第40話 禁忌契約と不倫関係の考察2
その能天気な声が遠ざかっていくと、軍議の間は再び、重苦しい沈黙に支配された。
「アルト、俺はお前の話を聞いていいのか?」
残ったバロックが、重厚な声を響かせた。
俺と同じく、あるいは俺以上に「傷」を知っている男だ。事例共有は悪い事じゃない。
「ああ。これからの話は、あんたにも聞いておいてもらいたいんだ」
「……判った」
バロックは短く頷き、改めて俺を見据えた。
俺は、これまで誰にも語ることのなかった「地獄」の記憶を、淡々と紐解き始めた。
離婚後、俺がどれほど惨めに復讐に狂ったか。
リーネへの未練と、グラムへの殺意。
その二つが混ざり合い、発酵し、真っ黒な呪いへと変わっていった過程を。
復讐のためだけに、自分自身を生贄に捧げ、この現世に本物の地獄を召喚しようとしたこと。
――そして、儀式の寸前で師匠のアルカードに力づくで止められ、首の皮一枚で踏みとどまったこと。
現世に地獄を呼ぶ代わりに、俺はこの「禁忌の悪魔」を内側に招き入れる契約を結んだこと。
今も、アビスに感情を削らせ、理性を繋ぎ止めることで、どうにか「人間」の形を保って生活していること。
一通り話し終えると、部屋の空気は密度を増していた。
バロックは、ただ黙って額に滲んだ汗を拭うこともなく、石像のように固まっている。
彼のような歴戦の戦士をして、俺がかつて抱いた「狂気」の深さは異様だったのだろう。
フィオナは、ショックのあまり言葉を失い、震える手で口元を覆っている。
その瞳には、聖女としての困惑以上に、生々しい「痛み」への同情が滲んでいた。
だが彼女は、すぐには言葉を返さなかった。
胸元の聖印を強く握りしめ、その白い指先がかすかに震えている。
無理もない。
悪魔との契約。
感情を削ることで、ようやく保たれる理性。
神に仕える者として、そんなものを簡単に受け入れていいはずがない。
フィオナは一度だけ深く息を吸い、目を伏せた。
唇が小さく祈りを紡いでいるのがわかる。
短くない祈りの最中、フィオナの震えていた指先が、ふと止まった。
その直後、彼女はぴくりと身体を震わせ、静かに目を開いた。
そして、感極まったように呟いた。
「……アルトさん。アビスは、貴方にとっては……『枷』であり、そして『杖』なのですね」
感傷的な言葉だ。
いかにも、人の苦しみに寄り添うことを生業とする聖女様らしい。
俺はほんの少しだけ口角を上げた。
それが笑みと呼べるほど情緒的なものだったかは怪しいが。
「フィオナ、上手いこと言いますね。さすが聖女様だ」
「……揶揄わないでください、アルトさん」
彼女は潤んだ瞳で俺を少しだけ睨んだが、その視線にはもはや「悪魔契約者」への警戒はひとかけらも残っていなかった。
枷であり、杖。
確かにその通りかもしれない。
俺を暴走させないための重りであり、俺が歩いて行くための支柱。
「……アルトさん。貴方の苦悩に、その哀しみに、どうか救いがありますように」
フィオナが、祈るように両手を胸の前で組んだ。
その茶色の瞳には、聖女としての慈愛と、一人の女性としての痛烈な同情が混ざり合っている。
先ほどまでの「異端への恐怖」はどこかへ消え、代わりに彼女は、ボロボロになりながらも杖をついて立ち上がろうとする一人の男を、そこに見ていた。
「教会は苦しみながらも、尚、前を向いて歩こうとする者と共にあります。……悪魔アビス=レイザルが貴方を律し、支えているという事実は、私が責任を持って異端審問会に報告させていただきます」
彼女の声には、確かな覚悟が宿っていた。
国家公認の聖女が「悪魔を杖と認める」と断言する。それがどれほど危うい橋であるかは、彼女自身が一番よく分かっているはずだ。
「これは私個人の気持ちですが……。そんな重すぎる苦しみを背負いながら、それでも世界の為に魔王と戦い、再び、リーネさんと向き合おうとしている貴方を……私は、尊敬します」
……尊敬、か。
アビスによって強制的に凪の状態に置かれているはずの胸の奥が、わずかに、ざわりと波打った。
「……恐縮ですね、フィオナ。俺はそんな立派な男じゃない。悪魔の助けに縋らないと、まともに生活することすらできない、ただの弱い男ですよ」
自嘲気味に吐き捨てた俺の言葉を、低く分厚い声が遮った。
「そう自分を卑下するな、アルト」
バロックだった。
彼は組んでいた太い腕を解き、静かに俺を見据えた。
「きっかけはどうあれ……今のお前はなりふり構わずでも、為すべき事をやろうと努力しているだろう?それは、俺は凄いことだと思う。お前はただ『弱い』だけの男ではない。
だが、それでもお前の選んだ手段は危うい。
俺に出来る事は多くないが、限界を感じたら必ず声をかけてくれ。見捨てはしない」
聖女の尊敬と、戦士の賞賛。
そんな眩しいものに包まれて、俺が絶句している時。
《アルト。心拍数の増大を検出。末梢血管の拡張に伴う頬の紅潮を確認しました。状態異常『照れ』と判断。『鎮静』を実行しますか?》
(……お前…ホント容赦無いな)
無機質なアビスの声が、俺の居心地を最悪なものにする。
俺は視線を逸らすようにして、樫のテーブルから手を離した。
「……なんだか、ひどく居心地が悪いですね。もうよければ、この話はこれくらいにしませんか。……俺たちも、夕飯に行きましょうよ」
これ以上ここにいたら、アビスにどんな突っ込みを入れられるか分からない。
俺の提案に、フィオナは少しだけ目尻を下げて微笑み、バロックは短く「ああ」と頷いた。
二人と共に席を立ち、軍議の間の重い扉へと向かう。
外に出ると、廊下の壁に一人、リーネがもたれかかっていた。
「……アルト」
彼女は俺に気づくと、一瞬だけ喜び、すぐに視線を逸らした。
「フィオナ様。……あの、アルトは、大丈夫でしょうか?」
「はい。私が最大限フォローします。……ええ、きっと大丈夫です」
フィオナの力強い言葉に、リーネがホッと肩の力を抜く。
「待ってたのか、済まないリーネ。夕飯に行こう」
「……うん。行こう」
おずおずと頷き、俺の隣を歩き出す元嫁。
そんな元嫁の様子を見て、俺はちょっとした違和感を覚える。
《アルト。個体名リーネに対する『受容値』が、上昇しています》
(ああ、そうだなアビス。その通りだよ)
……結局、俺達は弱った時、何かに縋ったんだ。
リーネだけじゃない。俺もだ。
孤独と不安に耐えられず、誰かに縋ったリーネ。
悲しみと憎しみに耐えられず、悪魔に縋っている俺。
……似た者夫婦だったんだよな。俺達。
俺達の後ろ姿を見つめながら、フィオナが小さく、誰にも聞こえないような声で呟いた。
「…………羨ましい、ですね」
その言葉の意味を、俺が知ることは――今のところ、まだない。




