第八章――炎(ほむら)の子【後編】④――
翌日は、二日目と同様によく晴れた日だった。
空は近く、地上は遠く、世界の支柱の破片の光はまったくわからない。本体は雲海の向こうから、時折何かの合図のように、ちかちかと閃く程度だった。
随分登った気がしていたのだが、実際のところ、彼らは中腹より上へはいっていなかった。高低差のさほど変わらぬところを平行し、南西の方角へと向かっていた。
ある時には下のほうから、とめどなく流れる水音がしたこともあり、ひょっとしたらヨトゥンヘイムに向かう際に利用した大川の流れが辿りつく先に、彼らも向かっているのかもしれなかった。
その気になれば橇を使ってヨトゥンヘイムまでひとっとびで戻れると、トルヴァが軽口を叩いた。
本当にそんなことをすれば、たとえ中腹であっても、橇ごとばらばらになるだろう。
「思ったんだけど、ハティが追っているのは、じいさんじゃなくてスコルかもしれない」
「スコル?」
荷物を一か所にまとめるフェンリルの発言に、トルヴァは片眉を跳ね上げた。
「多分な。だからスコルのいる先に、じいさんもいる……気がする。多分」
「ふわっふわじゃねえか」
呆れるトルヴァに、一応根拠はあるのだと、フェンリルは反論した。
「ハティは成りこそ大きいけど、月齢からすればまだ、母親から教わることが多いはずだ。じいさんを探せって命令が、群れの親を求める、自分の目的と混ざったからああなんじゃないか」
「それで獣道ばかりだったってのか」
フェンリルは頷いた。彼のこういう勘は、あながち馬鹿にできないし、どこか納得もできた。スコルがカザドと同時期に姿を消したと気づいた時、トルヴァも彼らが一緒にいると考えたのだ。
ただわからないこともある。昨夜現れた狼がスコルだったなら、どうして追われて立ち去ったのだろう? 狼の鼻は優秀だ。こちらにはハティもいたし、スコルならトルヴァたちのことがわからないはずはないのに……
トルヴァは鼻を鳴らして、昨日発見した骨をまだ味わって遊んでいるハティの顔を、両手で撫でまわした。今は考えてもわからないがフェンリルの予想通りなら、この先ますますハティが頼りとなる。
「じゃあハティはこれでもちゃんと、オレたちを導いてるわけね。その調子で、獲物のほうもよろしく頼んだぞ。お前の食いぶちでもあるんだから」
ハティは尻尾を振り、子犬のような声で応えた。
それから二人と一匹は弓矢を手に、小動物の糞や足跡を探りつつ歩いた。鹿や山ヒツジもいるようだったが、手間や量を考えると小さいほうがいい。集落の手土産にするわけではないのだ。
そうしているうちに岩の間を這うように密生する、岩高蘭を発見した。しかも時季外れの黒い実が、そのまま残っている。雪をかぶったまま、越冬したのだろう。
不思議なことにひと冬越えた岩高蘭の実は、酸味がほとんどない。苦味や渋みも和らいで、ほのかな甘み味すらあるので、生でも食べやすかった。
婚礼の祝いに贈られる絨毯のような足場から、いくつかつまんでいた二人は、ふいにハティが耳をピンとたて、姿勢を低くしたのに気がついた。
ハティに倣い、彼らも息を潜めて岩陰に潜みその視線の先を窺う。するとハティのようにまだらな茶黒の小さな岩が、もぞもぞと蠢いている。
腹まわりに白い冬毛を残した、一羽のライチョウだった。幸いにも、こちらが風下だ。トルヴァが弓に手を伸ばし、フェンリルが風をそよがせた。
そしてライチョウに狙いを定めていたのは彼らだけではなかった。フェンリルが顎でしゃくった先を見れば、白銀の毛皮を纏う狐がいた。
狐は今にも飛びかかれる距離に伏せていた――あちらも風下だが、目視できるほどだ。だがライチョウは実を啄むことに夢中で気づいていない。
二人は無言のまま、手や目の合図で互いの役割を決めた。ライチョウと狐。うまくいけば両方。駄目でもどちらかは獲る算段だった。
じりじりと狐が距離を詰めていく。
フェンリルはハティの首根っこを押さえ、風の流れが乱れぬように気を配った。ライチョウの真後ろに控える狐の存在を隠すため、そちらをも風下にしてやる。
じっと息を潜めその時を待った。
突如狐の体毛がぶわりと逆立ち、素早く駆け出した。牙と爪をむき出してライチョウに躍りかかる――その開けた胴体に向けて、トルヴァが一矢を放った。
矢はきんと風を切り狐の横腹に突き刺さる。狐は一声哀れに鳴いて、その場で転げ回った。
突如岩陰から立ち上がった人間と、背後に迫り来ていた狐に戦き、ライチョウがさっと羽を広げて飛び立つ姿勢になった。すかさずフェンリルが周囲で風を旋回させる。
うまく風を切れず飛び上がれなかったライチョウに、解放されたハティの牙が突きたった。ばたばたと羽毛が散る。どれほどもがこうとも、ライチョウが飛び立つことは二度とないだろう。
はじけんばかりの笑顔で、トルヴァはフェンリルに拳を突き出した。
「やった! 今日の飯確保!」
相手の拳を打ち返し、フェンリルも無言で表情をほころばせた。
二人は岩陰から出て、狐にとどめを、そのままライチョウを捕食しかねないハティを、それぞれ押さえに向かう。
「あれ、あの狐。見た感じ、結構良い毛皮だったよな」
「どうかな。もう冬毛は生え換わって、見た目ほどたっぷりしてないかもしれない」
「こんだけ寒いところの奴だぜ。まだきっと、冬毛のまんまだって。土産に持って帰ってたら、きっと喜ばれただろうな」
「かもな。でも肉のほうは期待できないぞ。背中ともも以外はハティにくれてやって、おれたちはライチョウをもらおう」
「矢羽根にもしばらく困らなそう――」
狩りの興奮で饒舌になる二人の間を、突如、真っ黒な影が突風のように駆け抜けた。
「わっ!」
トルヴァは姿勢を崩して、その場でしりもちをついた。
獲物を狙っていたのはフェンリルたちだけではなかった。犬よりも一回り大きな体に、幅広い跳躍を可能にする長い前脚と、ふっさりと垂れ下がった尻尾――狼だ。彼らの背後に潜んで巧妙に気配を隠し、飛び出す時を待っていたのだ。
狼は狐のもとに辿りつくなり、抗議するように上下する身体を、前足で押さえつけて噛みついた。ごきりと首の骨を砕かれ絶命し、だらりと伸びきった狐を咥えて走り去る。瞬く間のことだった。
「待て!」
「あっ、おい、ちょっと――」
戸惑うトルヴァを置き去りに、狐泥棒を追ってフェンリルは駆け出した。
飛び越えた岩陰の先には、ごつごつと飛び出す岩山が連なっていた。その更なる向こう側へと、後ろ脚とたなびく尾が吸い込まれるように消えていく。
フェンリルは叫んだ。
「スコル! 止まれ!」
昨夜同様、スコルはこちらの呼びかけに、振り向きも立ち止まりもしなかった。
狼の疲れ知らずの痩躯は、手つかずの険しい原生を苦もなくいつまでも駆け抜けることができる。
追跡するのは容易ではなく、あっという間に息が上がった。
だが今見失えば、もう二度と会えないだろう。そんな予感から、フェンリルは必死に追いすがった。たとえハティに匂いを辿ってもらったとしても、距離は開くばかりと思えたのだ。
そうして幾度目かの岩場で目測を見誤り、足元を湿った苔にとられて滑落した。
斜面に横ばいに倒れ、短剣を引きぬいて雪面に突きたてる。
柄から伝わる感触が、がりがりと手応えのあるものになるまでに大の大人、二人ぶんくらいは滑落したろうか?
フェンリルは風を巻き込み、落ちる速度を緩やかにしてどうにか堪えた。結局柔らかい深雪に全身を突っ込むことになったが、そこで止まったのは幸いだ。
腰に携えていたもう一振り――カザドの長剣が帯から滑り落ちていきそうになるのを、あわやで食い止める。
布がほどけて顕わになる、いびつな刃に反射した鈍い光を受けて、フェンリルは、自分がまったく見当違いなことをしている気がしてきた。
思えば人間が勝手につけたスコルと言う名を、狼が自分のことと認識しているとは限らないのだ。今さらだが、そもそも追いかけているのが、まったく別の狼だということだってあり得た。
斜面を這い上がり、どっと膝をついて息を整える。
狼が本気で疾走したなら人間の足ではとても追いつけない。もがいてるこの間に、もう、行ってしまった。
落胆するまま顔を上げたフェンリルだったが、そこで思いがけないものを見た。
滑落さえしなければ辿りついていたであろう岩場の先で、一匹の狼が悠然と構えていた。
月もない、世界の支柱の光も届かない。漆黒の夜空の中で二粒だけ光る、琥珀色の星――この世にふたつといないであろう、美しい狼がそこにはいた。
間違いない。
「スコル」
フェンリルが一言もらすと、スコルの黒々と垂れた尾が一度だけ、見間違いのようなかすかさで揺れた。
まなざしが交わされたと感じたのも束の間。スコルは足元に落としていた狐を咥え、きびすを返して駆け出した。
慌てて数歩ぶんを追う。するとスコルは離れた岩場まで駆け去ってから立ち止まり、再びこちらに向き直った。
「――ついて来いっていうのか?」
そうとしか思えないそぶりだった。じれったいような気持ちと、初めて心が通じ合ったような感動で、震える心地がした。
「そこに、じいさんがいるんだな?」
スコルは静かに、フェンリルを見つめていた。
そしてフェンリルは、トルヴァを待つべきか迷った末に一歩踏み出した。
何度も引き離されそうになるたび、スコルは待っていてくれた。スコルにはわかっていた。自身の呼び名も。フェンリルのことも。
ならばどうして逃げたりしたのだ。はじめから、素直に導いてくれないのだ――
怨みに似た感情が湧いたが、追いつきそうなのに追いつけない、そんな距離を保ったままの歩みに考え直した。
これはスコルなりの、最大の譲歩なのかもしれない。きっと狼には、狼の道理があるのだろう。
そしてとうとう、フェンリルは求めていた姿を見出した。




