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アネットとエクトル

本日4話投稿の内の3話目。18時から1時間ごとに1話投稿しています(64~67話)

前に2話投稿していますので、見ていない方はそちらからどうぞ。

 女帝討伐の帰り道。今回の作戦の中心だった黒の翼のメンバーには、行きと同じように個別の馬車が与えられ、道中の見張り及び魔物退治は免除となった。特に一番消耗の激しかったアルには治療も兼ねて、特別待遇としてティアの膝枕を受ける権利が与えられている。


 キマイラを相手に無茶をやらかしたアルに対する仲間達の反応は様々だった。ジェイグはアルの挙げた戦果を自分のことのように誇らしげに称賛し、ミリルは呆れたような顔をしながらもどこか嬉しそうにアルの頭をグリグリと撫で、ファリンは心配をかけたことを責めるようにアルの頬をツンツンし続けた。


 そして心配性お姉さんは、当然お説教モードに。ボロボロ状態の相手にさすがにブリザードは発動しなかったが、治療の間ずっと、アルはティアのお叱りを受けることになった。


 そんなお説教の後だというのに、アルの寝顔はとても誇らしげだったが。


「……満足そうな寝顔しやがって」


 ティアの隣に座るリオンが、アルの寝顔を見下ろして苦笑いを浮かべた。


「まったく……どれだけ人に心配をかけたかわかってるのか、こいつは……」

「やっぱりどこかの誰かさんに似ちゃったのかしらね」


 癖のついた茶色の髪を手櫛で優しく梳きながら、ティアが聖母のように微笑んだ。


「誰かって誰だよ?」

「さぁ……人の気も知らずに無茶ばかりする、空好きの誰かじゃないかしら」


 わずかに顔を上げ、含みのある笑みを向けてくるティア。


 リオンはバツが悪そうにそっと視線を逸らし、ポリポリと頬を掻いた。


 クスクスと笑うティアの声が、森を走る馬車の中に優しく響く。


「そ、それより、アネットさんの具合は大丈夫なのか?」


 居心地の悪さを誤魔化すように、リオンは馬車の隅の一角へ視線を向けた。


 そこには薄手の毛布に包まれ、穏やかな寝息を立てる女性。エクトルの婚約者であり、ギルムットの娘、そして黒の翼が受けた捜索依頼の対象であるアネットさんだ。女帝に囚われていたが、救出部隊だったティア達の手によって助け出された。


 生物の魔力を糧とする女帝の虜囚だった人の数は、五十を超える。救出班の人数以上の数がいたが、どうにか炎に飲まれる前に助け出すことができた。衰弱はしていたが、誰一人命に別状はなく、今は全員が馬車でガルドラッドへと運ばれている。


 その中でアネットだけがこうしてリオン達の馬車に乗っているのは、シルヴェーヌの図らいによるものだ。妖艶なギルドマスター曰く、「受けた依頼は、最後まで責任もって果たしな」とのこと。要するに「面倒な手続きとかいいから、さっさと婚約者のところへ連れて帰ってやれ」ということだろう。


「ええ、大丈夫。魔力を無理やり抜き出されたことと、長期間の拘束で衰弱しているだけだから。このまま休んでれば回復すると思うわ。一度目も覚ましてるし、多分、町に着くくらいにはある程度動けるようになるんじゃないかしら」


 ティアの言う通り、アネットは一度目を覚ましており、その際にリオンとティアは少しだが言葉も交わしている。


 とある魔物に囚われていたこと、婚約者のエクトルがアネットの無事を信じ、捜索のためにリオン達を雇ったこと、父親も酷く心配していたことなどを掻い摘んで説明した。


 それらを伝えられたアネットは、救出の礼をしたあとで、また眠りに就いた。弱ってはいたが、確かに大きな問題はないのだろう。


「ただ、話を聞いてる時のアネットさん、どこか酷く不安そうだった……」

「家族に心配をかけたのが申し訳なかったんじゃないか?」

「それだけならいいんだけど……」


 眠り続けるアネットを心配そうに見つめて、ティアがそう呟いた。


「まぁ俺達がここで心配しても仕方ないだろ。家族と再会できれば、安心できるかもしれないしな」

「……そう、だよね」


 こんなところでも心配性を発揮する恋人に苦笑しながらも、ティアの頭をポンポンした。


 ティアはまだ少し表情を曇らせていたが、リオンの言葉に小さく頷いた。


「そういえば……指輪、返さなくて良かったの?」


 少しの間、頭を撫でるリオンの手の感触に目を細めていたティアだったが、やがて思い出したように首を傾げて、リオンにそう尋ねた。


 行きの道中でアルがアネットの指輪を拾ったことは仲間全員に話している。それをリオンが預かっていることも。なので、アネットと話した際に、リオンが指輪の事を伝えなかったことが気にかかっていたらしい。


 そんなティアの問い掛けに、リオンは「ああ……」と再びアネットの方へ視線を向けた。


「俺じゃないからな」

「え?」

「あの指輪を彼女に渡す役目は」


 別に返すだけなら、誰からでもいい気もする。ただあの指輪が持つ意味を考えれば、もう一度婚約者の手でその指に通してあげるほうが良いと思ったのだ。


 それと……事情があるとはいえ、恋人であるティア以外の女性に指輪を渡すというのはやはり抵抗があった。もちろん口には出さないが。


「そうね……その方がアネットさんも喜ぶと思うわ」


 リオンの答えに、ティアもどこか嬉しそうにそう微笑んだのだった。








 アネットが目を覚ますと、見慣れた木目の天井が目に入った。子どもの頃からずっと見てきた天井。間違えるはずがない。ガルドラッドにある自宅の自室だ。


「帰って……きたんだ……」


 ここしばらく、目覚めるたびに見えた魔物の姿も、怪しく光る花もツタの壁もない。そのことにホッとしつつも、気分はあまり晴れなかった。


「目が覚めましたか?」


 ぼんやりと天井を見つめていると、すぐそばから女性の声が聞こえた。鈴の音のようにキレイな声。一度目を覚ました時にも聞いた声だ。


「気分はどうですか? どこか痛いところとか、苦しいところがあったら、遠慮せずに言ってくださいね」


 顔をわずかに横に向けると、晴れ渡る空のように澄んだ瞳がこちらを気遣うように覗いていた。


「はい……大丈夫、です」


 物語に出てくる女神のように美しい女性の姿に、思わず気後れしながらもどうにかそう返事を口にする。随分長い間使っていなかったせいで、アネットの声は相手には少し聞き取りにくいものだっただろう。だが目の前の女性は、安心したように微笑を浮かべて小さく頷いた。思わず見惚れてしまう優しい笑みだ。


「えっと……確か、ティアリア、さん、でしたよね? あのあと、私……」

「あ、私のことはティアいいですよ。あのあと――」


 たどたどしく現状を訊ねようとするアネットだったが、それを察したティアが落ち着いた様子で説明をしてくれた。


 ガルドラッドに戻るまでの二日間、アネットはずっと眠っていたこと。町に着いてからも目覚める様子が無いアネットを、父の了承を得て自室まで運んでくれたこと。家に着いたのは一時間前くらいだということ。


「やっぱり衰弱が激しかったんだと思います。あ、ここまで運んだのは私ですから、安心してくださいね」


 そう言って微笑むティアの金色の髪は、窓から差し込む光によってオレンジ色に染まっている。どうやら今は夕方らしい。


 ティアの話を聞きながらも、アネットは自室の様子をゆっくりと見回していく。


 部屋の中は、魔物に捕まった日の朝と全く変わらない。棚にはお店の帳簿が並び、その横の机には亡くなった母と家族三人で撮った思い出の写真。そして写真の横には子どもの頃にエクトルが作ってくれた銀細工の置物が飾られている。


 室内にはティアともう一人、水色の髪をした猫獣人の女の子の姿があった。くりくりとした金色の瞳でティアとアネットのやり取りを見つめている。


 それ以外に、室内に人の姿はない。前に目覚めたときにティアと一緒にいた黒髪赤眼の男性も、父もこの場にはいないようだ。


 …………エクトルも、いない。


 その事実に、心の奥から冷たく暗い感情が湧き上がり、アネットの胸を重く締め付けた。


「えっと、今この部屋にいるのは私と、そこのファリンだけです。ベッドに運ぶ前に、身体を拭いたり着替えをしておいた方が良いと思ったので……」


 アネットの様子を察したティアが、申し訳なさそうにそう説明する。どうやら寝ている間に服を脱がしたり、身体を拭いたことを気にしているようだ。逆にファリンと呼ばれた少女の方は、誇らしげにニャフンと鼻を鳴らしてグッとポーズを取っていたが。対照的な二人だ。


 言われてみれば、確かに服は部屋着に変わっているし、身体もどこかさっぱりしている。


「あの、女同士ですから……むしろ色々気を遣っていただいてありがとうございます」


 多少の気恥ずかしさはあったが、その気遣い自体は素直に嬉しかった。さすがに十日以上も魔物に捕まっていた姿のままでいたくはない。


 しかしアネットの言葉を聞いても、ティアの表情は晴れなかった。気遣わしげな表情のまま、棲んだ空色の瞳を真っ直ぐに見つめている。


「あの……もしお体に障りが無いようでしたら、エクトルさん達を呼んできましょうか?」


 その申し出に、アネットの胸が酷くざわついた。会いたいと思う気持ちと同じくらい恐怖が胸の奥から噴き出してくる。


「い、いえ、その……まだちょっと疲れが……もう少し眠ってからでもいいですか? 皆には、元気になった姿を見せたいので」


 気が付けば、そう言ってティアの気遣いを断ってしまっていた。


 ティアの美貌に心配の色が深まる。


「……わかりました。では私達も席を外しますね。エクトルさん達には、一度目を覚ましたことを伝えておきます」


 少しの間、逡巡するように空色の瞳を揺らしていたティアだったが、やがて頷くと、静かにそう告げてアネットに背を向けた。


 そんなティアの後ろ姿に先とは違う胸のざわつきを感じて、アネットは逃げるように目を閉じた。ファリンという名の少女を連れてティアが部屋を出ていく気配を感じながら、アネットは瞼の裏の真っ暗な世界をじっと見つめていた。


(私、どうしてあんなこと言っちゃったんだろ……)


 自室に一人残ったアネットは、先ほどのティアとのやり取りを思い出して、自分の胸にそう問いかける。


 いや、本当は理由はわかっている。


 魔物に捕まっている時は、あんなに胸を焦がすほどに会いたいと思っていたはずなのに……いざ助けられてしまえば、愛する人に拒絶される恐怖がこの胸を満たし、現実から逃げる選択肢を選んでしまう。


 魔物に穢されたかもしれない自分を、それでもエクトルは愛してくれるだろうか。


 拒絶せずに受け入れてくれるだろうか。


 せっかくあの薄暗い水底のような世界から抜け出したというのに、こうして今も自分は目を閉じて暗闇をじっと見つめている。


 会いたい気持ちと、会いたくない気持ち。


 二つの想いが心の中でせめぎ合いを続けている。


 身体はまだ疲れを訴えているのに、眠りは一向に訪れそうになかった。


(やっぱり、このままじゃダメ……だよね……)


 やがて、覚悟を決めたアネットが、目を開いて暗闇の世界から抜け出した。そのままゆっくりと重い体を起こし、少し細くなってしまった足を地に付ける。やはり少し力が入りにくいが、立ち上がるには問題が無いみたいだ。壁を支えにゆっくりと立ち上がり、少し歩く練習をする。体力も筋力も落ちているが、普通に動く分には支障がなさそうだ。


 胸に手を当てて、一度深呼吸をしてから自室の扉を開く。


 数日ぶりの我が家。変わらぬ光景と、工房から漂う鉄の匂いが少しホッとする。


(でも鎚の音は聞こえない、か……)


 時はまだ夕刻。この時間なら工房からは武具を打つ鎚の音が聞こえるはずだが……


(皆は……エクトルとお父さんはどこにいるのかな……)


 アネットの自室は家の二階。二階には父やエクトル、それに他の弟子達の部屋もある。しかしどの部屋からも人の気配は感じられなかった。


(お店かな……それとも居間か工房?)


 なかなか前に進もうとしない足をどうにか動かして、アネットは階段を降りていく。


「じゃ……ど……し……」


 そうして一階に降りたところで、アネットの耳に先ほど聞いたティアの話し声が届いた。何を話しているかまではわからないが、どうやら居間の方にいるらしい。他にも結構な数の人の気配を感じる。


 服の胸元をギュッと握りしめながら、壁に手を着いたままゆっくりと居間の方へと近づいていく。


「わたし……かくは、あ…………しょうか?」


 やがて、居間の入り口のすぐそばまで来たところで、その声が一階の廊下に響いた。


 それはずっと聞きたいと想い焦がれた声。エクトルの――最愛の人の、大好きな声。相変わらず頼りないその声は、この距離でもはっきりとは聞き取れなかった。それでもその声は、アネットの胸を激しく揺さぶった。


(エク、トル……エクトル……エクトル!)


 ここに来るまでずっと感じていた恐怖も不安も、愛する人の声が吹き飛ばしてしまったらしい。


 逸る気持ちに背中を押されるように、アネットは足を速める。


「彼女が……だったことは本当に……しい。でも……」


 居間の扉は開いているらしい。あそこの角を曲がれば、愛しいエクトルがいる。


「何も……なかった私……彼女……ゆる……ないでしょう……だから――」


 そうして扉の前まで辿りついたその瞬間に聞こえたその声は――


「だから私は、アネットに会うのが恐ろしい」


 あの暗闇の世界より深い絶望に、アネットの心を叩き落とした。






 ――時刻は少し遡る。


「お疲れ、ティア、ファリン。アネットさんの様子はどうだった?」


 ギルムッド武具店の居間に二人が戻ってきたのは、リオン達が依頼完了の報告を終えてすぐのことだった。この場にはアネットの父ギルムッドや、アネットの婚約者であり今回の黒の翼への依頼人であるエクトルの他に、ギルムッドの弟子も全員揃っている。


 その場の全員の視線が集中する中、ティアは問い掛けたリオンではなく、ギルムッドやエクトルの方を向いて微笑を浮かべた。


「アネットさんは先ほど、一度目を覚ましました。意識ははっきりしてますし、しっかり会話もできるくらいには体力も回復しています。まだ完全に体力は戻らないみたいで、また眠ってしまいましたけど、もう心配はないでしょう。安心してください」


 その言葉に、部屋のあちこちから安堵の声が上がる。町に戻る前に一度目を覚ました姿を見ている黒の翼の面々も、彼女の関係者と一緒に改めてその無事を喜んだ。


「娘の面倒を任せちまってすまねえな、嬢ちゃん達」

「いえ、アネットさんが無事で良かったですね」

「ああ、本当に、あんた達には感謝してもしきれねぇ。娘を魔物から助け出し、無事に連れ帰ってくれて」


 その場を代表して、ギルムッドがその禿頭を深々と下げて、リオン達一人一人に感謝の意を伝える。他の弟子達も、師に続いて感謝の言葉を口にしていく。


 最大級の感謝を向けられた黒の翼の面々は、何ともむずがゆそうな表情でそれを受け止めている。これまでは修行のために魔物の討伐依頼ばかり受けていたため、こうして依頼人から直接礼を言われるのは、実は初めてだったりする。


「俺達はただ仕事をしただけだ。今回は女帝討伐という目的もあったわけだしな。それに報酬の期間はまだ続くが、しっかり頂く。あまり畏まった礼は不要だぞ」

「依頼とか関係ねぇ。アネットの親父としての礼だ。報酬とか関係ねぇ。俺にできることならどんなことでもさせてもらうつもりだ」


 頑ななギルムッドの態度に、リオンはやれやれと肩を竦める。どうやら鍛冶師という人種は、頑固者が多いらしい。


「とりあえず、謝礼だとかの話は後にして、アネットさんの顔を見に行ったらどうだ? 今は寝てるらしいが、起きたらすぐに話しできた方がいいだろう」


 なので、話を切り上げて、アネットの見舞いを進言する。それにもうすぐ日も完全に沈む。その前に、部外者は去るつもりだ。家族の感動の再会に水を差す気もない。


 まぁ部屋に運び込む前に一度顔は見ているわけだが、言葉も交わしていない以上、本当の再会はこれからだ。


 ギルムッドの方も、早く娘と会いたいのだろう。リオンの言葉にもう一度礼を言うと、アネットの部屋へ行くぞとエクトルの方へ向き直る。


 そう言えばこの一時間、エクトルが発言するのを一度も聞いていない気がする……とリオンも何とはなしにそちらを向くと、そこには俯いたまま沈痛な面持ちをしたエクトルがいた。


「どうした、エクトル?」


 エクトルの様子に気付いたギルムッドが、いかつい顔に似合わぬ気遣わしげな表情で、黙ったままのエクトルの肩に手を置く。


 顔を上げたエクトルは、今にも泣きだしそうに唇を震わせながらギルムッドの顔を見つめる。だが、すぐに再び俯くと、懺悔をするようにその口を開いた。


「私は、会えません……」

「あぁ? おめぇ、いったい何を……」


 間近でエクトルの言葉を聞いたギルムッドが、困惑した声を漏らす。


 そんな、師であり義父でもある男の戸惑う姿を前に、しかしエクトルは力なく首を振り、その手から逃れるように後ずさった。


「私はアネットに会えません。合わせる顔が……ありません」


 先と同じ言葉を繰り返すエクトルに、言葉を詰まらせるギルムッド。エクトルへと手を伸ばしたまま、その場で固まってしまっている。


「……会いたくないんですか? アネットさんに……」


 そんな二人の様子を見ていたティアが、悲しそうにそう問いかけた。同じ女性としてアネットにシンパシーを感じている分、エクトルの発言に胸を痛めているのだろう。


「……会いたいに、決まってるじゃないですか」


 長い沈黙の後、エクトルが感情を押し殺すような声でそう呟いた。


「会いたいに決まってます。会いたくないわけないじゃないですか。アネットがいなくなって、どれだけ心配したか……魔物に連れ去られたと知って、どれだけ心が引き裂かれそうだったか……こうして無事に帰ってきてくれて、どれだけ嬉しかったか……」


 肩を震わせて、これまでの想いを吐き出すエクトル。


「じゃあどうして……」


 エクトルが零した想いに、ティアがその真意を問う。


「私に、その資格は、あるでしょうか?」


 そんなティアの問いに、逆にエクトルがそんな問いを返した。


「……資格?」


 その問いの意図が掴めなかったのだろう。ティアが戸惑った様子でそう呟く。


 そんなティアの困惑をよそに、エクトルは自身の両手に視線を落とした。


「アネットが失踪した時、私は何もできなかった。彼女が生きていると分かった時も、苦しんでいるアネットを救うどころか、ただ近くにいることさえ、できなかった……」


 両手で顔を覆い、自身の不甲斐無さを嘆くエクトル。


 その場の誰もがかける言葉を見つけられないまま、悲しい沈黙が流れた。


 やがてゆっくりと顔を上げたエクトルが、後悔の言葉を続ける。


「……彼女が無事だったことは本当に嬉しい。でも……彼女の窮地に何もできなかった私を、彼女は許しはしないでしょう」

「! そんなこと――」

「だから……」


 アネットの心中を勝手に結論付けるエクトルに、ティアが反論しようと声を上げる。


 だが、そんなティアの言葉を遮るように、エクトルが自身の想いを吐露する。


 この場に近づく気配に気付くことのないまま……


「だから私は、アネットに会うのが恐ろしい」


 その言葉を境に、無音が世界を支配する。


 部屋の中の誰もが言葉を忘れてしまったように、ただ沈黙を守っている。


 だからその静寂は、その輪の外から破られることになった。


 部屋の入り口から、カタンと小さな音が鳴る。


「……アネット、さん?」


 その音の主に一番に声をかけたのは、入り口の一番近くにいたティアだった。


 名前を呼ばれたアネットだったが、その振るえる視線はティアを通り過ぎ、自身の婚約者へ縋るように向けられている。


 そしてその視線を向けられたエクトルは――


「…………」


 ――その視線から逃げるように顔を背けた。


 そんな最愛の人の反応を目の当たりにしたアネットの両の瞳から、大粒の涙が零れた。そして痛みを堪えるように両手を口に当てると、ふらつく足取りでこの場から走り去っていく。


「アネットさん!」


 真っ先にその名を叫んだティア。慌ててエクトルを振り返るが、彼は相変わらず俯いたまま、その場を動こうとしない。困惑した表情で部屋の入り口と、エクトルの間で何度か視線を彷徨わせたあと、助けを求めるようにティアはその視線をリオンへ向けた。


 そんな空色の瞳を見つめ返し、ここは任せろとリオンが小さく頷く。


 そうしてリオンの答えに迷いの消えたティアは、アネットを追いかけるべく部屋を飛び出していった。


「……いいんですか? 追いかけなくて……」


 そんな背中を見送った後、立ち尽くすエクトルにそう問いかける。


 体力の戻りきらない体では、そう遠くまではいけないだろう。ティアの足ならすぐに追いつける。とりあえず自殺等の最悪の事態にはならないはずだ。


 ただ優秀な治癒術師のティアでも、人の心まで癒せるわけではない。


 今、彼女の心を救えるとすれば、それはこの世界にただ一人だけ。しかし……


「……追いかけて、それでどうしろって言うんですか……彼女を守れず、救えもしなかった私に、そんな資格は――」


 この期に及んでまだそんな泣き言を続けるエクトルに、さすがのリオンもどう言ったものかと言葉に詰まる。


 だがリオンが何かを言うよりも早く、


「この……ばっかやろぉおおおお!」


 ブチ切れたアルが、電光石火の速度でエクトルを殴り飛ばした。後ろにいた他の弟子に受け止められたエクトルへ、アルは殴りかかった勢いそのままに詰め寄り、その胸倉を締め上げる。


「何が資格だ! ふざけんなよオマエ! 何自分が一番不幸です、みたいな顔してんだ!  今一番傷ついてんのは……辛い思いをしてるのは誰だよ!」

「そ、それは……」


 アルの真っ直ぐな怒りに、狼狽えるエクトルが口ごもる。


「アネットさんのあの顔、見てなかったのかよ! あの顔がオマエを責めてるように見えたか? 不甲斐ないって失望したように見えたか? オマエが好きになった人は、そんな風に好きな人を責めるような奴なのかよっ!」


 燃え上がる怒りに震える声で、アルがその思いの丈をぶつける。


「好きな人を守れなかったって……救えなかったって悔やんでるなら……せめてそいつの心くらい、守ってみせやがれっ!」


 それは誰よりも強くなりたいと、大切な誰かを守りたいと願う少年の、魂の叫び。


 この場にいる男達からすれば、アルはついこの間成人したばかりのただのガキでしかない。エクトルとも五つ以上の年の差があるはずだ。「お前に何がわかる」と切り捨てられても不思議ではない。


 しかしアルは、この場の誰よりもそれを願い、そしてこの場の誰よりもその願いを打ち砕かれてきた。


 リオンはそれを知っている。


 ――やっとお姉ちゃんらしいことができた。


 かつてアルをかばい、目の前で殺された姉が最後に残した言葉。


 生まれつき身体が弱く、村人から謂れのない悪意を向けられる姉を守ろうと身体を張る弟に、姉はずっと心を痛めていたのだろう。結局、アルは大切な人の命も、心さえも守ることはできなかったと自分を悔いている。


 姉だけではない。両親、孤児院の子ども達、そして恩師……多くの大切な人達を、アルは失ってきた。


 そしてそれでも決して折れずに、アルはその願いを追い続けている。


 だからこそアルの言葉には、エクトルに反論を許さないだけの確かな重みがあった。


「わ、私は……」


 アルの言葉に、エクトルの心が揺れているのがわかる。だがまだ腹を括るには至らない。 あと一押しが必要そうだ。


(まぁティアにあんな顔しておいて、アルに全部持っていかれたら格好つかないよな)


 そんなことを考えながらも、リオンはアルの息が落ち着くのを待ち、その肩に手を置いてエクトルから引き離した。


「エクトルさん、これはあなたがアネットさんに贈ったものですね?」


 懐から取り出したそれを、エクトルの目の前に掲げて見せる。


「それは……どうしてそれをあなたが……」

「森で偶然拾ったんですよ。魔物に連れ去られている時に外れたんだと思います」


 目を見開いてそれを凝視するエクトルに、リオンが拾得した経緯を説明する。


「目立った傷も無いので、おそらく鎖の留め金が外れかけていたんでしょう。きっとあなたの見ていないところで、何度も鎖を外しては眺めたり、指に通したりしていたんだと思います」


 リオンのその推測に、エクトルが泣きそうに表情を歪めた。


 それはその贈り物をアネットがどれだけ喜んでいたか、大切にしていたかの証。


 エクトルを心から愛していた、何よりの証明だ。


「あなたがこれに、どれだけの想いを込めてアネットさんに贈ったかはわかりません。ですが、これはあなたにとって、誓いの意味があるはず。その誓いを反故にするというのなら、これはもう必要無い。今、ここで叩き潰します」


 エクトルの揺れる瞳を真っ直ぐに見つめる。リオンが本気だとわかるよう、最後の一言だけあえて冷淡に告げた。


 そうして伸ばした手を引っ込めようとすると、エクトルは反射的にリオンの腕を……アネットに贈った指輪を掴もうと、その手を伸ばす。


 それを確認したリオンは、引き締めていた口元を綻ばせた。


「答えは出ているようですね」


 伸ばされたエクトルの手を掴み、その掌に指輪を落とした。


「なら、あとは覚悟を決めるだけです。今回で二度目……一度目の時よりはずっと簡単でしょう?」


 少しおどけるようにリオンが問いかける。


 エクトルは少しの間、ジッと手の上の指輪を見つめていたが、やがて決意に満ちた表情でその顔を上げた。


 その表情を見たリオンは、傍にいたアルの肩を引いて道を譲る。


 そんなリオンに、エクトルは一度だけ深々と頭を下げると、片足を少し引きずるような不格好な走り方で部屋を出て行った。


 その手に、誓いの指輪をしっかりと握りしめて……

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