第八章――炎(ほむら)の子【中編】⑤――
気づけば昔一度聞いたきりの、裁きの口上を口にして駆け出していた。
驚愕するトルヴァが見る間に横切っていった――完全に場当たり的な行動で、思えばずっとそうだった。
勝者に采配が委ねられる裁きの決闘を、本当は同族殺しにあてはめてはいけないのかもしれない。口上もどこか間違っていたかもしれない。でもいい。正しいやり方なんて、どうせこの場の誰にもわかりはしない。
出し惜しみはしなかった。重心を落とし、風を纏って、カザドの身体を貫くつもりで駆けた。
カザドは驚いた表情のまま、固まっていた。
袖口を赤く濡らし、病にやつれきってこちらを見上げる姿に、フェンリルは改めて、カザドの生き様が痛ましいと思った。
長いこと救われないできて、諦めることに慣れてしまった人なのだ。
だからフェンリルがカザドにできることは、きっともう、これしかないのだろう。
刃が届く距離まで迫った瞬間、フェンリルは、カザドの表情がわずかに緩んだのを見た。安堵のような、諦めのような――本当に何もかもをこちらに委ね、すべて、投げ出したような。
フェンリルは覚悟していたつもりだった。
それなのに、これほど近くまで脅威が迫っていながら、庇おうともしないカザドに、その顔に、ぶつりと、フェンリルの中で何かが引きちぎれた。
「――その様はなんだ、イル=カザドぉおおおおおおおおおおおおおおお!」
絶叫がびりびりと大気を震わせる。はじかれたようにカザドが、目前に迫った刃を避けて転がった。
カザドが熾そうとしていた薪にフェンリルは突っ込み、すぐさま逆手で刃を翻した。空気が裂け、カザドは無様に背中を打つ。
雪面に背中を密着させたまま、烈火の如く怒り狂う相手を見上げた。
「……ふざけやがってふざけやがってふざけやがって! この期に及んで、何へらへらしてんだてめぇ! てめぇそんな奴かよふざけんな! そんなんじゃねえだろ! なんなんだよそれは! てめぇ、てめえはっ……!」
吠え続けるフェンリルのまなざしがカザドを射抜く。暗闇に逃げ込むことを許さない、何もかもを暴いてさらけ出す夜明けの色だった。
この目。
この目を見出したあの夜から、カザドは始まった。
「――最期までみっともなく、あがききってみせろ!」
左胸目がけて振り下ろされる切っ先を、咄嗟に手にとった剣の腹で受ける。刹那、すべての音という音が吸い込まれた。
遅れてきぃんと、痛いほどの耳鳴りが剣から響き、震え、受けたところから刃が白くなっていく。
握り続けていられない程の冷気が瞬く間に柄まで走り、カザドが薙ぎ払おうと力を込めた途端、剣は受けとめた切っ先より粉々に砕け散った。そのひと欠片が、左頬の刺青を無惨に切り裂く。
双方にかかった力が行き場を失って彼らはぶつかり、そのまま斜面を転がった。
「――おーい!」
転げ回った二人を追いかけて、トルヴァが声を張った。
身を乗り出した先でカザドは背中をしたたかにうちつけ、むせていた。すぐ側に、申し訳程度に刃を残した剣の柄が転がっている。とりあえず生きてはいるようだ。
トルヴァは斜面を滑り降りた。ハティとスコルが後に続く。彼らが滑落していった世界の支柱の破片が光る方向には、絶壁が広がっていた。
相方の姿が無いことに最悪の事態を想像してひやりとする。だがトルヴァが着地したところとは反対の雪だまりから、突如ぼふっと粉雪が吹きあがり、青い頭髪がもがきながら這い出てきた。
「そこか! 無事かよ、おい」
トルヴァがフェンリルを掻き出す一方で、カザドは四つん這いになおり、折れた剣の柄をとった。
カザドが触れた途端、柄が残った刃ごとさらさらと崩れ、粉雪ほどの細かな金属片となって山として積もった。
確かにこれまで必要最低限のことしかせず、丁寧に扱ってはこなかった。だがこれは――。
「……お前、いま、いったい何をした?」
フェンリルは答えなかった。全身に雪をまとったままカザドの前に仁王立ち、再び短剣を突きつける。
今にもくず折れてしまいそうな程、両膝ががくがくと笑っていた。何らかの力が働いた末のことに違いないが、本人にはその自覚が無いようだ。
「――殺した」
顎を震わせフェンリルが言った。
「――罪人は、狂嵐の獣は、は――ぃま、おれが、殺した――死んだ!」
とぎれとぎれの内容に、誰もが呆気にとられた。
叫んだ反動とせり上がる息に喉を上下させ、フェンリルは次にトルヴァの胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「――なあ、やったよな!」
「え、はっ、何?」
「殺したよな! 死んだだろ――なぁ!」
体温で溶解した雪融け水が、前髪からしなだれて瞼の縁をなぞる。
眼力と勢いに負けてトルヴァはかすかに首を動かした。そして息を吹き込まれたように表情を明るくさせて、もう一度大きく頷いた。
「死んだ。確かに、殺された……勝った!」
「だろ! いま、立ってるのはおれだ――おれのほうだ――どう見たって、おれの勝ちだ! ついに、くそじじいを負かしてやった――やってやったぞちくしょう!」
「勝った勝った! やった!」
膝をつくフェンリルの背をトルヴァがばしばしと叩き、羽交い締めにし、げらげらと馬鹿笑いの声が上がる。やがて転げまわる二人にハティが加わって――訳がわからなかった。
カザドはぽかんと、目の前でもみくちゃになる養い子たちを見つめていた。
末期でろくに動けない老人相手に決闘を持ちかけておいて、何を馬鹿なことを。
カザドの長剣が、砕けただけではないか。さだめを受け入れろだの、委ねろだのといった、恭しい前口上はどこにいった。裁きはどうした。まさか勝ったの一言で片づける気ではあるまい。こっちがいったい、どんな思いで……。
若者というものが、さっぱりわからない。
ややあってフェンリルが立ち上がり、まだ呆けた顔のカザドの胸元に拳を突き出した。
「やる。ロッタから、あんたにだ」
毒気の抜け切った顔で、渡されたがらくたをこわごわつまんで抱える姿は、カザドという男を語るのに充分だった。
「ヘルガが、じいさんに感謝してるって伝えてくれってさ。じいさんの側に、ついててあげてくれって。でもオレたちみんなそうだよ」
じゃれるハティを撫でまわしがら、トルヴァが言った。
「オレたちがじいさんに会うためにさ、ヘルガたちだけじゃなくてエイナルさんとか……助けになってくれた人がいるんだ。だからさ、追いかえすのはなしで頼むよ」
未だどこか現実感がない面持ちでトルヴァの話を聞くカザドの胸倉を、フェンリルが乱暴に掴みあげた。
「おい。おれは勝ったからな。年寄りだとか、病だなんてきかない。勝ちは勝ちだ――ざまあみろ」
何がざまあみろなのか。
鼻で笑い飛ばして勝ち誇る様は、かけっこで勝って喜ぶ子供とまったく同じだった。
ありとあらゆる不条理を押しのけ、我を通すためなら全力を惜しまない。まるきり子供の暴論ではないか。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
フェンリルは笑顔の波を引かせたのち、一度目を伏せて、胸ぐらを掴む手をぐいと押しあてた。
「あんたはがっかりしたかもしれないけど、おれはこれでも丈夫になったし、強くなった。これからだって強くなる。……背だってまだ伸びる」
「……俺はいったい、何を聞かされてんだ」
もらした声には、濁流のような厳しさはもう無かった。剥き出しにされたカザドは、もはやただの老いぼれでしかない。
カザドが神でも英雄でもないことは、もう、理解している。いなくなってしまう人だということについては……まだ認められない。
それでも。
「だから疲れたなら、背中だって預かれる……。おれはもう、あんたと肩を並べて、どこへだって行けるよ。じいさん」
そのために、やっとここまで追いついたのだ。
くすみきった金色の底が、晴天に晒される。その清しさに耐えかねるように、老人は呻いた。
「……馬鹿、お前、それは……屁理屈ってもんだ……」
みるみる滲み出す視界に、びっくりして固まる悪童どもの顔が入る。
目頭を片手で押さえて堪えるカザドに、スコルがすり寄ってきた。琥珀色の目が、観念なさいと語りかけてくる。
強情さに、もう、ため息しか出ない。
確かにもう、観念するほかないようだ。
* * *
「……俺がくたばったあと、お前らはどうするつもりでいるんだ」
フェンリルとトルヴァは黙りこんだ。ばつが悪そうになる悪童どもに、カザドの眉間の皺が蘇った。
「考えなしか。どうしようもねえな……本当に、どうしようもねえくそガキ共だよ。人の気も知らずに。ったく」
「いやいや――オレとしては戻るつもりだから!」
両手を掲げて首をふるトルヴァに、フェンリルが片眉を跳ね上げた。
「戻るって、ヨトゥンヘイムに?」
「他にどこがあるよ」
フェンリルは渋面を作った。
「そう簡単じゃない。三役が決定した追放人を追ってきたんだ。気が済んだから、もう一度受け入れろというのは、むしが良すぎる。……けんかも売ったし」
「おい、なんだその話は」
ぎくりとなるフェンリルをよそに、トルヴァが首を傾げて言いつのった。
「どうかな。オレはこれでもまだ成人前だし。泣きつけば案外なんとかなるかもよ。エイナルさんだって、その気になれば戻れるみたいなことを言ってただろ。あとはオレたち次第なんじゃないの」
「トルヴァだけならともかく、おれは無理だよ」
「おい、誰にけんかを売ったと?」
「そりゃ、難しいかもしれないけどさ。絶対無理ってことは無いだろ。めちゃくちゃ怒られるのはもう、諦めようぜ。どういうつもりだって言われたら、笑って誤魔化してみせるって」
あくまでも前向きな姿勢を崩さないトルヴァに、フェンリルは反論しようと口を開きかけて、ふと、濃い群青の色を視界の端にとらえた。
彼らの真反対の崖際に、その人物は立っていた――帽子付きの長い外套を目深にかぶり、顔が見えない。いくつも連なった琥珀玉が、胸元で揺れている。
誰だと叫ぶより先に、相手は手を真上に伸ばして空を指差した。その指先は青黒く腐っていた――。
フェンリルのうなじがちりりとし、反射的に首をのけぞらせた途端、空がぱっと光り、割れんばかりの轟音が鳴り響いた。
「うわっ」
異様な雷だった。枝分かれもせずまっすぐに、白い一筋の閃光が、雲海の向こう側へと突き抜けていった。ちょうど世界の支柱の破片が、ちかちかと見え隠れする方角。ヨトゥンヘイムの方へ。
ぽかりとした穴が空き、波打つように雲が揺らいだ。
「落ちたな」
カザドが呟いた。
「これってまさか、じいさんが泣いたせい?」
トルヴァの頭には拳骨が落ちた。
しばらくすると穿たれた穴を中心に、雲が灰色に濁りだした。雷による着火か、生木の燻りかは判断がつかないが、地上で煙が上がったようだ。
「あれだけの落雷だ。どこに落ちたかはわからんが、住民も気づいているだろうよ……どうした?」
フェンリルは空を見上げたままだった。
「……空が」
呟きにつられてカザドも見上げると、いつのまにか重たく厚い雲がかかっていた。黒い雲の中で脈打つように、電気を孕んだいくつもの光の筋が走る。いつの間にかあたりは暗く沈み、風の匂いも変わっていた。
しかし、フェンリルが見ていたのは突如発生した雷雲ではなかった。
正しくは世界の支柱の破片より立ち昇り、空に融ける光のほうを見つめていた。
先程までは昼の明るさに紛れていた光の束が、今、縫うように雷雲と混じり合い、空いっぱいに広がり覆いつくしていた。
「空が」
フェンリルは、うわごとのようにくりかえした。
空が赤く燃えていた。




