師匠とわたし
別荘に来てから3日目、クリストファーがスコットの父ではなく、"スコットの母"になった。
クリストファーはまるで水を得た魚のように、スコットを包み込み始めた。
「スコット!ちゃんとお勉強はしましたか?」
「今からやろうと思ったのに言うな!あと、使用人のくせに呼び捨てにするな!」
「お嬢様より、許可をいただきました。さぁ、お勉強がまだでしたら、私とここでやりましょう。どこまで進んでますか?」
スコットはクリストファーに渋々参考書とノートを見せた。
「うん…ここまで。でもここの解き方が分からなくて…」
クリストファーは、ああ、と言って参考書の別の頁を開いて、スコットに指し示した。
「ここはこの公式を使います。あと、もっと簡単に解ける方法も私は知っています…」
えっ!?それはわたしも知らない!
「クリストファー!どう解くの?」
「わ…たしも是非知りたいです!」
「では…これから私を"クリス"と呼んで下さったら、教えますよ。どうします?」
「"クリス"!よろしくお願いします!教えて下さい」
「"クリス"!わたしもお願いします!」
クリストファーこと、"クリス"はここに来てから見せた事のないとびきりの笑顔で、わたしたちに簡単に解ける方法を教えてくれた。そんな解き方があったなんて!?
クリスのお勉強会が終わってから、夕食の用意が始まった。クリスもスコットも楽しそうに用意を手伝ってくれた。わたしもとても楽しい。夕食はオードブルにポテトサラダを出してみた。みんな不思議そうな顔をしていたけれど、食べたら、とても喜んでくれた。
食事が進むと父が、話をし出した。
「みんな聞いて欲しい。明日だが、この別荘にもう一人使用人が来る。庭師の彼は朝一に到着するので、ジュゼッペとクリストファーは、転送陣で待機をしておいてくれ。いいね?」
庭師…ちょっとあざといグレッグさんが来るという事は、本邸で何かあったという事ね。朝、父がそそくさと席を立ったのはそれに関する連絡があったからだろう。
「承知致しました」
夕食の片付けも終わり、お風呂も終え、眠る段階になって、クリスはスコットをまた抱っこして、おやすみのキスをした。スコットは恥ずかしそうだが、今度は嬉しそうにしていた。スコットが部屋に入り、廊下でわたしはクリスと二人きりになった。わたしはクリスにお礼を言った。
「ありがとう、クリス。スコットの求めるものに自らなってくれて…」
「お嬢様、私は先程初めてあの子を愛おしく感じたんです。あの子が求めていたものが、私と全く同じだったから。私もこの前お話ししましたが、母の愛を知らなかったのです。私の母は父を見つめていましたが、私を見てはくれなかった。でもスコットより救われていたのはお嬢様の存在があったからです。私はスコットの話しを聞いた時、自分が今度"アイラ様になれば良い"と思いました」
「わ…たしに?」
「あなたは深い愛で周りを和やかにするお方です。私もスコットに今持ち得る愛で穏やかに幸せに生きさせてあげたいと思っております」
この前のスコットに対する冷たい言葉が嘘のように、クリスはそれこそ、暖かい雰囲気でスコットの事を話してくれた。わたしはただただ涙をこぼして、
「クリスありがとう」
と感謝の言葉を述べる事しか出来なかった。クリスは温泉で濯いだ暖かい手ぬぐいを持ってきてわたしの目元を優しくおさえてくれた。
翌朝は父の話の通り、例の庭師こと、グレッグさんが転送陣に現れた。わたしはジュゼッペさんとクリスと共に待っていた。
グレッグさんを直接見るのは今回で二度目だ。たまたま、彼が門の近くの生垣を剪定している時にである。彼は肩まである黒髪を首辺りにて麻ひもで縛っていた。黒い瞳なので一瞬前世と同じ人種かと思ったけれど、切れ長で長いまつ毛、鼻筋はスッと通っていて、唇はとにかく形が良い、どう見ても西洋の美男子だ。恐らく母が大好きだったフロントライ公爵子息の黒くなったバージョンではないだろうか?グレッグさんの母親は美人コンテストで優勝している人だもの。クールな美形は似ているかもしれない。
久しぶりに見た彼は、白い麻のシャツに焦げ茶色のトラウザーズとごく普通の格好をしていたけれど、肩にバックパックのようなカバンを背負い、手には麻の袋を持っていて、かなり荷物を持って来ていた。
「待ってましたよ、グレッグ。また大変な荷物を持ってきたね?」
「グレッグさん、お久しぶりです。スタンレイの"あの花"の染色方法を今度こそ教えて下さいね!絶対ですよ?」
クリス、あの花って何なの?なんて思っていたら、グレッグさんが、二人に礼をしてから、すぐにわたしの前に来て手を取り手の甲に軽くキスをしてこう言った。
「おはようございます、アイラお嬢様。何て愛らしくて美しい。まるで白いデイジーが俺を待っていてくれたのかと思いました。俺はルークス王国で二番目に幸せな男です」
「おはようございます、グレッグさん。わたしもお会いできて、うれしいですが…今少し引っかかったので、教えて下さい。なぜ、二番目なのでしょうか?」
「ああ、一番目に幸せな男は御当主であるウィリアム様だからです。あなたのお父上なのです。当然ではないでしょうか?」
グレッグさんはほんわかと笑みを浮かべて答えた。
「なるほど、ありがとうございます。ジュゼッペさん、クリスさん、グレッグさんを使用人部屋にお連れして」
二人はグレッグさんを連れていった。
……………………………よし、もういなくなったわね。ああ、何て不思議な人なんだろう。でも本心が分からないと好きとも嫌いとも言えないわね。でもハリソンとロナルドに似ていたわ。あの子たちもほんわかしていて癒されるもの…ああそうか。あの母が彼に"今も"執着する理由はそこね。彼は母を奇異の目では見ないだろう。本当は見ていてもね。ただ、母を愛している可能性もある。二人も子供を作っているのだもの。それに先ほど形容したあの言葉も気になった。
わたしの中で、誰かが警戒しろと呟いたように感じた。
朝食の用意もみんなで行うと早い。今日から来たグレッグさんも食事の用意に参加する事になった。彼はジュゼッペさんの話からの推察通り器用だった。しかも料理人級に!でもわたしはみんなで協力して作る事をモットーにしてここに来たので夕食以外は遠慮してもらう事にした。グレッグさんはちょっと寂しそうな表情をしたが、では夕食は一緒考えようと持ちかけると犬の耳がぴょこんと立ったように喜んでいた。
朝食が始まる前、改めてグレッグさんが挨拶をした。ハリソンとロナルドは、"お庭のカッコいいお兄ちゃま"と言ってはしゃいでいた。お父様の計画は順調そうに見受けられる。スコットはクリスママにベッタリしながら、グレッグさんに軽い挨拶をしていた。グレッグさんはその様子を眩しげに見ていた。わたしは…どちらかというとその様子に一抹の寂しさを感じていた。大切に育てた息子を産みの母に取られたみたいな…ね。ほとんど事実なところがなんとも言えない。
朝食後、クリスから明日からのお風呂掃除と洗濯全般はスコットと二人でやらせて欲しいと打診があった。まさかこれほど早く二人の心が開かれるとは思っていなかった。わたしは快く了承した。午後はグレッグさんとジュゼッペ農園に向かい、夕食の献立の話をした。
「グレッグさんは包丁の扱いが上手すぎて驚いてしまったわ。どちらかで習っていたのかしら?」
「俺とクリスは父が亡くなった後、マープルさんの指示で色々習っていたのです。俺もクリスも大体は出来ます。ただクリスは包丁でかなり怖い思いをしているので、余程のことがないと触れないようですがね。俺は育ての両親が外で暮らすまで、家族に作っていました」
育ての両親、前庭師の夫妻の事だろう…と思ったその時、グレッグさんの纏う雰囲気が一気に暗くなった。背中をぞくりと悪寒が走る。
「両親がいなくなっても…俺にはあなたがいたから…なのにあんな女と出会い関係など持ってしまったばかりに…俺は…」
「グレッグ…さ…ん?」
グレッグさんは、わたしを木陰に誘導し、強引に抱きしめた。わたしはびくりと震えた。彼はその震えを感じ、切ない表情を浮かべた。
「あなたは俺を警戒してますね?分かりますよ。あの女とは事実上ずっと関係を持っていましたからね。でもこれだけは信じて欲しい。俺にはあなただけだ。あなただけが、俺に"愛"をくれる。あなたは俺の"安寧の女神"だ。愛しています、俺のアイラ…」
彼はわたしをキツく抱きしめ直した後、何事もなかったようにわたしを伴い、農園にむかった。
彼の"愛している"という言葉はまるで、わたしを"愛するのを許して欲しい"と言っているようにも聞こえた。
「わー!グレッグさん、凄い!ゴボウの収穫の仕方、上手!!わたしなんて、途中でポキッと折ってしまって…。(今回手袋をしています)グレッグ師匠と呼ばせていただきますね?グレッグ師匠!」
わたしはグレッグ師匠の脇腹に横から抱きついた。
「お嬢様、先程あんなに情熱的に抱きしめたのに、あなたからこんなに可愛く抱きつかれたら、誤解をしてしまいますよ?」
この叔父は何かとてつもない闇を抱えているようだ。特に母への憎しみは相当のようだ。でもそれが"愛情の裏返し"ではないとまだ断言は出来なかった。ただ彼が怪しかろうが怪しくなかろうがわたしは、最初の計画を遂行するのみ。スコットの心に寄り添う事、追加でモルガン兄弟をどうにかする事、まだ3日目なのよね。