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納税者は二度死ぬ  作者: 紀友
第三章 死者の値段

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第十八話 頼っても、いいですか


 正門はまだ見えなかったが、私たちを乗せた車はずいぶん手前から速度を落としていた。


 車道の両側には人が増え、徐々に車道の幅を狭めていき、ほどなくして人で埋まった。


 警備の警察官だろうか。車に駆け寄り、進入禁止だと伝えてきた。


 助手席の男が、警官に二言三言告げる。警官は後部座席の私を一目確認してから、頷いた。


「この先、我々が誘導します」


 パトカーに付き従い、その後をゆっくりと追う。


人垣は少しずつ割れたが、そのぶん、こちらを見る顔も増えた。誘導されていることで、かえって注目を浴びた。


 正門が近づくにつれて、声が飛び始めた。


『――関係者ですか?!』


『中の状況を教えてください!』


『ヴァルガス氏の死因について――』


 警備の警官が制止しても、何人かは身を乗り出してくる。車の脇に並ぶ制服の肩越しに、カメラとマイクがこちらを向いた。


 報道陣のレンズやマイクが、車体やガラスにあたり、乾いた音を立てた。


 後部座席のスモークガラスに、こちらをのぞき込む顔がいくつも歪んで映った。


「窓から離れていてください」


 助手席の男に言われ、私は目を閉じてシートに背中を密着させる。


 車はさらに速度を落とし、正門の前でいったん詰まった。外の声が窓越しに重なる。また、何かが車体に当たった。


 瞼の裏に先ほどの形相が浮かんだ。


 次の瞬間、車がすっとスピードを上げた。


 顔をあげると、門柱を越え、敷地の内側へ入る所だった。


 外の声が、急に遠くなる。


 車は敷地内の道を進んでいく。さっきまで窓の外に押し寄せていたものは、もうなかった。


 私は、膝の上の握りこぶしをふっと緩めた。


 息を吸う。


 吸って初めて、息を詰めていたことに気づいた。




     ◇     ◇     ◇




「――少し、窓を開けましょう」


 気を利かせてくれたのか、運転席の男が言うと、言葉と同時に後部座席の窓がわずかに開いた。


 車が緩やかな坂を上っていくにつれ、冷たい風が車内に入り込む。


 静かだった。


 以前は公園のように感じた敷地が、いまは整えられた森の中に通された一本道のように見えた。


 道中、制服警官の姿がいくつも見えた。


 道沿いに立っているだけではない。植え込みの内側を覗く者、木立の間を行き来する者。


 鑑識らしき白い手袋の人間の姿もある。


 静かな敷地の中で、人だけが目的を持って動いていた。何かがあったのだと感じるには、それで十分だった。


 車がメインレジデンスの前で止まった。


 助手席の男が先に降り、後部座席のドアを開けた。


 玄関前にいた一人が近づいてきた。


「麻生先生」


「はい」


「倉持です。ヴァルガスの警護の……」


 倉持はそこまで言って、言葉を切った。


 その先を、現在形で続けていいのか、一瞬だけ迷ったように見えた。


 これまで何度もヴァルガスの近くで見た男だった。会見の端。イベント会場の通路。私の事務所の玄関。名前を聞いたのは、たぶん今が初めてだ。


「エヴァさんは?」


「先ほど戻り、いまは中にいます。こちらへ」


 倉持はそれだけ言い、私を玄関へ促した。


 玄関を入ると、正面の広いホールに何人もの人がいた。


 以前来た時は、広さのほうが先に目に入った。今日は違った。人の立つ位置と、動いている方向が先に見えた。


 私設警護が、玄関から奥へ続く導線を空けている。制服警官が、入ってくる人間の名前と所属を確認している。廊下の奥では、鑑識と捜査員が何かを運び、別の捜査員がそれを止めて、記録係を呼んでいた。


 声は多いのに、誰も大声ではなかった。


 それがかえって、正門前よりも扱いづらい場所に入ったのだと分からせた。


 倉持は受付のように置かれた簡易机の前で足を止めた。そこには日本の警察官が二人、邸宅側のスタッフが一人、通訳らしい女性が一人いた。


「麻生奈緒先生。エヴァからの要請で入館です」


 倉持が告げると、警察官の一人がこちらを見た。


「身分証をお願いします」


「はい」


 私は弁護士会の身分証と運転免許証を出した。


 警察官は確認し、隣の紙に名前を書き入れた。紙にはすでに何十人もの名前が並んでいる。所属の欄には、警察、検察、大使館、邸宅側、医療関係、米軍、といった記載が混在していた。


「携帯電話は?」


「持っています」


「建物内での撮影、録音はご遠慮ください」


 私が返事をする前に、廊下の奥から声がした。


「不要です」


 エヴァだった。


 彼女は端末を片手に、こちらへ歩いてきた。ジャケットの前は留められていない。髪も、いつものようには整っていなかった。疲労の色を携えて、警察官と私の間に立った。


「何度も言いますが、建物全体を一律に制限する根拠は何ですか?」


 警察官は、一瞬だけ返答に詰まった。


「捜査上の必要です」


「では、その範囲を示してください。ここはヴァルガスの私邸であり、先生は本人の生前からの日本側代理人です。私の要請で来ています」


「しかし、死亡現場ですので」


「死亡現場は建物全体ではありません」


 エヴァは声を荒げなかった。


「必要な区画は封鎖してください。そこには立ち入りません。ですが、建物全体で一律に制限することは認めません」


 警察官は、倉持を見た。


 以前なら、その確認は逆だったのかもしれない。ヴァルガス側が先に決め、警察がその外側を固める。少なくとも、私がこの屋敷に来た時はそう見えた。


 今は違う。


 その中で、エヴァだけが、まだ線を引いていた。


「……現場区画への立入りはできません」


 警察官が言った。


「承知しています」


「撮影、録音については、現場区画と、証拠保全上必要な範囲で制限します」


「範囲を明示してください。それなら従います」


 エヴァは私に顔を向けた。


「麻生先生、こちらへ。執務室で話します」


 私は身分証を受け取り、端末を鞄にしまった。


 エヴァはそれ以上、警察官に何も言わなかった。倉持も口を挟まなかった。


 ただ、私たちが廊下へ進む時、簡易机の前にいた警察官が、さきほどより一歩だけ下がった。


「麻生先生」


 歩きながら、エヴァが言った。


「弁護士の目から見て、今後必要だと思うものがあれば、撮影してくださって構いません」


「はい」


 廊下の奥では、邸宅側のスタッフが捜査員に何かを説明していた。通訳が横に立ち、別の警察官が記録を取っている。


「たぶん、ここへの出入りも制限されます」


「現場だけではなく?」


 死亡現場の保存は分かる。必要な範囲で封鎖されることも分かる。けれど、邸宅全体となると話が違う。


 エヴァはすぐには答えなかった。


「分かりません。ですが、私が到着する前は、そうなりかけていました」


 エヴァは短く答え、目頭を押さえた。


「建物内の移動、スタッフの端末、保管庫、執務室への立入り。すべて、警察側の確認を通すという形です」


「なんでそこまで」


 その答えを、エヴァが視線を向けて示した。


 邸宅側のスタッフに説明を求めていた捜査員たちのさらに奥で、日本の捜査員と外国の捜査員が向かい合っている。通訳はその間に立ち、片方の言葉を訳し終える前に、もう片方から声をかけられていた。


「その端末は、米国法人が管理しています。確認には、こちらの立会いが必要です」


 通訳が日本語に直すと、日本の捜査員は首を振った。


「ここは日本国内です。現場資料の確認は、日本の捜査機関が行います」


 通訳が英語に戻す前に、外国の捜査員が口を挟んだ。


「No. That is not acceptable.」


 通訳は一度そちらを見てから、日本側へ向き直った。


「受け入れられない、と」


「では、正式な照会を出してください。今ここで端末の扱いを変えることはできません」


 日本の捜査員がそう言うと、通訳はまた英語に戻した。最後まで訳し終える前に、外国の捜査員がさらに言葉を重ねた。


 通訳は英語の途中で日本側からも声をかけられ、どちらを先に訳すべきか一瞬迷っていた。


 エヴァは、その横を通り過ぎながら小さく言った。


「――Shit」


 私は聞こえなかったふりをした。




     ◇     ◇     ◇



 執務室に入ると、エヴァは部屋の中を一度見回し、何も言わずに片手を軽く広げた。


 ご覧のありさま、という仕草だった。


 机の上には、開いたままの書類と本が並んでいた。引き出しの一つは半分開いている。鍵付きのキャビネットには封印用のテープが貼られ、床には中身を確認する途中で止まったような箱が二つ置かれていた。


「触れられるものが限られています」


 エヴァは執務机の前で足を止めた。


 私もその横に立った。椅子はあったが、どちらも座らなかった。


「必要最低限のものだけ、私が確認しています。残りは、警察の作業が再開されるまで動かせません」


「ここもですか」


「はい。執務室は、ボスの個人資料と邸宅管理の資料が混ざっています。警察は現場に関係する可能性があると言い、こちらは権限と範囲を確認しているところです」


 エヴァは机の上の端末をひとつ閉じ、別のファイルを私の方へ向けた。


「私はこの後、横須賀を経由し、ボスの遺体と一緒にアメリカへ向かいます」


「はい」


「こちらに残れる時間は長くありません」


 エヴァは、ファイルの上に指を置いた。


「ですが、日本側でやるべきことも多くあります。邸宅スタッフの雇用関係、警備費用、国内支出、在留・住所関係、自治体への照会。それに、警察対応」


「警察からの照会も、ですか」


「はい。すでに口頭では来ています」


「エヴァさん、それは口頭では答えないでください」


「わかりました。書面で対応します」


 私は頷いた。


「こちらでも、受け口を作ります。税務と住所判定に関係するものは、いったん私の事務所へ回してください」


「ありがとう。助かります」


「ただ、日本側の個人資料でも、相続やアメリカ側の手続に関わるものは、私だけでは判断できません」


「その場合は、私に直接戻してください」


「警察に資料や端末を渡す場合は、任意提出なのか、令状に基づく差押えなのかを分けてください。任意提出なら提出書や領置関係の書類、差押えなら目録の写しが必要です」


「すでに、そこが曖昧なものがあります」


 エヴァの返事は早かった。


「国内手続の担当候補を整理します」


「お願いします」


 エヴァは端末に手を伸ばした。


 すぐに操作するのだと思ったが、指先は画面の手前で一度止まった。


 彼女は、机の上に置かれた端末を見下ろしていた。表情は変わらなかった。けれど、指先が戸惑いがちに上下した。


 私が次の確認事項を考えかけたところで、エヴァは端末を操作し、画面をこちらへ向けた。


「見てください」


 画面は、バーカウンターを上から見下ろしている映像だった。


 そこには、ヴァルガスの姿もあった。


「これは?」


「ボスが倒れた時の映像です」


  カウンターには、ロゴの入ったアイスのカップがいくつか並んでいた。蓋は外され、それぞれにスプーンが差してある。端には、白いタオルが置かれている。


 ヴァルガスは一人で座っていた。


「プライベートエリアの映像は、邸内サーバーに残ります」


 エヴァは画面から目を離さずに言った。


 ヴァルガスは手前のカップを取り、ひと口食べた。


 すぐには次へ移らなかった。スプーンを持ったまま、少しだけ動きを止める。


「これは、そこから取得できた分です。取得中に、邸内サーバーへのアクセスが落ちました。回線なのか、電源なのか、権限なのかは、まだ分かりません」


 ヴァルガスは隣のカップを手元へ寄せた。ひと口食べ、また動きを止めた。


 考えごとをしているようにも、ただ味を確かめているようにも見えた。


「バックアップはアメリカです。One-wayで、外部からは引き出せません」


 ヴァルガスは三つ目のカップに手を伸ばした。スプーンを入れたところで、手が止まる。


 画面の時刻だけが進んでいく。


 しばらくして、ヴァルガスの身体が前へ傾いた。


 力なく落ちた手がカウンターのタオルを巻き込み、滑らかな天板を滑るようにして、そのまま上半身ごと突っ伏した。

 

 アイスのカップの一つが傾き、スプーンがカウンター上に転がる。


 室内にヴァルガス以外の人影はなく、彼は一人、静かに時を止めた。


 映像はそこで止まった。


 エヴァは、止まった画面を見ていた。


 少しして、端末の表示を消した。


 画面が暗くなると、視界と意識に執務室の乱れが戻ってきた。封印テープの貼られたキャビネット。半分開いた引き出し。机の縁から垂れたケーブル。


 私はそこで、頭を下げた。


「この度は、大変お悔やみを申し上げます」


 口にしてから、その言葉がようやく自分の中に入ってきた。


 速報をニュースで目にした時も、門の外で報道陣に囲まれた時も、倉持が玄関前で言葉を切った時も、廊下で警察と各国の捜査員が言い合うのを見た時も、私はまだどこかで、仕事のためにこの屋敷へ来ているのだと思っていた。


 だが、さきほどの映像には、報道も、肩書きも、警備もなかった。


 ヴァルガスは、一人でアイスを食べていた。


 その姿を見て初めて、私は、彼が本当にもういないのだと受け入れた。


 頭を上げたところで、エヴァが一歩近づいた。


 肩に手が触れた。


 次の瞬間、私は抱きしめられていた。


 エヴァは、いつも姿勢の崩れない人だった。


 モナコのホテルでも、この屋敷でも、私の事務所に来た時も、彼女は必要なことだけを選び、しかるべき方法で、なすべきことをなしていた。表情も、声も、書類の扱いも、乱れたところを見せない、完ぺきな女性。


 そのエヴァが、私の肩に顔を寄せていた。


「奈緒」


 初めて、名を呼ばれた。


「……頼っても、いいですか」


 私は、父が亡くなった時のことを思い出した。


 心不全だった。


 弁護士として、人が亡くなった後に何が必要になるのかは知っていた。死亡届、葬儀、相続人の確認、預金、保険、準確定申告、事務所の処理。仕事でなら、項目に分け、期限を置き、必要な書類を揃えていけばよかった。


 けれど、そうは上手くできなかった。


 死亡診断書に書かれた名前を見ても、最初はそれが父のことだと分からなかった。葬儀社に訊かれたことを無意識に答え、火葬の日を決め、父の知人へ電話をかけた。言葉は出た。手続きも進んだ。それなのに、自分が何をしているのか、途中で何度も分からなくなった。


 家には、父のものがそのまま残っていた。


 湯飲みも、読みかけの本も、折り畳まれたシャツも、そこにあった。片付ければ父がいなくなったことを認めるようで、残しておけば帰ってこないことを思い出させた。


 一人になった。その事実が、のしかかった。


 そんな時、節子さんは事務所を開けてくれた。葬儀の日程を聞かれる電話を受け、父の知人へ連絡を回し、私が食べていないことに気づくと、何も言わずに食事を用意してくれた。


 高田先生は、仕事の話より先に、役所へ出すものと、急がなくていいものを分けてくれた。父の代から付き合いのある先生方も、案件の引き継ぎより前に、「今は任せてくれ」と言ってくれた。


 前の事務所を辞める時も、誰も責めなかった。


 所長は、しばらく黙って私の話を聞いてから、「何かあったら、いつでも連絡しろ」と言った。同期は、引き継ぎの表を私の代わりに作ってくれた。後輩は、私が残した仕事を黙って引き受けてくれた。


 父の事務所を継ぐと決めた時、自信は無かった。


 ただ、父のいた場所まで失くしてしまうことが、その時の私にはできなかった。


 ――じゃあ、エヴァは?


 彼女は今、ヴァルガスを失ったばかりの場所で、警察と各国の捜査員と、アメリカ側の関係者と、残された資料のすべてに向き合っている。しかも、これから遺体と一緒にアメリカへ戻らなければならない。


 ヴァルガスは、私にとっては手続きと資料の向こうにいる依頼人だった。けれど、その死でこれだけの国と人間が動き、エヴァはその中心に立たされていた。


 私に、何が、どこまでできるのだろう。


 答えは出ない。


 ただ、そうすることが当たり前のように、私はエヴァさんを抱きしめ返していた。


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