第17話 彼の声が届く距離で
薄暗い大空洞の先に、自然界の摂理が歪んだような、異形の巨塔がそびえていた。
天井から地面まで垂れ下がる巨大な構造物は、直径二十メートルを優に超えている。
何層にも重なる泥とモンスターの唾液が混じり合った不気味な褐色の模様は、絶望の迷宮を縮図にしたかのようだ。
構造物の表面に無数に穿たれた黒い穴からは、不吉な死の旋律のような羽音が、絶え間なく溢れ出している。
それは生命の住処というより、侵入者を喰らい尽くすための巨大な胃袋に見えた。
ダンジョンの巨大な空洞、その半分を侵食して脈動する雀蜂型モンスターの巣を前にして、私の心は静まり返っていた。
ただ、隣に立つ元夫――アルトの横顔を見つめ、自身の内側に広がる『穴』の深さに眩暈を覚えていた。
かつて私は、朝の陽光の中で、あるいは静かな夜の帳の中で、当たり前のように彼の隣にいた。
けれど、今の私にはその資格はない。
アルトが、二十年以上かけて積み上げてくれた無垢な信頼を、私は自ら踏みにじったのだ。
独りになって初めて、自分がどれほど温かな光の中にいたのかを思い知った。
胸に開いた「穴」を眺め、失ったものの大きさに、夜な夜な声を殺して泣き、自分の愚かさを呪い続けた。
そんな私に与えられた、魔王討伐パーティへの選定。
――ご褒美なんかじゃ、ない。
これはきっと、神様なりの皮肉か、私に与えられた罰なのだ。
だって、そこには――
アルトがいた。
私が、諦めなければならない人。
それでも、どうしても忘れられない人。
今の私には、彼に触れる権利なんてない。
名前を呼んで、許しを乞う資格も、もう残されていない。
それは当然の報いだ。
裏切ったのは私で、壊したのも私なのだから。
だから私は、彼の隣に並べない。
寄り添うことも、選ばれることも、最初から望んではいけない。
――それでも。
彼の傍にいられる理由が、たった一つだけでもあるなら。
それは「剣」である事だった。
彼への想いを捨てきれない浅ましさも。
そんな自分を許せない醜さも、全部抱えたまま。
触れられなくていい。
想われなくても、振り返られなくてもいい。
彼の声が届く距離にいられるのなら。
命じられ、振るわれ、使い尽くされるだけの存在でいい。
彼の世界から、完全に消えないでいられるのなら――私はただ、「剣」でいい。
「――来るぞ。各自、持ち場へ!」
アルトの鋭い指示が、私の感傷を切り裂いた。
雲霞の如く押し寄せる、一メートル大の兵隊蜂。
高速で空を切り裂くその群れは、もはや一つの生き物のように私たちの視界を埋め尽くす。
「バロックは前に出て、ヘイトを集めてくれ。フィオナはバロックとグラムに持続回復と、定期的な解毒を頼む。ミリアは、風の精霊で全体に加速を!」
アルトの指示が飛ぶ。
バロックが皆から離れて前に出る。
彼の周囲の空気が変わった。
タンクスキル——誘引。
彼の重装鎧の隙間から、ふわりと甘い匂いが流れ出した。
蜜のようで、腐葉土にも似た、蟲たちの本能を直接くすぐる香り。
意図的に魔力で生成されたそれは、私たち人間には微かに感じる程度なのに、蟲型モンスターにとっては「餌がここにあるぞ」と叫ぶ鐘の音に等しいらしい。
空中を旋回していた兵隊蜂たちが、まるで合図を受けたかのように一斉に進路を変えた。
無数の複眼が、ただ一人――バロックへと焦点を結ぶ。
「……来い」
バロックは低く、短く呟いただけだった。
挑発も、怒声もない。
彼の鎧と大楯が、淡く、鈍い光を帯びる。
金属の表面をなぞるように魔力が走り、次いで、バロックの全身を覆う薄い魔力のシェルが展開された。
タンクスキル——多重防御展開。
それは分厚い壁というより、重ね塗りされた「膜」のようだ。
物理衝撃を受け流し、毒や麻痺といった状態異常を弾き返すためのスキル。
バロックの周囲に展開された魔力のシェルは、低く唸るような振動音を発していた。
彼が一歩踏み出すたび、その動きに追従するように、半透明の膜が歪み、表面で小さな火花がぱちり、ぱちりと弾ける。
蟲たちが、彼へ殺到する。
巨大な雀蜂型モンスターが、群れを成して押し寄せ、槍のような毒針を、容赦なく突き立てる。
針の根元から噴き出す毒液が、何度もバロックを狙う。
けれど。
突き刺さるはずの一撃は、すべて――弾かれた。
叩きつけられる攻撃のたび、バロックの周囲でシェルが強く瞬き、火花が散り、スパークが走る。
防ぐ。
受け止める。
押し返す。
その悉くを、彼は一歩も引かずにやってのける。
気づけば、バロックは蟲に覆われていた。
まるで蟲団子のように、全身に群がられながらも――
その足は、微動だにしない。
フィオナ様の援護があるにしても、とてつもない事だ。
……凄い。
私は、思わず息を呑んだ。
――二十五年前。
バロックは、王立騎士団第十二区第二代団長だった。そして当時は『鉄壁のバロック』――そう呼ばれていた。
国境防衛戦において無敗。
数え切れない戦場で、仲間の前に立ち続けた王国最強の盾。
「――鉄壁の、バロック……」
彼のかつての二つ名が、勝手に口をついて出ていた。
——次の瞬間。
ミリアが、隣で小さく息を吸い込んだ。
「風の大精霊さん、今日もお願いします!
みんなに、追い風を――!」
その詠唱に応えるように、世界が一拍、遅れて動き出す。
空気が、軽くなる。
――いや、違う。
私たちの身体そのものが、風に抱き上げられた。
足元から立ち上る柔らかな気流が、重力を弱め、鎧の内側へ、さらに身体の奥へと染み込んでくる。
剣の重さは半分以下に感じられ、呼吸は自然と深く、緩やかになる。
視界が澄み切り、世界の輪郭がくっきりと立ち上がる。
周囲の動きが、わずかに遅い。
私たちだけが、世界よりも一拍早く、時間が流れている。
風の大精霊が、私たちの背を押している。
重力だけでなく、時間すらも。
――速くなった。
「……グラム。バロックの援護だ。タンクを守れ」
アルトの一言が、戦場を駆動させる。
「よっしゃぁ! 任しとけっ!」
グラムが飛び出した。
猟犬のように地を蹴り、風の加護をまとった身体が、バロックの周囲を縦横無尽に駆け巡る。
加速した剣閃が閃く。
兵隊蜂たちへと叩き込まれる鋭い剣戟。突き、斬り、払い――迎撃は確かで、速い。
けれど。
蜂たちの動きは、一定ではなかった。
変幻自在。軌道を歪め、空中で角度を変え、三度に一度は、グラムの剣をすり抜けてくる。
グラムの舌打ちが聞こえた。
当たらないわけじゃない。だが、捌ききれない。
バロックの前で、毒針が閃く。
重厚な鎧と大楯がそれを受け止め、魔力のシェルが火花を散らす。
それでも、圧は確実に積み重なっていく。
「……アルト! 長くは保たんぞ!」
グラムも、バロックも踏みとどまっている。だが「優勢」ではない。
戦線を維持するだけで、精一杯だ。
「二分だ。二分だけ、踏ん張ってくれ」
アルトの声は、揺れない。
――二分。
その重さを、私たちは全員、同時に理解していた。




