第145話 1563年(永禄六年)2月 筑前・博多
◆◆◆◆毛利隆元◆◆◆◆
博多の朝は早い。
隆元は桟橋の端に立って湊を見ていた。夜明けの光が海面に薄く広がっている。南蛮船が二隻、沖に停まっている。ポルトガルの商船だ。昨夜着いたのか、今朝着いたのか。いずれにせよ、もう荷を降ろし始めている。
(よく動く湊だ)
長崎を見てきた隆元には、比べる基準がある。長崎は五年で形になった。博多はすでに形があった。毛利が受け取ったのは、すでに動いている町だ。動いている町を止めずに治めることと、止まっている土地を動かすことは、まるで違う。
(義弟は長崎を動かした。儂は博多を止めなかった。それだけでよいのか)
隆元は自問した。答えはまだ出ていない。
足音がした。恵瓊だ。
「御方様、本日の客人の顔ぶれを申し上げます」
「うむ」
「筑前より宗像氏貞殿、高橋鑑種殿。筑後より龍造寺旧臣のうち毛利に帰順した者、三名。肥前より少弐冬尚殿、鍋島直茂殿、江上武種殿。そして」
恵瓊が一瞬間を置いた。
「吉川元春殿と小早川隆景殿」
隆元は頷いた。
「全員来るか」
「断った者が三家ございます」
「名前を覚えておけ」
それだけ言った。
隆元は再び湊を見た。
今日の宴は食事をする場ではない。場の空気が物を言う。焼かずに博多を取った男が、博多で膳を用意する。それだけで十分だ。言葉は最小限でいい。
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昼。
毛利の陣屋に用意された広間に、国衆が集まり始めた。
博多の町の中でも上等な建物だ。神屋紹策が手配した。壁に唐の絹が張ってある。窓から湊が見える。
鍋島直茂は末席近くに座った。
広間の空気は重かった。
直茂は顔を上げずに周囲を見た。宗像氏貞——博多湾の海を押さえる男だ。大友のもとにいたが、毛利が筑前を取った今は帰順している。顔が読めない。高橋鑑種——こちらは素直な顔をしている。毛利の傘下に入ることを渋っていなかったと聞く。
肥前勢は直茂を含めて三人だ。江上武種は殿(冬尚)の少し後ろに控えている。
殿の横顔を見た。
少弐冬尚は静かに座っている。
(殿は今日、ここで何をするつもりか)
直茂はそれをまだ聞いていなかった。聞く必要がないと思っていた。殿が何をするかを知らなくても、直茂がここで見るべきものは変わらない。
上座に毛利隆元が座った。
広間がしんとした。
隆元は何も言わなかった。ただ正面を向いて、座っていた。
膳が運ばれてくる。博多の魚と唐の料理が混じっている。酒が注がれる。
隆元が盃を持った。
「集まってくれた。礼を言う」
それだけだった。
宴が始まった。
◆◆◆◆少弐冬尚◆◆◆◆
酒を一杯だけ飲んだ。
冬尚は膳を見ながら、広間の空気を感じていた。重い。誰もが誰かの顔色を窺っている。毛利の当主が何を考えているのか、誰もまだ分かっていない。
分かっているのは一つだ。
焼かずに博多を取った男が、今日この広間にいる。
冬尚は盃を置いた。膝に手を当てた。隣の江上が微かに身を固くした気配があった。
(行くか)
宴が少し進んだところで、冬尚は立ち上がった。
広間が静かになった。
「少弐冬尚、毛利安芸守殿に申し上げます」
隆元が冬尚を見た。
「佐賀大乱の折、毛利殿には物資のご支援を賜り申した。この冬尚、深く感謝しております」
隆元は黙って聞いていた。
「肥前は今後とも、毛利安芸守殿を頭として戴き、その指図に従う所存にございます」
広間がまた静かになった。
宗像が目を細めた。高橋が膳の上に視線を落とした。
少弐冬尚が毛利に頭を下げた。
それだけのことだ。しかしその重さを、広間にいた誰もが感じた。太宰府の少弐——かつて肥前を束ねた名門が、毛利の下についた。
隆元は少し間を置いた。
「冬尚殿、受け取った。今後とも宜しく頼む」
冬尚は頭を下げた。
(これでいい)
席に戻りながら、冬尚は思った。
龍と虎の威を借る狐。それを承知で借り続ける。恥じる気持ちはない。これが乱世を生き延びる答えだ。毛利の傘下に入ったことで、肥前は守られる。それで十分だ。
隣に鍋島の気配があった。目は合わせなかった。しかし直茂がこの宣言の意味を分かっていることは、分かっていた。
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宴の空気が変わったのは、それから少しした後だった。
吉川元春が立った。
鍋島直茂はその場で思わず顔を上げた。
元春は体の大きい男だ。立花山城を三千で落とした男だ。戦場でそう聞いていた。実際に目の前に立つと、その圧がある。
「吉川元春、兄・隆元殿に申し上げます」
広間が凍った。
兄に、と言った。毛利の猛将が、今この場で主筋を公にした。
「吉川の軍は、今後毛利安芸守殿の直臣として動きます。儂の采配は兄上の采配の下に置く。それがしかるべき筋と、儂は思うております」
元春はそこで少し間を置いた。目が隆元に向いている。
静かに隆景が元春の横に座った。
「小早川家は毛利家に臣従いたします」
大きくはない。しかし皆に届く確かな声。
一拍置いて
「さて、兄上。この元春、使いこなせますかな」
広間に笑いが起きた。誰かが吹き出した。
隆元が少し笑った。
「使いこなすかどうか、それはお前次第だ」
「手強そうで、よろしゅうございます」
元春は座った。
直茂は広間を見た。
宗像氏貞の目が変わっていた。高橋鑑種が姿勢を正した。筑後の国衆が互いに顔を見合わせた。
(毛利の弟、吉川家の頭領があの調子で頭を下げた)
それが意味するところを、直茂は一瞬で読んだ。元春は渋々頭を下げたのではない。毛利家の秩序を自ら見せた。あの男が毛利の軍事を担いながら、なお隆元の指図の下に入る。それに小早川家も。毛利は己の領国を支配する形をみせた。ならば自分たちが従うのは当然のことだと、広間の全員が思い始めている。
宴が続く。
酒が注がれる。
国衆たちは少しずつ、毛利の旗の下に入ることを腹の中で決めていった。誰かが言葉にした。誰かが追った。毛利への臣従の言葉が、宴の席で一つ、また一つと出てきた。
強制ではない。
ただ、流れがそこへ向かっていた。
直茂は酒を飲みながら、その流れを見ていた。
◆◆◆◆毛利隆元◆◆◆◆
夜。
宴が終わった後、隆元は一人で湊に出た。
桟橋の端だ。昼間見た南蛮船がまだ沖に浮かんでいる。船の灯りが夜の海に映っている。
今日の宴で臣従を表明した国衆を、頭の中で数えた。
来なかった三家の名前を思い出した。
(名前は覚えた)
急ぐことはない。焦ることもない。来なかった者たちは今頃、今日の宴の話を人から聞いているだろう。少弐が頭を下げたと聞いているだろう。元春が隆元の下に入ると宣言したと聞いているだろう。
それで十分だ。
言葉は要らない。来なかった者たちは、自分で考える。
風が出てきた。
隆元は湊を見ていた。
義弟が長崎を作った。儂が博多を取った。今日、肥前が儂の下についた。九州北部が、形になってきた。
(義弟と並べたか)
自問した。
答えは出なかった。
義久が出雲から長崎まで手を伸ばした時、儂はまだ父の影の中にいた。今の儂は父の影の外に出ている。しかし義久が九年かけて作ったものと、儂がここ数年で取ったものとでは、根の張り方が違う。
(まだだ)
隆元はそう思った。
だが、向かっている。確かに向かっている。
波が続いていた。
博多の夜はまだ長かった。




