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 閑静な高級住宅街の外れに、他とは比べものにならないほどの屋敷と呼べる建物があった。屋敷の回りにはベンツが数台並び、黒服の男達が見事なまでに配置され、見張っていた。それは高野組組長の私邸である。

 「また、ここに戻るなんて…考えてもみなかったわ」

 独り言か、誰かに向けて話しているのか判別できないほど、遠い瞳で由美子は呟いた。

 夕日が由美子の漆黒の髪を照らし、湿った風が光るそれを揺らした。

 「由美子さん…」

 勝が心配そうに由美子の名を呼んだ。それは、由美子の姿が余りにも儚く、消えてしまいそうに見えたからかもしれない。

 「大丈夫です、山崎さん。覚悟は出来ています」

 「大丈夫だよ。俺がついてるし…!安心してよ勝さん!」

 「お前だから心配なんだ!たかがコソ泥のくせに、なにか誤解してないか?」

 「なに言ってんだよ勝さん。俺は正義のヒロー義賊の勇次君なんだよ」

 妙な沈黙の時間が流れ、由美子と勇次は高野邸に向かった。

 由美子が震える手で、自分の家であった玄関ホーンを押す一方で、勝は自分を慕っている和夫を呼び寄せていた。

 小田和夫は二〇歳の若さと一七歳前後の童顔、そして勝への憧れで出来ている高さ一七〇センチの若者だった。

 「和夫、悪いな。突然呼び出したりして…」

 「いいっす!勝兄貴の為なら、全く苦になりません。命すら惜しくないっす」

 敵地である高野邸の近くで、和夫は張り切った声を出した。

 「静かにしてくれ。実は頼みがあって呼んだんだ」

 声を潜めて話し出した勝に耳を近づけ、和夫は聞いた。

 その内容は、はるかと勇次…そして由美子が今から始める作戦の事だった。

 「兄貴…まだ…あんな奴等とつきあってたんですか…」

 「俺だって好きで付き合ってるわけじゃない!」

 「じゃぁ、はるかさんなんてどうでも良いじゃないですか!」

 ──そうだった…和夫は知らなかったんだ…はるかが親父さんの愛人であることを…。しかし、言えるはずもない。

 「いや、可哀想だろ?あいつだって悪い奴じゃない。そいつが捕まっているんだ」

 「何で捕まったんですか?あんな人が」

 ──言えるかっていうんだ!しかし…言わなければ…比奴は納得しそうもないし…しかし、俺の…いや、親父さんの汚点を話す訳にもいかないし…

 「い、いや…俺が…その、そう!高野組の奴等が馬鹿で…はるかが俺の恋人か何かと勘違いして…そんで俺が抗争に乗り込んでくると思ったらしくて…それで…はるかを人質に取られて…」

 しどろもどろ答える勝を疑わしい目で見ていた和夫が、諦めた表情を見せた。

 「解りましたよ…。何だかんだ言っても、はるかさん達が好きなんだから…兄貴は…」

 「違う!今回は俺の責任もあるからであって、決して好きとか嫌いとか関係ない。あ、俺の言うことを信じて無いな!」

 「兄貴…兄貴はクールなハードボイルドで僕の憧れなんです。そんなに焦った兄貴は…」

 「焦ってなんか無いぞ、俺は…何を勘違いしているんだ!俺はだなぁ…」

 と、言い訳するほど嘘っぽく聞こえてしまう事が悲しくなった勝は、疲れを感じて諦めた。

 「まぁ、そんなことはどうでも良いことなんだ。まずは、はるかを救出して高野組を壊滅させる。その為に和夫にやって貰いたいことがあるんだ」

 落ちつきを取り戻した勝は、和夫に作戦を詳しく話した。

 「解りました。助け出したはるかさんと勇次さん、そして由美子さんを車で運べば良いんですね」

 「そうだ。俺は顔が知られているからな。近くまで行けないんだ。心配だから、このトランシーバーをもって行け」

 「はい。では行って来ます」

 和夫を見送った勝は、高野邸が見える公園に向かった。高台にある公園からは、美しい神戸の姿が赤く染まっていた。

 時はすでに夕刻であった。


 「私です。由美子です」

 少し震える声で由美子はインターホンに向けて自分の名を名乗った。

 「え。お嬢さんですか!早く!早く入って下さい。どこに居られたんですか。捜してたんです」

 慌てる組員の応答に由美子は落ちついた様子で家に入った。

 爆弾は勇次が抱えている紙袋に入っている。

 「平山組の連中が行きませんでしたか…いや、ご無事で何よりです」

 玄関に入るやいな、上品そうだが暴力団組員とわかる男が由美子の前に現れた。

 「あの人は?」

 「親父さんですか?今、出かけておりまして…」

 「ふん、どうせどこかの女の所にでも行ってるんでしょう?」

 口ごもる組員をよそに、由美子は自分の部屋がある筈の二階に上がろうとしたとき、勇次の肩を掴まれた。

 「なんや、お前はぁ。ここをどこやと思ってんねん」

 もう一人の人相の悪い男が現れた。

 その男から庇うように由美子が前に出た。

 「その人は私の彼氏や!結婚しようと思ってる人や…」

 「お嬢さん!」

 「はいはい、人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえって言うだろ?さぁ由美子ちゃん。いざ行かん!我らの愛のお部屋に!」

 「勇次君…」

 肩を抱いて階段を上がる勇次に、由美子は赤面しながら部屋に向かった。

 「あの人が帰ってきたら、私に伝えて!」

  呆然とする組員に言って、由美子と勇次は部屋に入った。

 そこはまだ由美子が出ていった時のままだった。

 「全然変わってないわ…」

 「由美子ちゃんたっら、可愛い部屋に住んでたんだね。今度は邪魔の入らない由美子ちゃんの自宅に呼んで欲しいもんだ」

 緊張した表情に笑顔が戻り、優しい声で由美子は話し始めた。

 「いろいろごめんなさい…勇次君を巻き込んじゃって…。なんてお礼を言ったらいいか…。勇次君のおかげで山崎君にも会えたし…私…嬉しくて…。こんな時なのに、嬉しくて…」

 涙が頬を伝う。白い肌に黒い髪が幾筋か落ち、神秘的までに美しく勇次に見えた。その為だろうか、由美子の心を奪うために、こんな危険なことを引き受けたのを一瞬忘れさせた。

 「なんで勝さんにクラスメートだった事を言わなかったの?」

 「言えないわ…はるかさんという人もいる様だし…」

 「はるかちゃんは…また違うと思うな…。勝さんにとって恋愛って感じじゃないと思う」

 「そうね…彼にとって、あなたとはるかさんは特別なのよね…それに、はるかさんの事だけじゃなくて…こんな状況で…言えるはずもないし…」

 俯く由美子のうなじの白さが、余りにも儚くて、勇次は由美子の肩を掴んだ。

 「勝さんはそんなこと気にする人じゃないよ」

 「そうね…私を助けようとして…はるかさんを誘拐されたんだもの…。違うの…きっと私…怖いのよ…。山崎君の思い出だけで生きてきたから…その人に拒絶されるのが…怖いの。こうやって山崎君の役に立てるだけで、結構幸せなんだ」

 「由美子ちゃん程綺麗な人が何言ってんだよ。もっと幸せになっていいんだ」

 勇次は口説いていたのを忘れていた。それ程由美子が可哀想に見えたし、同情もした。

 「ありがとう。勇次君」

 勇次の胸の中で、小さく震えながら泣いた。人の胸の中で泣くと言うことが、これほど心地よいことを、由美子は忘れていた。由美子は勇次の暖かい腕にずっと抱かれていれたなら…と考えたが、由美子には大切な役目があったのだ。自分のせいで人質に取られたはるかを救出しなければならない。

 「勇次君…ごめんね…。もう大丈夫だから。さぁ、行って!」

 勇次の胸を押して、由美子は心地よい場所から離れた。

 「気をつけてね。はるかさんは離れの倉庫にいると思う。爆弾は私が取り付けるから…あの人のいそうな場所へ…。取り付けたら屋敷の裏に向かうわ。…もし、もしも私が屋敷の裏に来なかったら先に逃げて…」」

 「由美子ちゃん…いいのかい?本当に…。君のお父さんなんだよ?……それに…」

 「それに人殺しね…」

 やりきれないといった表情を見せて、由美子は勇次を部屋から出した。

  ──いいのよ…あんな人…母さんを不幸にした男なんて…死んでしまえばいいのよ…


 「もう、痛い!こんな縄しなくったっていいでしょ!」

 はるかの甲高い声が倉庫の中から聞こえる。

 「うるさい!少しは黙ったらどうだ!」

 「ふん、綺麗な私の声が聞けるだけでも感謝して欲しいもんだわさ」

 「おかまのくせに…」

 「あんた、今私のことをおかまって言った?ふうん?私に魅力を感じないいの?不感症なんじゃない?」

 妙に色っぽい声をだしてはるかが挑発した。

 「少しは黙ってろ!いや、黙らしてやろうか…」

 「あんたたち!三人しかいないじゃない!私を愛する勝ちゃんが来たら、ぎったんぎったんにやっつけられちゃうんだから!離しなさいよ!スケベ!」

 倉庫の外で聞いていた勇次は笑いをこらえるのに必死だったが、そろそろ助けなければ…と思い、倉庫の前に立つ見張りを難なく片づけて扉を開いた。

 「ジャジャジャーン!姫を助ける正義のヒロー勇ちゃん登場!」

 呆気にとられた三人の内、扉付近にいた男を蹴りつけ、その男の上に乗って勇次が現れた。

 「なんでぇ。なんで勇ちゃんなのぉ?」

 不平を言うはるかは、上に乗りかかっていた男の股間を思いっきり膝で蹴った。

 「せっかく助けに来てあげたのにぃ」

 股間を抑え苦しむ男を、勇次のパンチでとどめを刺し、もう一人の男に飛びかかった。

 「私を愛する勝ちゃんは?」

 「えー?」

 取っ組み合いをしている勇次に答える暇はなかった。勇次が取っ組み合いをしている最中に、はるかは自分を縛るロープを外しにかかっていた。

 「もう、勝ちゃんに縛られるんならいいけど…こんな不細工達じゃ…」

 ロープを外して、靴の底から小さな細身のナイフを五本取り出した。

 「こんな不細工達はごめんだわ!」

 そう言いながら投げたナイフは、勇次の端正な顔の横を通り、不細工な男の肩に刺さった。

 「もう、はるかちゃんったら怖いじゃん!」

 男が怯んだ隙に、勇次の炸裂パンチが決まった。

 「ねぇ、勝ちゃんは!」

 「勝さんは顔が知られてるから、こんな所まで来れないよ」

 「愛の力があれば来れるはず!なのになぁ」

 「そうだねぇ、由美子ちゃんを俺の愛の力で…」

 「なんか勇ちゃん暗いね…」

 「そうなの…落ち込んでるんだから…ちょっとは優しくして、はるかちゃん…」

 はるかに泣きつこうとしたが、すでにはるかは勇次の数歩前にいた。

 「さぁ!勝ちゃんが浮気しないように、早くかえんなくちゃ!案内して勇ちゃん!…勇ちゃん?」

 はるかは立ち止まっている勇次の腕を引っ張って歩かせようとし始めた。

 「なんか…今回…俺って…最悪…」

  「何?何か言った?」

 「しっ。ここから見張りが厳しくなるから…。こっち、こっち」

  庭の茂みに隠れながら、勇次は由美子の様子が気になった。

  「なぁ、はるかちゃん。寄り道していかないか?」

 「楽しいところならいいけど?」

 こんな状況で楽しい寄り道なんてあるのだろうか…。

 「楽しいと思うよ!」

 「うそつき…」

 聞こえないようにはるかは呟いたが、勇次の後をついていった。


  暗闇が支配する時刻。時はすでに八時を回っていた。勇次と由美子が高野邸に来て、二時間が経過していた。

  「由美子を呼べ!」

 静かに行動していた勇次と、救出されたはるかが、身近に感じるほどの大声を張り上げた人物がいた。それは居間にいた高野組長、由美子の父親だった。

 勇次達は息を潜めて、居間の前にある茂みに身を隠した。

 勇次とはるかが壁に耳をあてる。

 「由美子!今までどこにいたんや」

 「…」

 「まぁ、由美子が帰ってきてくれたんならええ。でもな、どこの馬の骨かもわからん男を連れ帰ったそうやないか」

 「…帰ってきたのではありません。報告にあがっただけです」

 冷たい由美子の言葉に、勇次はぞっとした。

 ──あれが怯えていた、悲しんでいた彼女の声なのか?

 「由美子!その男はどこにいる!呼んでこい」

 「…」

 由美子の男であるはずの勇次が、横で壁に耳を当てているのだから、由美子に呼べるはずがない。

 しかし、男は現れた。

 「ジャジャジャーン!由美子ちゃんの恋人!勇次君登場!」

 「勇次君!」

 いきなり窓を割って入る勇次の姿に、由美子は驚き、はるかは茂みの中で溜息を洩らした。

 「ったく、好きなんだから…」

 はるかの呟きを余所に、勇次は無遠慮に高野に向かった。

 「お嬢さんをいただきます。用事はそれだけです。さぁ、由美子ちゃん、行こう」

 呆然とする高野に一礼した勇次は、端正な顔を引き締めて由美子の手を取った。

 「さぁ、行こう」

 由美子は勇次の向かう方に、釣られるように付いていった。

 窓から来た勇次は、由美子を抱き上げて、再び窓から外へ出た。

 「待て!いや、待ってくれ!由美子!父さんを許してくれ。帰ってきてくれ。由美子ぉ」

 必死に頼む父親に、顔色一つ変えないで由美子は勇次に抱き上げられていた。

 「由美子ぉ」

 なりふり構わず娘の名を呼び続ける声に、他の声が入り込んだ。

 「親父さん!平山の愛人が逃げました!」

 「うるさい!今はそれどころじゃないんだ!」

 「父さん…」

 組のことより、自分を優先する父に、由美子は少しの躊躇いが生まれた。

 「由美子帰ってきてくれ」

 勇次と由美子は広い庭の茂みに隠れた。

 「由美子ちゃん!爆弾は仕掛けた?」

 「ええ、仕掛けたけど…」

 「じゃぁ、もう帰りましょうよ。こんな所にいても面白くないし」

 辺りが騒がしくなってきた頃、三人は茂みの中で、小さくなっていた。

  「そろそろ、和夫君も待ってるだろうし…行こうか」

 勇次の言葉で三人は動き始めた。


 「和夫」

 「兄貴、勇次さん達、まだ来ません」

 「爆発は九時だ、まだ三〇分ある」

 「なんか、中が騒がしくなってきて…あ、見回りが来ました。切ります」

 無線機を足下にそのまま落とした和夫に、高野組員が話しかけてきた。

  「お前、こんな所に車なんか止めてなにしてんだぁ?あぁ?子供は帰って早く寝ろや」

 和夫の乗る車を蹴られ、和夫は少しびびった。しかし、もう一人の男にドアを開けるように言われ、ここで逃げ出す事もできずドアを開けた。

 「おい、坊主。この辺に人が来なかったか」

  「いえ、知りません」

 「お前、無免許だろ?正直に言わないと警察に言いつけるぞ?ん?」

  「ぼ…僕は、無免許なんか…し、してません」

 和夫の震える声が、「僕は無免許です!」と言わんばかりに響いた刹那の出来事である。。

 「かっずおちゃーん、おいたしちゃぁだめよーん」

 はるかの甲高い声と、勇次の蹴りが塀から降り注いできたため、和夫に話しかけていた男は気を失った。二人目の男を和夫が思いっきり殴った。だが、それはあまり相手には効かなかったようだ。

 「和夫君ったら、ホントにやくざかねぇ」

 無駄口を叩きながら、二人目を片づけると、勇次は由美子に手を差しのべた。

 高い塀の向こう側から、由美子が覗いている。その隣にははるかが塀に腰を下ろしていた。

 「さぁ、勇ちゃんに早く受け取って貰いなさいよ」

 はるかが由美子に逃げるように言ったが、由美子は動こうとはしなかった。

 「何やってんの?早く登りなさいって」

 はるかの言葉を聞くと、由美子は登りかけていた塀を降りた。

 「行けない…やっぱり行けないわ…」

 由美子がはるかを見上げた。はるかでさえドキリとするほど、月明かりを受けた由美子は美しかった。はるかとは対照的な美しさである。清楚で儚く、そして悲しげだった。美しくても華がなかった。

 「あんた…何考えてんの?」

 その姿ははるかしか見えなかった。すでに塀の内側に降りていた由美子は、はるかに向かって、小さく言った。

 「美人薄命っていうでしょう…」

 「な…何戯けたことを言ってるのよ!こんな時に!…あんたなんか長生きするわよ」

 はるかの声が微かに震えた。

 「あ、あんたなんて、人の恋路を邪魔する野暮な女なんだから…」

 「そうね…山崎さんにちょっと優しくされたからって、図に乗っちゃたかな…。はるかさんの様に素敵な方が側にいるのに…ね」

 「そうよ!うだうだ言ってないで、早く行くわよ!勇ちゃん…この女ったら…」

 はるかが勇次に話しかけた隙に、由美子は歩き出した。

 「ちょっと!待ちなさいよ!」

 「私…やっぱり、父を殺すなんて…出来ない…。私行きます。爆弾…福山組から調達した武器庫に仕掛けたの。凄い爆発が起きるから…早く行って…」

 「待ちなさいったら…」

 はるかの呼ぶ声を振り切り、由美子は走り出した。

 「勇ちゃん!勇ちゃん!あの女…行っちゃった!」

 爆発まで約一五分。由美子は父親を殺すことは出来ないと行って走り去ってしまった。

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