目指すべき背中
この週末で、二章終わりまで投稿します。
本日の1話目。今日は一気に4話投稿(64~67まで)します。
深緑の女帝の居城の最奥。人間の城で言えば謁見の間とでも呼ぶべき一室は、今、地面から錆色の粉塵が吹き上がり、地面一帯が毒々しい色の霧に覆われていた。敵の一斉攻撃を斬り抜け、どうにか死地を脱したばかりのリオンは、だが体勢を立て直す間もなくその霧に飲み込まれてしまった。
「フフ、イクラ貴様デモ、コノ量ノ毒ヲ浴ビレバヒトタマリモアルマイ」
まんまと死地へと誘い込まれた獲物へ、花の女王が嘲弄の滲む笑みを落とす。
人間を家畜と蔑みながらも、敵はリオンの戦闘能力を決して過小評価はしていなかった。自身の総攻撃でさえも切り抜けると確信していた女帝は、その先にもう一つの武器である毒花を用意。予測通りに包囲を突破した反逆者へ、毒花粉の洗礼を浴びせたのだ。
「安心シロ。命マデハ奪ワナイ。貴様は大事ナ我ガ子ノ苗床ナノダカラナ」
眼下に広がる毒の雲海を見下ろしながら、すでに意識を失っているであろう敵へ言葉を投げる。
だが次の瞬間、雲を貫いて飛翔する鳥のように、暗赤色の中から漆黒の影が飛び出した。
「ナッ!?」
嘲笑から一転、驚愕へ。
突然の事態に、それでも咄嗟に身を守れたのは、生物が身を守るための防衛本能によるものだろう。弾丸のように迫る影の軌道上に滑り込ませるように、四本の植物の蛇が立ち塞がった。
直後、鈍い衝突音が女帝の間に響いた。
被弾した衝撃はかなりのものだったらしく、壁となった極太の蔦が着弾点を中心に大きく撓み、繊維がギシギシと音を立てて軋んでいる。
「貫くのはさすがに無理か……やはりそこら辺の蔦よりは遥かに頑丈だな」
そしてその歪みの中央には、深々と突き立てたミスリルの刃に掴まるリオンの姿が。サーベルと自身の足を支点にして、蔦の一本に張り付いている。
「よぉ、女王様。ご自慢の罠をあっさり突破された気分はどうだ?」
歪んだ蔦の壁の隙間から顔を覗かせて、リオンが軽口をたたく。地上を覆う毒の影響など微塵も感じさせないその態度に、改めて女帝の顔に驚愕と、そして焦燥の色が浮かぶ。
「貴様、何故我ノ毒ガ効カナイ?」
イラ立ちと焦りを滲ませた女帝の疑問。
そんな問いに、髪や衣服に纏わりついた毒の花粉を払い落しながら、リオンが肩を竦めて不敵に笑う。
「さぁ、何でだろうな」
煙に巻くようなリオンの態度に、女帝の深緑の瞳が鋭く細められる。
これまで不遜な態度を崩さなかった女王の美貌を歪めたことに、したり顔のリオン。実はかなりギリギリのところまで追いつめられていたのだが、そんなことはおくびにも出さない。
(危ないところだった……これはティアに感謝しないとな)
囚われた人々を助けるために奮闘中のはずの最愛を想って、リオンはわずかに頬を緩めた。
実は事前の偵察の段階で女帝の使う毒花粉は入手済みで、ギルド職員の手で分析も済んでいる。
だがその解毒薬を作るには、今のガルドラッドでは材料も足りなく、またそれを一から集めている時間もなかった。
それでも作戦が決行されたのは、討伐作戦の要であるリオンとアルが、ともに風属性持ちの実力者だったからだ。風魔法が使えれば身体に風の防壁を纏うことで、空気中の毒は全て防ぐことができる。
救出班の方は、生属性持ちがティアを含めて数名いるので、魔法でも解毒ができるというのも、作戦決行を後押しした一因だ。
しかし、心配性のティアのことだ。その作戦を聞いたあとで、万が一の可能性を常に考えていたのだろう。治療院の仕事を辞めてからも、独学で薬の調合や医学についての研究を続けており、薬の素材もある程度ストックしていたらしい。女帝の毒に対する薬の作り方を事前にギルド職員に訊き、作戦開始までに自前の対抗薬を二人分作ってきたというわけだ。
――無事に帰ってきてね。
薬を受け取る時に贈られた言葉。その心遣いのお陰でリオンもアルも、毒対策のためにアウラやマナを消費することなく戦いに集中することができた。
「家畜ガ小癪ナ真似ヲ……」
リオンの言う対策の詳細はわからずとも、何らかの手段で毒が効かないことは理解したのだろう。女帝が憎々し気にリオンを睨む。
「家畜家畜と、少し人間を見くびり過ぎたな」
「フン……我ノ毒ヲ逃レタ程度デ調子ニ乗ルナ。タトエ毒ガ効カナカロウト、貴様如キ、我ニ触レルコトサエデキハシナイ」
「そうか? この距離なら、ちょっと手を伸ばせば届きそうな気もするが」
「我ガソレヲ許ストデモ?」
おもむろに右手を持ち上げて、女帝の魔性の美貌が酷薄な笑みに歪む。
リオンが剣を突き立てている蔦が女帝から離れ、他の三本の巨大蔦が女帝とリオンの間に滑り込んだ。その他にも、女帝の周囲から伸びた無数の蔓が、花の周りを飛び回る邪魔な羽虫を捉えようと狙いを定めている。
「ココデハ我ノ盾モ矛モ無限ニ生ミ出セル。対シテ貴様ノ体力ハ有限。イツマデモ無駄ナ足掻キヲ続ケラレルト思ウナ」
「別にそんなこと思ってないさ」
そんな状況下でもリオンは軽い態度を崩さない。突き立てた剣を右手に握ったまま、ナイフを持つ左手を軽く広げて女帝の言葉を否定する。
リオンを見る女帝の瞳が怪訝そうに細められる。
その女帝の視線に不敵な笑みを返して、リオンが宣告する。
「わからないのか? お前はもう終わってるんだよ」
「貴様、何ヲ――ッ!?」
問いかけの言葉は、最後まで言い切られることはなかった。
驚きに染まる表情が、声を発する口元が、スラリと伸びる手足が、蔓や蔦の全てが、まるで時を止めたように凍り付く。
それを見届けたリオンが、勝ち誇るように嗜虐的な笑みをさらに深めた。
「さて女王様、体の中から凍り付いた気分はどうだ?」
その言葉に呼応するように、巨大な蔦に突き立ったミスリルサーベルが青白く光り輝いた。先ほどからずっと送られていたリオンの膨大な魔力が、冷気となって道管の内部を走り抜けている。
完全に動きを止めた四本の蔦の表面は、冷やされた空気が水滴となって付着し、霜となって白く染まっていた。急激な温度の低下は室内に霧を生み出し、対峙する女帝とリオンの二人を包み込んでいく。凍り付いた細い蔓が、自重に耐え切れずにボロボロと崩れ落ちた。
突如作り上げられた極寒の世界に、リオンを除くその場の全てが凍り付いていく。
「この空間の植物は、全てお前の手足なんだよな? そして植物には水が必要だ。さっきまでは距離が離れすぎてて効果は薄かったが、これだけ近づけばお前に直接冷気を送り込むことができる。大気の温度も下げてしまえば、お前の自由を奪うことなど容易い」
身動き一つしなくなった敵を前に、リオンが魔法の種明かしをする。
もっとも、それは決して口で言うほど簡単な事ではなかった。
敵の攻撃を全て凌ぎながらマナに干渉する集中力。しかも触手を伝い敵の動きを全て止めるためには、室内のマナを全て冷気に変換しなければならなかった。つまり最後の一手以外に魔法は使えない。もしもティアから対抗薬を受け取ってなければ、毒花粉を防ぐためにマナを消費し、この攻撃は不可能だった。
強敵との戦闘を引き受けてくれたアル。
波状攻撃から脱するための決め手となったジェイグの自信作。
リオン達の身を案じ、作戦までに薬を作ってくれた最愛の恋人。
仲間達の助けがあってこその勝利。それを強く実感する。
(あいつらのお陰で、ちゃんと十五分の約束にも間に合いそうだしな)
十分に役割を果たしたサーベルから手を離し、リオンは女帝の目の前に悠々と着地した。
「ク……バカ、ナ……」
「まだ動けるか。だがあまり無理に動かすと体が壊れるぞ」
壊れたロボットのように黄緑色の肉体を軋ませる敵に忠告をするリオン。その言葉を証明するように、艶めいていた女帝の肌に亀裂が走り、持ち上げた右腕が半ばから崩れ落ちた。
「ゥグ……」
苦悶の呻きを漏らす女帝に、ほら言っただろ? とでも言うように、リオンが肩をすくめてみせた。そんなリアクションの間にも、乾燥しきった大地のように女帝の体にヒビが広がっていく。
もっとも、大人しくしていたところで辿る末路は変わらないのだが。
「さて、そろそろアルとの約束の時間だ。悪いが、ここで終わらせてもらう」
左手のナイフを右に持ち替えて、リオンが淡々と死刑宣告を下す。歩み出した足が女帝の一部だった破片を踏み砕いた。
「コンナ、家、畜ニ……」
「家畜にも牙はある。侮り、不用意に手を出して、噛み殺されただけのことだ」
別にリオンは、人間を最優の種だとは思っていない。むしろ魔物に比べて力は弱く、エルフに比べて魔力は低い。その弱さを補う知恵と、種としての数で勝っているだけであり、単体で見れば脆弱な種族と言っても良いだろう。
女帝の行動も、生物としては何一つ間違っていない正常な行動だ。ある意味では人間と何も変わらない。
だから別に家畜と呼ばれることに不快感はない。より強く数の多い種族が現れれば、人間が牛や豚のように家畜として扱われることだってあるだろう。女帝に捕らえられた人々のように。
だが、たとえ人間という種が家畜になろうと、リオンという個人は最後まで牙を剥き、敵に食らいつくことをやめないだろう。相手がどんな連中であっても、最後まで足掻き食らいつくだけ。
だからこの戦いは、弱肉強食の世界で、リオンという人間の牙にアルルーンカイゼリンという一つの種族が食い殺されただけのこと。
ただそれだけのことだ。
「じゃあな、深緑の女帝。お前の相手は面倒だ。もう二度と生まれてくるなよ」
冥途の土産にしてはかなり辛辣な言葉を送って、リオンは逆手に握ったナイフを力任せに振り下ろした。
肉を切り裂くのとは違う硬質な音を響かせて、女帝の肩口に短い刀身が突き立てられた。その衝撃は女帝の凍り付いた体を伝わり、身体のあちこちがひび割れ、砕け、崩れ落ちていく。
美しかった肢体は胴と足が完全に分かたれ、両の腕は落ちた衝撃によりほとんど原型を留めていない。上半身はナイフを突き立てられた左半身はボロボロ。右半身はまだ辛うじて形を保っているが、あちこちに亀裂が走り、あと少しのきっかけで崩壊するのが明らかだった。
奇跡的に無事だったその美貌は、信じられないとでも言うようにその瞳を見開き、だがその視線はどこを見るでもなく虚空を漂っていた。乾燥しきったような唇は震え、途切れ途切れの音が零れだす。
「我、ハ、コノ世ノ、王ニ――」
己の野望に届かなかった者の怨嗟と悔恨の声。
一瞬だけ、かつての誰かに重なったその姿に、リオンは不愉快そうに眉をひそめると、女帝の最後の残骸の傍に膝を下ろした。そのままもう一度右手を振り上げると、介錯代わりにナイフを振り下ろし、今度こそ女帝の命を砕き散らした。
「王、ね……まぁ味方を置いて真っ先に逃げ出さなかっただけ、どっかの王様よりはマシかもな」
小さく鼻を鳴らして立ち上がると同時に、リオンの周囲からミシミシと大質量が軋む音が聞こえ始めた。女帝の操っていた蔦や蔓達は力を失い、凍り付いた植物達は自重を支えられなくなり次々と悲鳴を上げているらしい。その崩壊の始まりはすぐに大合唱となり、地面は砕け散った植物の残骸で埋め尽くされることになった。
女帝の玉座はその影響は受けることなく、リオンはそんな崩壊の光景をただ黙って見下ろしていた。
(……さすがにこのデカブツを完全に凍らせることはできないか)
崩壊が収まった後、リオンは玉座となっている巨大な妖花に触れながら頭上を見上げた。赤黒い花弁は霜が張り、所々が欠けているがある程度の原型は留めている。巨木のように太い茎は完全に凍り付いてはいない。それでも生命としての機能は完全に失われているようだ。
(こっちが女帝の本体……なんて想像もしてたんだが、どうやら杞憂だったようだな。この妖花、というよりこの城自体が女帝の死とともに生命力を失っている。これで女帝に操られていた魔物達も統制を失うはず)
リオンの予測通り、現在、城の内外で繰り広げられている戦闘に確かな変化があった。
救出部隊を襲っていたミニ女帝は、本体の死と同時に力を失い、ミイラのように干からび枯れ果ててしまった。蔓の攻撃も止み、まだ数人の人質を拘束したままだった蔦も同様に力を失い人々を解放した。
その光景から女帝討伐を悟ったファリンが、子猫のような勢いでティアの胸に飛びつき、ティアも最愛の人物の成功を心から喜んだ。そのファリンを抱きしめる聖母のような姿とその笑顔に、救出部隊の男全員の心がコテンパンに撃ち抜かれたが、それはまた別の話。
外で殲滅部隊と戦闘中の魔物達も、女帝討伐と同時にその全てが動きを止めた。
そのあとの反応は魔物によって様々だ。混乱した顔できょろきょろと辺りを見回すもの。恐慌を起こしたように悲鳴を上げ、逃げ惑うもの。周囲に充満した新鮮な血の匂いに野生の本能を刺激され、敵味方関係なく暴れ回るもの。
それら魔物の不審な行動に、殲滅部隊の方にも動揺が広がったが、指揮をしていたシルヴェーヌは即座に事態を把握した。女帝討伐を知らせる砲を打ち上げると同時に、改めて残りの魔物の殲滅を指示。士気の上がった部隊により、残った魔物の全てが討ち取られた。
なお、女帝の討伐成功に誰よりも心を弾ませたのは、もちろんミリルとジェイグの凸凹コンビだ。部隊の中でシルヴェーヌに次ぐ魔物キル数を誇る二人だったが、そこからさらなる暴れっぷりを披露した。
特にミリルの方は狂喜のあまり、手元の魔導具を大盤振る舞い。次々と爆発する様々な殺戮兵器に、敵どころか味方までもが恐怖に震えあがることになった。
そして……
「っ!? 何だ!?」
リオンのいる最深部、女帝の間が轟音とともに激しい揺れに襲われた。同時に、部屋の入り口から微かに熱を伴った風が流れ込んでくる。
その先にいるのは、先ほど遭遇した討伐ランク三級の魔物、キマイラと――
「アル!」
その衝撃と熱風に不穏な気配を感じたリオンは、巨大な妖花の調査を放置して、全速力で女帝の間を後にした。
ずっと憧れていた。
いつも優しく、強く、勇猛なその姿に。
ずっと追いかけていた。
皆を守り、導くその背中を。
黒ふくろうの家で初めて出会ってから、リオンは自分にとって目指すべき目標であり、理想だった。リオンからは、「いずれジェイグも自分も超えていくだろう」と言われているし、自分もその期待には応えたいと思っている。
だけど同時に、リオンにはいつまでも自分の目標でいて欲しいとも思っていた。
もちろんジェイグやミリル、ティアに対しても憧れはある。
だがそれは、リオンに対するものとは、やはり少し違っていた。
特にジェイグ――彼に対するアルの想いは、強い羨望。
アルはずっと羨ましかったのだ。
自分の追い求める理想と肩を並べる、その姿が。
リオンに誰よりも信頼され、自分が追いかけるべき背中を任せてもらえていることが。
そして、言葉は無くとも通じ合う、二人の在り方が。
だからもっと強くなりたかった。
二人と肩を並べられるくらいに……
その背中を任せてもらえるくらいに……
「ぐあっ!」
振り払われた巨腕に衝撃を堪え切れなかったアルの小さな体は容易く弾き飛ばされた。嵐に巻き込まれた枯れ枝のように吹き飛ぶアルは、双剣の切っ先を地面に突き立てることでどうにか壁に激突することだけは回避する。
「くそっ、まだまだぁっ!」
突き立てた剣を支えに立ち上がったアルが、勇ましい雄叫びを上げる
だがその勢いに反して、すでにアルの全身はボロボロだ。キマイラの鋭い爪に裂かれた傷が身体のあちこちに刻まれている。ズタボロの衣服の裂け目から見えるのは無数の打撲の跡。顔色と息遣いには疲労が色濃く表れており、まさに満身創痍という言葉を体現している状態だ。
リオンを送り出してから、もうすぐ十分が経過するころだ。女帝の居場所へと続く通路を、その小さな体でがむしゃらに守り通している。
アルの実力があれば、いくら強敵を相手とはいえ、十分程度でここまで追い込まれることはなかっただろう。だが女帝の命令に従い、隙あらばリオンのあとを追おうとするキマイラを相手に、アルは迂闊に動くことができない。通路の防衛戦というこの状況が、アルに苦戦を強いることとなっていた。
リオンを筆頭に、実力者の揃った黒の翼のメンバーだが、得意とする戦い方はそれぞれ違う。
アルはその小柄な体と、狐の獣人の特性を活かした身のこなしと速度をもって、敵を翻弄するタイプだ。ゆえに得意とする戦場は、その武器を活かせる広い空間。その速度をもって先陣を切り開く、黒の翼の切り込み隊長だ。
だがその速度を活かしきれない狭い空間や、自由な動きを封じられる防衛戦は不得手だ。こういう役割は、メンバーの中ではずば抜けた体力と攻撃力を誇るジェイグか、オールラウンドに戦いに対応できるリオンが請け負うことが多い。
「だからって、自分から言い出した闘いで弱音吐くわけにはいかないよな!」
痛みと疲労に悲鳴を上げる身体に鞭打って、敵に向かって勢いよく駆け出す。
アルの声に、キマイラの咆哮が重なった。
振るわれる剛腕を紙一重のタイミングで跳躍により回避。
獅子の頭部を飛び越え、その無防備な背に剣を――
「っ!? ちぃっ!」
振るう直前、風を切るような音とともに、獅子のものとは別の牙がアルを襲った。
竜の頭部を持つキマイラの尾が、その長い体を伸ばしてその牙を剥く。
「くそっ! このぉっ!」
自由の利かない空中で、どうにか迎撃のために双剣を振る。
竜の牙に、鱗に、アルの剣戟がぶつかる。
硬質な音を響かせるその攻防は、硬い竜の牙や鱗をわずかに削るが敵を退けるには至らない。
逆に下からすくい上げるように身を撓らせて迫るキマイラの尾にかち上げられて、アルの小さな体は真上に弾かれてしまう。
(正面からの攻撃を避けて回り込んでも尻尾が迎撃してくる……死角のはずの頭上を狙っても、逆に狙い撃ちにされる……)
天井まで跳ね上げられたアルが、天井の蔦に捕まることでどうにか体勢を立て直し、敵の全貌を改めて見下ろす。
獅子の牙と鋭利な爪を持つ前足は、触れれば身を切り裂く刃となる。白き剛毛と硬い筋肉に覆われた体は、双剣で薙ぎ払った程度では浅く傷を付けることしかできない。そして獣特有の俊敏な動きは、体長三メートルを超える巨体を抱えてもなお、素早さを最大の武器とするアルに決して劣りはしない。
(さすが、操られても討伐ランク三級。そう簡単にやられてはくれないよな……)
痛みに軋む体でアルがなおも不敵に笑う。
リオンとの約束である十五分まで、残り五分も無い。このままいけば、女帝を討つまでの時間稼ぎという当初の目的は果たせる。そうすれば戻ってきたリオンと共にキマイラを倒すことはできるだろう。
(とはいえ、あんな大見得切った以上、そんな結末、ぜっっっったい認めないけどな!)
たとえ攻め手を見つけることもできず、身体は傷だらけになっても、それでもアルはこの強大な敵を自身の手で屠ることを諦めてなどいない。
今もこうして、上空から敵の様子を観察しているのも、その布石なのだから。
「へっ、やっぱりそう動くよな」
こちらの動きを窺うように見上げていた獅子と竜の瞳が、やがて何かに急かされるように同時に視線を移す。もう一人の侵入者が去った先……城の奥へと続く通路へと。
詳細の分からない女帝の命令に忠実な駒。その命令がアルの行動も縛り付けていたわけだが、逆に言えば敵がこちらに背を向け、確実な隙を見せてくれるわけだ。
もっとも、一歩間違えればリオンとの十五分の約束を果たせなくなる危険性も孕んでいたわけだが――
「だからこそ、冒険するだけの価値があるってもんだろぉおお!」
限界まで力を溜めた脚で天井から跳躍するアル。
天から降る雷のような勢いで、キマイラの背中目掛けて落下する。
すでに女帝の元へと駆け出していた敵は、だが決してアルから意識を外していたわけではない。魔獣の鋭い感覚は小柄な双剣士の敵意を感じ取り、尾の竜頭を反転。愚直なまでに一直線に飛んでくる敵を迎え撃つ。
「邪魔だあああ!」
アルはその迎撃を待っていたと言わんばかりに、空中で大きく身を捻った。自身の軌道上で牙を光らせる敵へ、遠心力たっぷりの渾身の一撃を叩きこむ。
轟音。
竜の側頭部に閃いた一撃は、金属のように硬質な竜の鱗を薄く砕くに終わる。
だがその衝撃は、太い竜の体を跳ね除け、アルの道を斬り開いた。
「ハアアアアアアアアアアアアアッ!」
裂帛の気合とともに、もう片方の剣を大きく突き出す。
跳躍と落下速度、そしてアルの全力をもって繰り出された剣先が、硬質な獅子のたてがみを抜け、無防備な後頭部へと突き刺さった。
耳を劈くような獅子の苦悶の咆哮が大気を揺らす。リオンを送り出してからの十分の間で初めて、キマイラに対して確実なダメージを与えられた感触が剣を伝ってアルの右手を震わせる。
だが――
「クソッ、浅いかっ!」
邪魔物を振り払うように暴れ回るキマイラに、アルが忌々しそうに舌を鳴らす。キマイラの皮膚に突き立った剣の片割れは、残念ながら敵の命を絶つまでには届かなかったらしい。幸い、剣が抜けることも振り落とされることもないが、その暴れ狂う巨体を前にアルはしがみつくだけで精一杯だ。残されたもう片方の剣も、この体勢ではキマイラの分厚い皮膚を貫くには至らないだろう。
突き刺した方の剣を、不自由な体制でそれでもどうにか押し込むべく力を込める。
「あと、少しっ……ぐっ!」
刀身の半分程がキマイラの体内に埋まったところで、わき腹に衝撃と激痛が走った。
視線を下に向けると、キマイラの尾である竜の咢が、アルの身体に食らい付いていた。
竜は、自身の背にしがみつく不届き物を引き剥がそうと、その身を大きく震わせる。身に食い込んだ牙に、肉が引き裂かれる痛みに、アルの視界が赤く明滅する。
「ぐぅっ! このぉっ!」
激痛に呻きながら、自分の身体に牙を立てる竜へ左手の剣を振るおうとする。
だが意識が右手から逸れたタイミングで、キマイラが大地を蹴り、その巨体を大きく震わせた。その反動と咬まれた痛みによって、敵に突き立った剣を握る手からわずかに力が抜ける。
その隙を見逃すことなく大きくその長い体をくねらせた尾竜によって、アルの身体はキマイラの背から振り落とされてしまった。そのまま竜は身を鞭のように振るい、アルの小さな体を近くの壁に叩きつけた。背中から突き抜けた衝撃に、苦悶の声と共に肺から全ての空気が絞り出される。
不幸中の幸いか、竜の牙は外れていた。だが食らいつかれていた箇所には、鋭い歯の形に添って無数の穴が開けられ、傷口からあふれ出した血と竜の唾液がアルの簡素な麻の服を濡らしている。
苦悶の声を漏らしながら、それでもすぐさま立ち上がる。
命懸けの戦場で相手が体勢を立て直すまで待つ敵はいない。これまでの経験が、それを明確に教えてくれる。痛みと衝撃に頭はふらつくが、それを気合で押し殺す。敵の気配からも意識を逸らしてはいない。反撃はできなくても回避ならば問題ない。
だがそんなアルの奮闘とは裏腹に、キマイラが追撃を仕掛けてくる様子はなかった。それどころかこれまでとは明らかに様子が違う。
後頭部には小剣が刺さったままだ。今は女帝の間への通路に障害も無い。
にもかかわらず、キマイラは痛みに悶えるでもなく、女帝の命令に愚直に従うでもない。アルへ追撃することも剣を抜くこともせず、ただ竜と獅子、二つの顔をキョロキョロと落ち着きなく動かしている。
その視線がアルの視線と交わった瞬間、ようやく全てを察したアルが引き攣るような笑みを浮かべた。
その瞳に、明らかにこれまでよりも濃密な殺気と敵意を帯びていく。そして怒りを具現化させたような炎が、大きく開いたキマイラの口腔内で渦を巻き始めた。
「さっすがリオン……仕事が早いよ、チクショウ……」
仕事を引き受けてから約十五分。
アルのそんな複雑な感情を孕んだぼやきを飲み込むように――
――女帝の洗脳から解放された怪物が、咆哮と共に灼熱の業火を吹き出した。