学園を隔てているはずの門も開きっぱなしになっていて、まるで野放し状態だった。だけど、僕達のように中途で学園を去ろうとする人はほとんどいない。一度入ってしまうと卒業するまで出られないと言われているのは、ほとんどの生徒がそういう風に教育されているからだ。
疾が言っていたように、この学園の生徒は身寄りのない人がほとんどなのだろう。だから学園の気風が肌に合わなくても出て行くことが出来ないでいる。僕が知らないだけで本当は、疾のように耐えている人だってたくさんいるはずなんだ。強者が目につくということはそれ以上に、虐げられている弱者がいるはずなのだから。
「……疾、」
寮を出てからずっと無言で歩いてきたけど、自由への扉を開けてしまう前に僕は疾を呼んだ。僕より数歩先を歩いていた疾は門の手前で足を止めて、僕を振り返る。彼の顔には後悔もためらいも浮かんではいなかったけど、僕は訊かずにはいられなかった。
「本当に、いいの?」
鳥彦のこと。疾が無言でいるのは、きっと彼のことが引っかかっているからだろう。
「いまさら何を言うのさ」
疾はおどけて見せて、いつものように僕をからかう口調で言った。だけど今は、それが余計に悲しい。鳥彦が泣きそうな顔をしていたように、疾だって本当は泣きたいはずなのだ。僕は彼らの関係がどういうものだったのか深くは知らないけど、別れの辛さは身に染みるくらい感じていた。
「武、これは僕が決めたことでもあるんだ」
僕がうつむいてしまったからか、疾は真面目な調子に戻って答えた。それが彼の本音であることに変わりはないんだろうけど、それでも疾は僕が罪悪感を抱かないよう気を遣ってくれてもいるのだ。それが解るだけに、僕は申し訳ない気持ちを募らせた。だけど疾にそう言われてしまえば、僕にはもう返す言葉がない。
「行こう」
疾に促されて僕も再び歩き出す。さすがに誰かが呼び止めてくるんじゃないかと思ったけど、それもなかった。たぶん、分かっていて見逃してくれているのだ。そう思った時、玉田さんが別れ際に見せた困ったような顔が頭に浮かんだ。もう確かめようもないけれど、校舎の方に向かって密かに頭を下げる。それから、僕は振り返らずに歩を進めている疾の背中を追った。
学園の周囲は他に建物もなくて閑散とした眺めだったけど、それは歩いて行くうちに少しずつ変化していった。丸一日かけて山を下りると裾野には高層建造物が林立する街が広がっていて、一睡もしていない僕達は交わす言葉もなく疲れた足を動かしている。イルミネーションが眩しい街では夜を迎えても人が行き交っていて、賑やかな話し声に溢れていた。すれ違う人達がみんな自由を謳歌しているみたいに見えるのは、今まで不自由ばかり感じてきたからなのかな。
僕の不自由の象徴は、兄さんだ。両親を亡くして養育院に入ることになった時、兄さんは行かないでと泣き叫んだ僕に背を向けて一人でどこかへ行ってしまった。あの時から僕の心は兄さんに縛られていて、ひどく恨んだりした時期もあった。その気持ちも時間の経過と共に薄れていって、ようやく養育院での暮らしにも馴染み始めた時、兄さんはまたしても僕の気持ちを無視した行動を取った。万年人手不足で苦労している養育院が喜んで僕を放り出したから、僕はあの学園へ行くより他なかったんだ。
兄さんの自分勝手な言動には腹を立てているし、僕の意思を無視してあんなことをしたあの人を赦す気にもなれない。だけどあの人は僕にとって、たった一人の肉親なんだ。おぼろげな記憶には優しく接してくれた姿も残っていて、そのせいで未だに気分が晴れない。もうあの人とは訣別したのだから、いいかげん割り切らなくちゃいけないのに。
「ここにいる人達はみんな、僕達とは違う『普通』の中で生きてきた人達なんだよな」
不意に、隣を歩いている疾がぽつりと零した。僕は驚いて疾を振り返る。彼はもう完全に過去と訣別していて、新しい生活のことを考えているんだ。疾は、正しい。こうなってしまった以上は捨ててきた場所のことを考えていても仕方がないし、何より他に話し合わなければならないことが山ほどある。僕達には行く当てもなく、これからどうやって生きていくのかすら不鮮明なのだから。
僕は改めて、寮で同室になったのが疾で良かったと思った。もし別の誰かだったら、こんな結果には結びつかなかっただろう。学園にいる時も今も、そしてこれからも、疾の存在が僕を支えてくれる。
「とりあえず、仕事を探そうか」
僕達くらいの歳だと、まともな所では働けないかもしれない。だけど自分達の力で生きていくためには、どうしても仕事が必要だ。疾もそのことは承知の上みたいで、彼は真顔のまま頷いた。
前途は多難だけど、僕達は僕達なりに生きていこう。普通とはかけ離れている法規を強制されて生きる狭い世界の中じゃなく、すべてを自分で決めることの出来る自由の世界の中で。