もう一つの別れ
上野国、新田荘にある安養寺。
康平四年(1061年)創建の真言宗の寺院であり、寂れていたのを新田義重が再興した事がきっかけで、新田家とつながりを持つようになった。
その安養寺で今、新田家の前当主、新田政義の葬儀が行われていた。
喪主は故人の弟にして現当主の重兼である。
真言宗の本尊である大日如来像が安置されている本堂に 、新田一門の主な者達が集まっていた。
新田政義の葬儀の真っ最中であり、読経の声が響いている。
重兼は、その最前列に座っていた。
そして、彼の前で読経している僧侶が覚義。
重兼の次兄である。
法要が終わり、弔問に訪れた客人の応対が一段落して、重兼は一息ついた。
新田家は上野国内では一応名門であるし、和田合戦でかなり武名を挙げた事もあり、意外と多くの人間が訪れて来たからかなり疲れた。
やって来たのは近隣の御家人達、小林、瀬下、山上、深栖といった新田家よりもさらに少ない所領を持つ連中である。
新田家は今回の戦いで武功を挙げただけでなく、官職も与えられるという話が囁かれている事もあって
この機会に、新田家との接点を設けておこうというのだろう。
勿論、何らかの恩恵を期待しての事だ。
中には生田太郎なる変わり種もいた。
彼の父は新田義重に仕えていた武士であり、義重が死んだ後に帰農していたが、もう一度新田家に仕えたいと思い、葬儀に参列したとの事だった。
重兼は快く承諾した。
これからの新田家は、より多くの人材が必要になるので、人材は一人でも多く必要である。
あと、新しく新田家の所領となった邑楽御厨から篠塚太郎という武士がやって来た。
新しく地頭職になった重兼に、弔問のついでに被官にになる事を伝えに来たとの事だった。
重兼はこれも受け入れた。
今後も、このような事例があるかも知れないからだ。
この調子で、他の土地の武士達も新田家の被官にしていきたい。
その為には、近隣の武士に関する情報を集めておく必要があるだろう。
その武士の家の内部や経済事情などを知っておけば、被官として取り込むのに役立つはずだ。
将来のために、その事を記憶に留めておく事にした。
新田家のさらなる発展。
それが重兼の政義に対する誓い、或いは謝罪なのだから。
無人となった広間に腰かけて休んでいると、僧侶が声をかけてきた。
「重兼様……」
「何用ですかな?」
「覚義殿が、兄上がお話があるとの事です」
案内された小部屋に、僧形の兄が正座して待っていた。
その正面に、重兼は無言で着座する。
少しの間、なんとも形容しがたい沈黙があった。
先に口を開いたのは兄だった。
「重兼。 此度の合戦で幕府から随分と恩賞を、所領を頂いたそうだな」
「……はい」
「満足か?」
兄は弟を、じっと見つめた。
その視線は、非難、軽蔑、罵倒、憐れみが入り混じったような視線だった。
「他者を討ち取り、兄を死なせて武功を挙げて多大な恩賞を得た。 それで満足か?」
「……」
重兼は言葉が出なかった。
鎌倉で一族を前にして葬儀を安養寺で行う事を伝えた時口ごもったのは、これが理由だった。
おそらく次兄に非難されるだろうという、はっきりとした予感があったからだ。
そして、それは今、現実となった。
覚義は怒ってはいなかった。
しかし、静かに、明確に弟を責めていた。
「敵を討ち取り、その首を取って手柄とし、恩賞をいただく。 武士としては正しき道なのや知れぬ。 されど、人の道、仏の教えから外れる所業なのだ。 私が仏の道に入ったのは、家督や所領の事で兄弟相争うのを避けたかったのもあるが、武士として生きる事に疑念を抱いたからよ。 殺し、殺される。 市井において人を殺めれば罪に問われる。 されど、戰場においては誉れとなる。 おかしいではないか」
重兼は黙っていた。
兄の言葉が重かった。
令和の時代の日本人としての価値観、道徳観を持ち合わせているだけに。
二十一世紀の日本人らしく、平和ボケしているのかも知れないが、鎌倉時代の武士の価値観を理解していなかったかも知れない。
和田合戦の前の重兼は、戦に参加して武功を挙げれば恩賞が貰えて、新田の家格が上がる。
それで、めでたしめでたし。
そう考えていた。
それが、何を意味するのか。
何をしなくてはならないのかを、分かってはいなかった。
そして、重兼はその軽率さの代償を支払った。
他人をおのれの手で殺す。
そして自らの負傷と、郎従と兄、政義の死をもって。
左腕は、以前に比べると少しは痛みは収まったが、心の痛みが消えるまではかなりの時間がかかるだろう。
覚義はしばらくの間、黙ったままの弟を見つめていたが、ため息をついて口を開いた。
「私はこの後、高野山に行くつもりだ。 彼の地で修行に励み、兄上の冥福を祈る」
「……左様ですか」
「新田の地は二度と踏まぬつもりだ」
「……」
「重兼、達者でな」
「……兄上も」
重兼は席を立った。
軽く一礼して、部屋を出る。
これが兄弟の静かな 、そして、永遠の別れだった。
数日後、新井覚義は共の者を一人連れただけで紀伊国、高野山へ旅立った。
弟からの餞別や、護衛をつけるなどの申し出を全て拒絶して。
見送りもだった。
そしてその日、重兼は自室に閉じこもって誰にも会わなかった。




