第八章――炎(ほむら)の子【後編】⑦――
羊の囲いから戻ったヘルガは、つい足が止まった。女衆の幕屋から、談笑する声が外まで漏れ聞こえていた。中にグズリと、もう一人誰かいる。
(いまなら話ができるかもしれない……)
ヘルガは迷った。この数日、グズリと二人きりになれる機会を密かに窺ってきたのだ。中の人にはそれとなく出て行ってもらうか、それとも何か理由をつけてグズリを外に連れ出すか。
ヘルガが悩みためらっているうちに、天幕が押し広げられて、中から小鳩のようにほっそりとした小柄な女性が出てきた。
「あら、ヘルガ」
エイナルの奥方、ニルフェンだった。
ニルフェンは入り口で立ちつくしていたヘルガの、たくし上げたままの足元を見て言った。
「囲いから戻ったところ?」
「そうです」
頷くヘルガに持っていた物を手渡して、彼女はかがみこみ裾を直してくれた。
「ちょうどいいところに戻ったわ。わたしたち、いま、子どもの冬物を手直ししていたところだったのよ。これから家の大きな敷き物も持ってくるつもり。手が空いてるなら、中でグズリさんを手伝ってちょうだい。まだ冬物が残っているから」
「はい」
「お願いね。あなたの針仕事は早くて丁寧だから、とても助かるわ」
ニルフェンはにっこりして、ヘルガに渡した物を受け取り足早に去って行った。たおやかな振る舞いの中にも見える働き者の気質は、淑女の代表さながらである。
思いがけずに狙っていた機会に恵まれたが、そのおかげで緊張も一気に増した――ヘルガは一度深呼吸をしてから中に入った。
「おやヘルガ。いらっしゃい。さっそくだけど、これを頼むよ」
入ってきた少女の顔を見て、グズリはその血色の良い頬をほころばせた。そして山と積まれた布の中から一部取り出して、自身の目の前に置いた。
ヘルガは彼女の正面に腰かけて、重なる布地を手に取った。子供の春用の長衣だった。
「うちの子たちはみんな大きくなったけど、孫も含めて男の子ばかりだからね。ロッタ用に、いくつか繕い直さないと。あの子は何が好きだろうね?」
ヘルガは針に糸を通しながら答えた。
「光る石とか、この時期だったらアネモネとか――きれいな物ならなんでも。この間は花輪を欲しがってました」
「花輪! あれは確かに見物だったわ」
あははと声をたててグズリは笑った。成人の儀で起きた、花輪待ちする女子の行列のことを言っているのだと、ヘルガは気づいた。
「このヨトゥンヘイムに、花輪を作る男衆なんていやしないからね。それを、惜しげもなく、全部女の子にあげてしまうんだもの。朝にはすっかり忘れているし。罪作りというか、なんというか……とにかく、難儀な子だったね」
グズリの目元がかすかに哀愁を帯びるのを見て、ヘルガは糸を通したばかりの針と直しかけの衣類をその場に置き、居ずまいを正した。
「グズリさん、お話があります」
「なんだい突然」
「フェンリルとトルヴァのことです」
いなくなってしまった二人の若者の名に、グズリは針を落としかけた。彼らが追放された養い親をめぐって、ブラギとひと悶着を起こしたのは記憶に新しい。
グズリとケヴァンが、そのことを知ったのは決着がついたあとで、ブラギは短く、今回のことは不問にすると、苦々しげに告げたのだった。
「二人はじいさまを追って出ていきました。いま、どこで何をしているのか、あたしも知りません。でも、もしも戻ってきたら――その時はどうか、二人の味方になってくれませんか」
「何を言うの」
グズリはにわかに固い声音になった。
三役が追放と決定した罪人を追っていくことは、罪人に手を貸したも同然のことと見なされるのだ。同じ罪を背負う者だ――元の集落に戻れることは、ほとんどあり得ない。
それを承知でヘルガは敷物の上に両手をついた。耳飾りが揺れて、しゃりんと涼やかに鳴る。これをはじめにつけてくれたのは、グズリだった。
「とてもよくしてもらっているのに、恩知らずな頼みをしているのはわかってます。追放された罪人を追うことが、どういうことなのかも知っています。その上でお願いしたいんです。罰が必要なら、あたしが二人の分も引き受けます。だから――」
「ちょっと――およしよ!」
ヘルガが深々と頭を下げようとするのを、グズリは慌てて制した。
「そんな簡単に頭を下げるものじゃないよ。残ったあんたたちについてはお咎めなしだと、ブラギも言ったでしょう」
「二人のやることに、あたしも協力しました」
ヘルガは首をふった。
「きっと二人はじいさまに追いついて、最期の吐息を聞くでしょう。それは、じいさまと一緒に生きてきた、あたしたち全員の願いです――そのことを、理解してくれなんて言いません」
カザドが救った命の中にはヘルガたちも含まれている。だからといって彼の人間性と善行を、彼自身が奪ってきた命と比例させてはならなかった。
救った者と奪われた者。ひとつとして同じ命は無い。つり合いなどとれないのだから。
カザドがやったことを許してはいけない――だがカザドが過去に何をして、本当は何者であったとしても、ヘルガが真に苦しい時に手を差し伸べてくれた大人は彼だけだった。
そのカザドを追うことまでを、罪とは断じさせない。
「二人は、寄る辺なく旅し続けることには慣れています。戻ってくるかなんて、正直わからない。でももしもその時が来たら――どうか、淑女として味方になってほしいんです。忘れろなんて言わないで。二人のことを――あたしたちの結びつきを、無かったことにしないで下さい」
痛いほど切実なまなざしをまっすぐに受けて、グズリはそっとため息をこぼした。
この子供たちときたらフェンリルを筆頭に、皆が皆が、ここぞという時には頑として譲らない芯の強さ――もとい、頑固さを見せることがある。
「……あんたたちときたら、みんな、同じようなことを言うんだね……ヘルガ。あんた本当は、二人について行きたかったんだろう?」
ひた隠していた望みを暴かれて、ヘルガは、はっとした。
「でもあの子たちのために、こらえて残ってくれた。そうだね?」
思いがけず、グズリは優しい表情を浮かべていた。
「……わたしはね、たとえどんなにちいさな子供であっても、おためごかしは意味が無いと常々思っているんだよ。でも残酷すぎる事実は、隠さなければとも思った。忘れてしまえばいい……辛くて泣いてしまったなら、その時受けとめてやるのがわたしの役割だとね」
グズリは視線をヘルガから自分の手元に移した。
「ヘルガ、あんたはロッタの好きな物をよく知ってるよね? でもわたしたちは知らない。あの子の好きな物、嫌いな物、何ひとつね。ロッタだけじゃなく、ダインのことも」
今だって、彼女の服にどんな柄を縫ってやれば、一番喜ぶのかわからないでいる。
甥姪に最後に会ったのは、まだほんの赤ん坊の頃だった。それきりだったのだから、知るはずがないのだ。
「いざ困った時、あの子らが頼って探すのはあんたたちのほうだった――昨日今日会ったばかりの大人なんて、頼れるはずがないのに。身内ってこと、血の繋がりがあるってことに、わたしは知らずに胡坐をかいてたのさ。あの子たちの気持ちを真に思いやってはいなかった。あの御仁があんたたちにどれほど心をさいていたか、ひと目でわかったのに。都合の悪い部分を隠して、忘れることを強要して、それこそがあんたたちにとって最善だなんてね……傲慢だったよ」
いつもなら手早く終わるのに、まだ完成できないでいる縫物を見て、グズリは苦笑いを浮かべた。
「ああ、勘違いをしなさんな。責めているんじゃないよ。わたしが言いたいのはさ、つまりね、あんたがわたしを頼ろうとしてくれて、とても嬉しいんだってことさ」
「――グズリさん」
ヘルガは胸にせまるものがあった。カザドとフェンリルたちの行く末ばかりを気にして、側で黙って見守ってくれている存在を、知らぬ間にないがしろにしていた。
そんなつもりはなかったと弁明したかったが、グズリは敷物についたままのヘルガの手に自身の手を重ねてきた。
「それからね、そもそも最初に交わした取り決めを覆す気は、こちらには無いんだよ。弟は――ブラギは試すような真似こそするけど、誓いはきちんと守る男だ。どういう訳だかますますあの子らを気にいったと見えるし、むしろ戻れば歓迎するでしょう。あんたが心配すべきは、そこらへんだと思うよ」
「……それはっ」
ヘルガの視線がさ迷った。頬がさっと朱を帯びるわかりやすさに、グズリは鼻を鳴らした。
「まったく男どもときたら、融通がきかなくてぶっきらぼうで強情で、背中で語るのだと、かっこうつけたがるんだから! エイナルなんかはあれよ。どうせわたしが悪いようにはしないだろうと踏んで、何かしら企んでるに違いないよ。あんな食えない男に、ニルフェンはよくつきあってやってること! ああ、うちのケヴァンは別よ。是非ともみんなに見習ってほしいね」
さりげなく惚気て、グズリは胸を張った。
グズリは早口に戸惑っているヘルガの手を放すと、招くように両の手の平を掲げた。目の前に広げられた両腕と頬笑みにうながされて、ヘルガはおずおずとその身を差し出した。
緊張で強張っていた全身が、ふわりと包みこまれる――子羊の気分だった。
「スキンファクシを人質にとられて泡を食う様を、わたしも拝みたかったもんだわ」
グズリの胸で、思わずヘルガは吹き出した。
哀愁めいた気配はどことやら。グズリの元の調子が戻ってきていた。いつまでもくよくよするのが、元より性に合わない人なのだった。
「健気で優しい娘。こんな娘を置いてくってんだから、本当、馬鹿で男気のある子たちだよ――わたしらはもう、あんたたちを自分の子と同じように思っているってことを知っておいてちょうだいね。許しを乞うために、自分を投げうつ必要なんてないんだよ」
頬に触れるグズリの柔らかな胸からは、奴隷商で引き離されたきりの母と、そっくりの匂いがした。
ヘルガはフェンリルたちの後ろ髪を引くまいと、ずっと強がっていたのだと気がついた。しかし、別れのさみしさは雪のようにしんしんとつもり、堪えていたのだった。
(きっと大丈夫。無事でいる。いつかはここに戻ってくる……)
フェンリルたちがどうしているかを知る由はない。
でも彼が言ったように生きてさえいれば――ヘルガが望みを捨てず、生きてさえいれば必ずまた会えるに違いないのだ。
その時は心のままに、想いを伝えることだってできるかもしれない。




