第十八話 断章
深夜。
ユリアは静かに部屋の扉を開いた。
廊下に人の気配はない。
壁に掛けられた燭台だけが、弱々しい光を揺らしている。
長い廊下。
その先は闇に溶けていた。
ユリアは足音を殺しながら歩き出す。
――誰が私をこんな場所へ追いやったのよ……。
王族の居住区から外れた客室。
窓も小さい。
人の往来も少ない。
昼間は気にならなかった。
だが。
夜になると、その隔離されたような立地がよく分かる。
ユリアは小さく息を吐いた。
できるだけ人と遭遇しないように。
遠回りの経路を選ぶ。
表の階段は使わない。
使用人たちが使う裏階段へ向かう。
石段を慎重に下りる。
窓から差し込む月明かりが床へ細く伸びていた。
再び廊下へ出る。
静かだった。
聞こえるのは自分の足音だけ。
やがて。
管理室の前へ辿り着く。
扉を見つめる。
――この時間なら。
――流石に誰もいないでしょう。
ユリアは管理室へ足を踏み入れた。
静かに扉を閉める。
部屋の中は暗い。
窓から差し込む月明かりだけが室内を淡く照らしていた。
書棚。
机。
壁に掛けられた鍵。
見慣れた景色。
ユリアは記憶を頼りに奥へ進む。
――確か……。
――この辺りにあったはずだけど……。
暗がりの中を手探りで探す。
やがて。
暗闇に目が慣れ始めた頃。
壁に並ぶ鍵の中から目的のものを見つけた。
――あった。
安堵の息を吐く。
その時だった。
ふと。
壁際の机へ視線が向く。
月明かりに照らされた紙束。
その一番上に置かれていた書類だった。
――部屋割り表……?
ユリアは近付く。
紙へ顔を寄せた。
ヴォルクナー家。
王妃。
エルザ。
有力貴族たちの名前。
それぞれ王宮内の居住区画が記されている。
――いい場所にいるわね……。
思わず眉をひそめる。
そして。
自分の区画へ目を向けた。
そこには。
誰の名前もなかった。
ユリアは目を瞬かせる。
――誰もいない……?
違和感。
背筋が冷える。
もう一度確認する。
だが。
やはり誰も書かれていない。
そして。
そこには自分の名前もなかった。
ユリアの呼吸が止まる。
――私は……?
紙を見つめる。
何度見ても変わらない。
そこに。
ユリア・フォン・ライヘンバッハの名は存在しなかった。
――どういうこと……?
胸の奥がざわつく。
――居ないことになってる……。
ユリアは唇を噛んだ。
だが。
すぐに首を振る。
――今は……。
――それどころじゃない。
知りたいことは他にある。
ユリアは壁から書庫の鍵を外した。
そして、管理室を出る。
再び静かな廊下へ戻った。
ユリアは廊下を進んでいた。
できるだけ気配を殺しながら。
それでも自然と足は速くなる。
王宮は静まり返っていた。
壁に掛けられた燭台の火も少ない。
揺れる灯りが石造りの廊下へ長い影を落としている。
やがて。
王宮の公文書が保管されている書庫へ辿り着いた。
ユリアは周囲を見回す。
人の気配はない。
静かに鍵を差し込む。
小さな金属音。
そして。
重い扉が開いた。
中は暗かった。
ユリアは扉を閉める。
書庫の中央に置かれた机へ歩み寄った。
卓上の燭台へ火を灯す。
小さな炎が揺れる。
わずかに視界が明るくなった。
――これで何とか見えるか……。
ユリアは本棚から資料を取り出す。
机へ置く。
燭台の近くへ引き寄せて頁を開いた。
だが。
そこに書かれていたのは現王家の記録ばかりだった。
ヴォルクナー家。
王位継承。
各地の視察。
外交記録。
ユリアは眉をひそめる。
――この辺りはヴォルクナー家のことばかりね……。
資料を戻す。
別の冊子を取り出す。
さらに年代を遡る。
――この辺りに現国王の即位があるはず……。
――あと少し前……。
頁を捲る。
一枚。
また一枚。
その時だった。
ふと。
ある文章が目に留まる。
『捜査を終了する』
ユリアの手が止まった。
――どういうこと……?
視線を前の頁へ移す。
『これ以上の調査は王国の混乱を招く恐れがある』
『王国の信頼維持を優先し、本件の調査を終了する』
ユリアは目を細める。
さらに前へ。
頁を遡る。
そこには。
ライヘンバッハ国王及び王妃の死に関する報告書が綴られていた。
『調査の結果、
両名は他殺されたものと判断する』
ユリアの呼吸が止まる。
――お父様とお母様は……。
――事故死じゃ……。
階段から転落した。
そう聞かされていた。
ユリア自身も、その場にいたはずだった。
だが。
記憶は曖昧だった。
幼い頃のことだから。
そう思っていた。
けれど。
――私もその場にいたのに……。
――どうして何も覚えていないの……?
ユリアは無意識に額へ手を当てた。
その瞬間だった。
脳裏を一つの光景が掠める。
トマトの蜜煮を口にした時。
自ら命を絶った時。
何度か見た光景。
赤い床。
倒れる誰か。
口元から流れる血。
一瞬だった。
だが。
今までよりも鮮明だった。
まるで何かを思い出そうとしているかのように。
その光景だけが脳裏へ焼き付く。
――この記憶……。
次の瞬間だった。
胸の奥がざわつく。
何かがおかしい。
そう思った。
だが。
その理由を考えるより早く。
背中に熱が走る。
息が止まった。
手から資料が滑り落ちる。
視界が揺れる。
何が起きたのか分からない。
身体から力が抜けていく。
ユリアは机へ倒れ込んだ。
燭台の火が揺れる。
赤い染みが頁の上へ広がっていく。
そこで。
意識が途切れた。
――ぐはっ。
ユリアは息を呑むように身体を起こした。
荒い呼吸。
激しく脈打つ心臓。
震える手。
辺りを見回す。
見慣れた部屋。
寝台。
窓。
机。
そして。
卓上暦。
一月三十一日。
ユリアの顔から血の気が引いた。
理解が追い付かない。
だが。
身体は覚えていた。
背中を貫いた熱。
息ができなくなる感覚。
急速に遠のいていく意識。
ユリアは無意識に自分の背中へ手を回す。
何もない。
それでも。
あの感覚だけは消えなかった。
小さく唇が震える。
――誰かが……。
――私を殺した……?




