闘儀
ビーストの集落。
巨大な樹木が所狭しと生い茂る広大な密林の中ではあるが、そこは木々の間隔も広く陽も差し込んでくるため、周囲の森よりずっと明るい。大地はなだらかに整えられ、所々に井戸があったり、保存用に天日干しされている肉があったりした。
そんな集落の中心。半径二十メートルほどの円形の広場には、一メートルくらいの高さの舞台があった。その舞台は広場の面積のほとんどを占めており、その周囲を囲むように座席代わりの丸太が無数に並んでいる。そしてその席には現在、全てのビーストが集まり、これから始まる催しを前に、興奮した様子を見せていた。
「野生の血が滾るって感じだな……まったく、どうしてこんなことになったんだか……」
「いいじゃねぇかよ、それで認めてくれるって言うんだからよ」
そんな光景を舞台上から見下ろしながら小さく愚痴を溢すリオンに、ジェイグが準備運動をしながら軽く笑う。
先程の交渉から一転、どうしてこのような場にいるかというと、それは森長が口にした『闘儀』とやらを行うためだ。
『闘儀』などと仰々しい名前が付いているが、要はただの殴り合いだ。武器はなし。金的・目潰し・咬み付き・引っ掻き禁止以外は特に制限もない。舞台はあるが場外負けはなく、勝敗はどちらかが戦闘不能になるか、負けを認めるまで。
そんなガチンコバトルをするはめになった理由は、リオン達の実力をビースト達に認めさせるためだ。
どうやらビーストの間で何らかの決めごとをする際には、闘儀に勝った者が最終決定をするというルールがあるらしい。今の森長も、この闘儀とやらで最後まで勝ち残り、その座に就いたという。つまり彼らの中では、『強い者が偉い』という理論が成り立っているわけだ。
まったくなんてわかりやすい実力主義。弱肉強食というべきか。ある意味リオンの予想通りというか、想像以上というか。獣らしいと言えばそうなのだが。
まぁビースト達から認められるならば、とその申し出を受けたわけだが、そこでさらに名乗りを上げたのが、実は森の戦士長だったダルルガルムだ。一度リオンの魔法の前に敗北を喫したダルルガルムだったが、それで引き下がるのは戦士としての誇りが許さなかったのだろう。
だが当然、二体一で闘うわけにもいかないということで――別にリオン一人でも勝てるが――こうしてジェイグも参戦することになったわけだ。
(まぁティアやファリンにこんな殴り合いをさせるわけにもいかないしな)
言うまでもないが、黒の翼の女性陣も当然格闘戦の訓練はしているし、実力もある。高ランク冒険者の名は伊達ではない。
だからといって、こんな見世物みたいな殴り合いを女の子にさせたくはなかった。
「まぁ闘うのはいい。だが何でお前はそんなに楽しそうなんだ」
「だってあいつら絶対強いだろ? 男ならいっぺん闘ってみてぇじゃねぇか」
「何を言ってる? いくらあの二人が獣の力を持っているとは言っても、魔力がない連中相手にまともな勝負になるはずが……」
そこまで言った瞬間、リオンは目の前の脳筋の意図を正確に理解した。
「お前まさか、身体強化なしにあの二人と闘り合うつもりか?」
「当然だろ? じゃないと卑怯じゃねぇか」
何を当たり前なことを、とでも言うようなジェイグの態度。
リオンは頭痛を抑えるように右手を額に当て力なく首を振る。
「バカかお前は。これはビースト達の信用を得るためにやるんだぞ」
「男と男の勝負に、理由とか目的なんて関係ねぇだろ」
「だとしても、わざわざ相手に条件を合わせてやる必要はないだろう」
「でも闘儀って、要は格闘勝負だろ? ならやっぱ魔法は反則じゃねぇか?」
「何が反則だ、時と場合を選べ。そんなに力比べや技比べがしたいなら、これが終わったあとにやればいいだろうが」
同じ男として、闘いに身を置くものとして、ジェイグの気持ちはわからないでもない。だが今回は状況が違う。速やかにビースト達と協力関係になり、バレアス対策とギルド派遣隊の受け入れ準備をしなければならないのだ。
あくまで合理的に話を進めようとするリオンに、しかしジェイグは一歩も退かない。なおも言い募るリオンに、ジェイグは胡乱気な目を向ける。
「何だぁリオン……まさかおめぇ、魔法抜きじゃあいつらに勝てねぇって言うんじゃねぇだろうな」
「あ?」
ジェイグの発言に、リオンがピクリと眉を吊り上げた。
「だってそうだろ? さっきから色々もっともらしい理由つけてるけどよ、要するに魔法も武器もなしじゃあいつらに勝てねぇってことだろ?」
「誰がそんなことを――」
「まぁそうだよな。あんな強そうなゴリラと虎、魔法に頼り切った貧弱リオンじゃ手も足も出ねぇか。俺の作った刀もねぇしなぁ。情けねぇけど、まぁ仕方ねぇよなぁ」
仕方ねぇ仕方ねぇと、その赤い髪をボリボリと掻くジェイグ。顔には失望と嘲りの色が浮かんでいた。
もちろんこれがリオンを乗せるためのジェイグの挑発だというのは理解している。冷静に状況を考えれば、わざわざ危ない橋を渡る必要などない。
だがそもそも、ビースト達との関係構築もバレアスの撃退もギルドとの連携も、リオン達にとって絶対の条件ではない。あくまでリオン達は浮遊島に冒険に来たのだ。バレアスの件は言わばついでだ。何度も言っているが、彼らを助ける義務は、リオン達に無いのだ。
もちろんリオン達の心情的に、バレアスの侵略行為を何もせずに見過ごすつもりはない。またビースト達と協力関係にあった方がやりやすいのは言うまでもない。そういう意味でもこの闘儀、勝ちを狙いに行くべきであるのは間違いなかった。
だが、だからといってジェイグにここまで言われて黙っていられるほど、リオンも穏やかな性格ではない。
そして何より――
「上等だ……その挑発、乗ってやるよバカ兄貴」
「へっ、そうこなくっちゃ!」
――このバカに情けないと言われるのだけは、意地でも許容できない!
ニィッと笑って突き出された拳に、挑発された腹いせに、いつもより強めに拳をぶつける。
殴られた痛みに右手をプラプラさせながらも、ジェイグが楽しそうな笑みを消すことはなかった。
「準備は良いかな?」
そうこうしているうちに、ビーストの長がダルルガルムともう一人のビースト――ベースは犬――を連れて舞台に上がってきた。長の家で会ったときと違って、ぴったりとした麻の服を着ている。おそらく戦闘服なのだろう。
ダルルガルムは武器や防具を外しただけだ。まだ闘う前だというのに、すでに牙と闘志を剥き出しにしている。
もう一人の犬型のビーストは審判役らしい。前世にあった相撲の行司みたいな恰好をしている。一応、一族のルールに則った正式な儀式なので、審判は必ずあの格好をしなければならないらしい。
ちなみにリオン達二人も上着や荷物をティア達に預け、ズボンと薄手のシャツ一枚という身軽な格好をしている。もっともその理由は動きやすさのためではなく、武器を隠し持っていないことを証明するためだが。
「大丈夫です」
「いつでもいいぜ」
リオンが頷き、ジェイグが両拳を打ち鳴らす。
その返事を聞き、相手の二人がリオン達から離れた位置に付いた。
闘儀は基本的に一対一だが、今回は例外としてタッグマッチとなる。これは仮に一対一で闘い、万が一一勝一敗なんて中途半端な結果を防ぐためだそうだ。
その後、審判役のビーストが改めて闘儀を行う宣言と、禁止攻撃や勝利条件などを説明していく。ちなみにタッグマッチなので、勝利条件は相手二人をどちらも戦闘不能にするか、降参させることだ。
説明が終わり、あとは戦闘開始の合図を待つだけ。
観客であるビースト達のボルテージが目に見えて上がっていく。
そして――
「始め!」
戦闘開始の合図と同時にダルルガルムと森長の二人が勢いよく走りだした。前傾姿勢になり身を低くした状態で、真っ直ぐにこちらへと向かってくる。
ダルルガルムはベースが虎のビーストなだけあって、その速度は魔力の強化のない状態にしてはかなりのものだ。単純な速力だけならリオンよりも上だろう。
対してゴリラのビーストである森長の動きはそれほどでもない。むしろその巨体の分だけ動きは鈍重で、足を動かすたびにドスッドスッと振動が地面を伝わってくる。もっともその巨体から繰り出される攻撃は十分脅威だろうが。
一方、ジェイグはその場を動かず、腰を低く落として迎撃の構えだ。
これは別に相手の身体能力の高さに臆しているわけではない。
ジェイグは、その恵まれた体躯からもわかる通り、力をもって敵を圧倒するパワーファイターだ。深緑の女帝討伐時のような殲滅戦では、その力で重戦車のように敵を蹴散らす。
だがその豪快な性格や戦い方とは裏腹に、ジェイグは防衛戦や迎撃戦も得意だ。それはタフネスや打たれ強さもさることながら、やはり一番の要因はその目だろう。
ジェイグは優秀な鍛冶師だ。それはただ優れた武器を作れるという意味だけではない。その武器を振るう持ち主の癖や体格、筋力などを見抜き、その持ち主に合った武器を作れるということだ。
そしてその能力は戦いの中でも活きてくる。相手のちょっとした筋肉の動きから、相手の動作を先読みしたり、攻撃の癖を見抜いたりするのがとにかく上手いのだ。そしてそこから最善の手を選ぶ力もある。
おまけに相手はどんなに素早いと言っても、それはあくまで魔法無しで動いているからの話だ。魔法で身体強化したリオンやアルの攻撃に比べたら、目の前に迫る虎など家畜の牛より遅く見える。
「おらぁ!」
ダルルガルムの拳を左手で容易く受け流し、体勢を崩した相手の腹目掛けて右拳を振り上げる。
「っく!?」
倒れそうになりながらも、どうにか身を捻ってジェイグのアッパーを躱したダルルガルム。ジェイグからの追撃を避けるため、勢いのまま地面を転がる。だがすぐさま起き上がり、体勢を立て直――
「――ぐぁっ!」
――そうとしたところで背中から衝撃。
ダルルガルムの身体が前方へと吹き飛んだ。
「行ったぞ、ジェイグ!」
右足を振り抜いたリオンが相棒へと合図を送る。
リオンはジェイグとダルルガルムの攻防の結果を予測し、ダルルガルムが来るであろう位置で気配を殺し待ち構えていた。そして想定通りに転がり込んできた敵に渾身のミドルキックをお見舞いしたというわけだ。
「ナイスだぜ、相棒!」
リオンの行動をこれまた正確に察していたジェイグが、右腕を振りかぶる。十数年も一緒に戦ってきたコンビだ。この程度の連携、息を吐くように自然に行える。
二人の息の合った連携に翻弄されながらも、ダルルガルムはジェイグからの攻撃に備えてどうにか両腕をクロスさせ、防御の構えを取る。
そしてジェイグ渾身の右ストレートが振り抜かれた。
ジェイグの剛腕が唸りをあげる。
だが、その一撃がダルルガルムの身体に届くことはなかった。
「ぬぅんっ!」
それよりも一瞬早く、二人の間に跳びこんできた巨体が、ジェイグの拳を両手で受け止めたのだ。もちろんそれはもう一人の対戦相手、ゴリラのビースト、森長だ。その大きな背中で、ダルルガルムも受け止める。
驚くべきことに森長は、強引に跳びこんできたというのに、ジェイグの渾身の一撃や、蹴り飛ばされたダルルガルムがぶつかってもビクともしない。まるで大地に深く根を張る巨木のように、全ての衝撃を受け止めている。
「おおおぉっ!」
全力の一撃を防がれたジェイグが次の行動を起こすまでのわずかな隙に、森長は受け止めたジェイグの腕を掴み、雄叫びとともに振り上げる。ジェイグの大きな体が、まるで鍬でも振り回すように持ち上げられ、森長の頭上で弧を描く。
森長の超怪力で叩きつけられれば、いくらジェイグでも耐えられるかわからない。
「ぬ?」
しかしジェイグの身体がそのまま勢いよく地面に叩きつけられそうになる前に、何かを察知した森長がジェイグの腕を放し、自分の腕を引っ込める。
直後、一瞬前まで森長の腕があった中空を、リオンの足が轟っと通り過ぎた。
「のわあああっ!」
手を放されたジェイグが、勢いよく投げ飛ばされた。まぁジェイグならすぐに体勢を立て直して戻ってくるだろうが。
空気を切り裂く音が聞こえるほどの跳び蹴りを放ったリオンは、着地と同時に再び跳び上がる。空中で体を回転させ、森長の脳天目掛けて遠心力を乗せたかかと落としを浴びせる。
リオンの曲芸じみた動きに、体の大きな森長は回避が間に合わない。ゆえにその丸太のような腕を頭上でクロスさせて受け止める。
さすがの森長も、その衝撃は完全には殺しきれなかったようだ。ミシリと腕の筋肉が悲鳴を上げ、森長の口から小さく苦悶の声が漏れる。
それでもどうにか耐えきった森長が、今度はリオンの足を掴もうとその手を伸ばす。
だがリオンはなんと、かかと落としの反動と身を捻る動作によって、森長へさらなる蹴撃を加える。
空中でここまで器用に動けるとは、森長も思ってはいなかったのだろう。反撃へ転じようとしていた森長の頭部へ、リオンの左足が直撃した。
この一撃にはさすがの森長も堪えきれなかったのか、たたらを踏む。
これを好機にさらなる追撃を行おうとするリオン。
(っ!? マズい!)
しかしダメージから立ち直ったダルルガルムが、牙を剥き出しにしてリオンへ飛びかかってきた。着地の隙を狙われたリオンには、それを躱す術はない。
組み伏せるように掴みかかってきたダルルガルムにリオンも抵抗するが、やはり屈強な虎のビーストの力を引き剥がすことは難しい。そのままダルルガルムの身体に押し潰されるように、背中から地面に叩きつけられる。と同時に、ダルルガルムの膝がリオンの腹へと叩きこまれた。
「がはっ!」
背中と腹への重い衝撃に、口から空気と一緒に胃液が漏れる。しかも自分よりも力も強く、体も大きい敵にマウントを取られている状態だ。状況は最悪と言っていい。
視界には拳を振り上げるダルルガルムの姿。虎のビーストの腕力をまともに受ければ、いくらリオンでも耐えることは難しい。
振り下ろされた拳に、リオンは両腕をクロスさせて急所である顔と首を防御する。
「ぐぅっ!」
そして衝撃。
ダルルガルムの重い一撃はたやすくリオンのガードを突き抜けて、浅からぬダメージを与える。
さらに数度とダルルガルムの攻撃は続いた。リオンのガードが堅いと知れば、角度を変えて側頭部にフックを叩きこんでくる。
なすすべもなく打たれ続けるリオン。誰の目からもリオンの敗色は濃厚かと思われた。
「リオン!」
そこへ駆け付けるのは、リオンの頼れる相棒だ。
相方の危機に、全速力でこちらへ走ってくる。
そんなジェイグの前に立ち塞がる巨大な影。もう一人の敵であるゴリラのビースト、森長だ。人間としてはかなり大柄なジェイグをも覆い尽くせるほどの巨体で、組んだ両手をハンマーのように振り下ろした。
「どけぇ!」
だがそんな大振りの攻撃を食らうジェイグではない。森長の妨害を容易く潜り抜け、そのままダルルガルムへと剛腕を振るう。
直前に気付いたダルルガルムは、すぐさまその場を飛び退き、その攻撃を回避する。絶対的に有利な状況でも、即座にそれを捨てて反応できる判断力は、やはり森の戦士と呼ばれるだけはある。
「大丈夫か!」
「ああ、すまない、助かった」
「そりゃお互い様だぜ」
リオンは血の流れる口元や額を乱暴に拭い、反対の手で差し出された相棒の手を掴んで立ち上がる。
相手の方も、一度体勢を立て直すつもりなのだろう。こちらを警戒しつつも、ダルルガルムが森長の様子を伺っている。
森長の方は凝りでも解すように片手で首を押さえ、頭を左右に動かしていた。どうやらリオンの攻撃のダメージは残っていないらしい。
「かなり頑丈だな。まぁあの身体つきから予想はしていたが」
「あぁ、それにあの虎の方も、まだまだピンピンしてるみてぇだしな」
どんなにリオン達が高ランクの実力者だといっても、やはり身体能力では獣の能力を受け継ぐビーストの方が上のようだ。もちろん体の構造は人間に近いので、獣そのままの力を持っているわけではないだろうが。
「だが今の攻防でわかった。あいつらは個々の能力は高いが、二人での戦いには慣れていない。俺達のように連携の取れた攻撃はしてこないだろう」
たとえば一番初めの攻撃。森長に先行して仕掛けてきたダルルガルムだが、本来であれば森長の速度に合わせて仕掛けるべきだった。そうすれば自身の攻撃を受け流された直後に森長が追撃を行えるため、ジェイグからの反撃を受けることはなかっただろう。
次にリオンに背後から蹴り飛ばされたダルルガルムへのジェイグの攻撃時、森長は二人の間に入って攻撃を受け止めた。一見、相方を守ったようにも見えるが、攻撃を止めるのならジェイグへ攻撃を仕掛けるべきだった。そうすればジェイグは回避を選択せざるをえず、ダルルガルムは勢いのまま森長に衝突することもなく、もっと早く体勢を立て直すことができただろう。
その他にも闘っている最中の二人の動きに、わずかだがぎこちなさを感じる。きっとお互いに、相手がいることに無意識レベルで違和感を覚えているのだろう。
「それと、闘い方も身体能力の高さに任せているところがあるな」
「確かにな。どっちの攻撃も粗削りだし、動きも読み易いぜ。おめぇやミリルの嫌らしい攻撃に比べれば、子供のケンカみてぇなもんだ」
「嫌らしい攻撃で悪かったな。だがそれでもやはりあの身体能力の高さは脅威だ。特に森長のタフネスと怪力はヤバい。魔法強化のない俺達じゃ、最悪一撃でやられる」
先程のジェイグへの攻撃は、確かに大振りで避けるのは容易い。しかしもし直撃すれば、たとえ力の強いジェイグでもどうなるかわからない。
「じゃあどうすんだ? まずは確実に一人ずつ潰していくか?」
「いや、ちょうどよく相手が分断されてくれたんだ。ここはあえて一対一でやろう」
同じパワータイプのジェイグと森長では、より力の強い森長に分がある。リオンもダルルガルム相手では、先程のように押さえ込まれてしまうかもしれない。
しかし一番初めの攻防のように、ジェイグであればダルルガルムの攻撃を受け流し迎撃ができるだろう。そしてリオンの技なら、森長を翻弄し、優位に立てることは先の闘いが証明している。
ならば、お互いが有利になる相手と正面から闘う方が得策だろう。
「じゃあ俺があの虎野郎を相手にすればいいんだな?」
「ああ、そういうことだ。いつも通り、俺の背中はお前に預ける」
背中合わせになった二人が、互いの拳の甲をぶつけ合う。
これで俊敏なダルルガルムの動きを警戒する必要が無くなった分、リオンが攻勢に移れる。
誰よりも信頼を寄せる相棒に背中を預け、リオンは森長へと勢いよく走りだした。
森長がその動きを見て警戒に目を細める。
「おおおおおっ!」
先程の攻防の中でリオンの技についていけなかったことを十分に理解しているのだろう。一度受けに回ってそのまま押し切られることを懸念したのか、リオンが手を出す前に森長が咆哮とともにその巨腕を振るった。魔力の強化がないリオンでは、たとえ全力でガードしても腕ごとへし折られかねない威力がある。
そんな一撃を前に、しかしリオンは足を止めることなく身を屈め、正面から敵目掛けて一気に加速した。森長の剛腕が頭上ギリギリを通り過ぎ、リオンの黒髪を掠める。当たれば死にかねない一撃を掻い潜ったリオンは、そのまま敵の懐に潜りこみ、無防備なわき腹へ拳を叩きこむ。
(硬いな……)
ゴムの塊でも叩いたような衝撃に、リオンがわずかに顔をしかめる。
薄い貫頭衣などでは隠し切れないほど分厚い筋肉を相手では、残念ながらダメージはほとんどないようだ。まるでじゃれついてくる悪ガキを捕まえるように、森長が両腕を抱きしめるように交差させる。
その腕をしゃがんで避けると、その場で足払いを仕掛けた。
しかしそれも森長の巨木のような足と巨体の重量を前に不発に終わる。
(さすがにこの硬さは反則だろ……)
一応、想定していたこととはいえ、相手の尋常ではない打たれ強さにため息が零れる。
今試した通り、リオンの通常の攻撃では森長へダメージを通すことは難しい。顔を狙えればいいのだが、それは森長の方も警戒しているはず。このままただ闇雲に攻撃を繰り返しても、無駄に体力を削るだけだろう。そして長期戦になれば、リオンが圧倒的に不利。
「どうした小僧? もう終わりか?」
森長の方もそれを理解しているのだろう。一度距離を取ったリオンに、挑発的な笑みを向けてくる。
「先程の不可思議な力には驚かされたが、どうやらそなたの威勢の良さはその力に頼ったもののようだな」
「……確かに、魔法が無ければ、身体能力であんた達に勝てる道理はないな」
力なく首を振るリオンの姿とその言葉に、森長が拍子抜けしたように息を零す。
しかし、顔を上げたリオンの表情を見て、その獣の顔を固く引き締めた。
「まぁ、それでも俺の方が強いがな」
いつもの不敵な笑みを浮かべて、リオンが再び疾走する。
先と同じ、正面からの直線的な突進。しかし二度も同じ手を食らうほど、森長は愚かではない。自身より体の小さいリオンに合わせるように腰を落とし、こちらの挙動を落ち着いて見極め、狙いを定めている。腕の振りをコンパクトにして――それでも十分な威力がある――打ち下ろすように拳を突き出した。
そして次の瞬間。
「ぬおっ!?」
森長の巨体が背中から地面に叩きつけられた。
何が起こったのか理解できなかったのだろう。物理的な衝撃以上の困惑が、森長のゴリラ顔にはっきりと映っている。
もちろんそんな隙をリオンが見逃すはずもない。
身を屈めた状態で跳び上がり、無防備な森長の体に全体重を乗せた両足蹴りを落とす。
「がはっ!?」
筋肉の鎧で覆われた森長が、初めて苦悶の声を上げた。
リオンが狙ったのは、人体の中でも筋肉の薄いみぞおち。固い地面に倒れた状態で、そこを踏み落とされれば、いくら森長でもノーダメージとはいかない。
さらにもう一撃、と足を振り上げるが、森長が痛みを堪えながらも暴れたため、リオンはその場を離れた。
だが当然追撃の手を緩めるはずもない。
立ち上がった直後を狙い、森長のこめかみへ背後から後ろ回し蹴り。
森長の巨体が大きくグラついた。
(やはりゴリラのビーストだけあって、急所は人間と同じだな。図体もデカくて、実に狙いやすい)
グラつきながらも反撃をしてくる森長の腕を難なく躱し、脇の下に一撃。さらには向う脛、太腿の横と、右足だけを集中的に狙い、体勢が崩れたところへ顎を真下から掌底で打ち上げる。人体の急所を立て続けに打たれれば、強靭な打たれ強さを持つ森長と言えどひとたまりもなかった。
実力者揃いの黒の翼六人の中で、誰が最も強いかと問われれば、他の五人は迷いなくリオンの名を挙げるだろう。
確かに総合的に見れば、リオンの力は他の五人よりも上だ。自惚れているわけではないが、リオン自身もそれを自覚している。
しかしそれは決して全ての能力が他より優れているというわけではない。
純粋な筋力や体力ではジェイグには敵わない。単純な素早さではアル、魔力の操作ではティアの方が上。集団相手の殲滅力でミリルに敵う者は少ないだろう。戦闘能力では他より劣るファリンだが、その隠密性や観察眼は他にはない得難い才能だ。
ではリオンが他よりも優れている部分は何か。
一つは的確な判断力と冷静な思考。
さらには先程のような空中での蹴り技を実践できる柔軟性。
そしてそこから繰り出される多彩な技の数々だ。
リオンは前世の日本で様々な武術を習っていた。居合いに最も傾倒していたが、その他にも空手、柔術、合気道、剣道、さらには中国拳法なんかも短期間だが経験がある。
それらの経験と知識、そしてこの世界でリリシア先生に教わった実践的な戦い方を織り交ぜて、自分なりの戦闘スタイルを身に着けた。
森長の巨体を軽々と投げ飛ばしたのは、相手の力を利用した合気道の技。人体の急所への攻撃は、空手や中国拳法を習っているときに全て覚えている。
そんなリオンが、生まれ持った身体能力のみに頼った粗削りな闘い方をする相手に負けるはずがない。
「ぐっぬぅおおおおおおおっ!」
肝臓の位置へ強烈な膝蹴りを食らった森長が、苦痛に歯を食いしばりながらも両腕を前に突き出した。
膝蹴りをしたリオンは森長の懐にいるため、左右を太い両腕に阻まれている。そして森長はリオンに覆いかぶさるように飛びかかってくる。
どうやら自身の劣勢を悟り、最後の手としてその巨体を武器にした重量攻撃を仕掛けるつもりらしい。
確かに、このゴリラの巨体に圧し掛かられれば、リオンの体など容易く押しつぶされてしまうだろう。そしてこの超至近距離では、筋肉の鎧をまとう森長への有効な攻撃手段はない――
(――とでも考えているんだろうな)
リオンは迫りくる巨体に掌を押し当てる。
「ハッ!」
相手に密着した状態から放たれる、全身の捻りや足のバネを利用した一撃。打撃による外側へのダメージではなく、衝撃による内部破壊の技だ。
伝えられた衝撃は、分厚い筋肉の鎧を通り抜け、内臓へと正確に叩きこまれる。
「……がふっ」
空気とともに森長の口から赤い血が吐き出された。
全身から力が抜け、崩れ落ちそうになる森長に潰されないよう、リオンが距離を取る。
しかしその心配は杞憂だった。森長は膝を震わせ、今にも倒れそうになりながらも、どうにか膝を着くことなく地に足を付けている。
「これだけやってまだ倒れないか。どれだけ頑丈なんだ」
「……この森の長として、これ以上情けない姿は見せられないからな」
リオンの呆れた声に、森長が笑みを浮かべながらそう応えた。覇気は健在だが、闘志は既に消え失せている。どうやら既に負けは認めているようだ。ただ長としての意地で、どうにか倒れるのだけは堪えているだけなのだろう。
その姿は、紛れもなく誇り高き戦士の姿だった。
「……見事だ、異郷の戦士よ。この勝負、わたしの負けだ」
「あんたも、立派な戦士だったよ」
互いを称えつつも、まだ握手は交わさない。
リオンと森長の勝負は着いても、この闘儀が終わったわけではないからだ。
(さて……ジェイグの方はどうなってるのか)
所々目に入った感じでは、ジェイグがダルルガルムを圧倒していたはず。まぁ二人の技量の差から考えれば、それも当然の結果なのだが。
なので、そろそろ終わった頃合いかと、軽い気持ちで振り返ったリオンだったが――
「……何やってんだ、あいつは」
――そこでは予想外の闘いが繰り広げられていた。