ここにいるよ
周りは高学歴の官僚たちであふれている。
それがアドルフ・アイヒマンにはたまらなくコンプレックスの原因になった。
そんなことを気に掛けている暇などないのだ、と自分に言い聞かせていなければ劣等感でどうにかなりそうだった。
数年前に、当時の人事局長だったヴェルナー・ベストの発言にアイヒマンは心の底から震撼させられた。
大学出身のアカデミカーたちにとってはベストの発言など、ごく当然のもので取るに足りないものだったろう。
国家秘密警察の指揮官――ハインリヒ・ミュラーのように発言権があればいざ知らず。
当時は言わずもがな。
今を持ってアドルフ・アイヒマンには発言権らしい発言権もなければ、権力らしい権力などなにひとつない。
ただ、彼が認められるには、ひたすらに正しく、寸分の狂いもなく劣等民族の人間たちを運ぶための移送列車を走らせる意外にすべはなかった。
認められたいと思っていた。
学校を何度も中途退学したのは軽率だったのかもしれない。
後になってから考えてみれば、そう思えなくもないし、なによりもアイヒマン自身にこらえようがなかったということも大きな一因だったのだろうとも自己分析する余裕もあった。
けれどもそんな自己分析すらも、未だにアイヒマンにはとても「受け入れられない」ことなのだ。
自分の劣るところばかりをまざまざと突きつけられることに、彼の心は傷ついた。
「なんとしてでも、列車は定刻通り走らせろ」
もちろん、「貨物」がからではいけない。
正確な時刻で、貨物を運ばなければ意味はない。
ガチャンと電話の受話器をたたきつけたアイヒマンは、届いたばかりの報告書を手に取ってから片方の眉毛をつり上げた。
「これはどういうことだ?」
秘書の女に問いかける。
「……は?」
「いや、なんでもない」
困惑した様子で睫毛を閃かせた女に片手を振ってから退室を促すと、自分の執務机についたままもう一度書類の内容を読み返した。
つまり、移送の際に「早まった」考え方をした親衛隊の手によって、移送対象とされた人々が「無益に」その場で処刑されたということだ。
「親衛隊と国防軍は巨大な労働力を求めている。だからこそ、そのための労働力となるべく捕虜共を、無益に処刑するとは何事だ」
怒鳴りつける勢いでアイヒマンは、報告書を受け取ってしばらくした後に再び外線電話の受話器を握りしめて、回線のむこうがわにいる親衛隊員を批難した。
相手の評価が上がろうが下がろうが知った事ではないが、自分の評価が下がるのは困る。
それでなくても、国家保安本部に詰める官僚たちが優秀なことは周知の事実で、それはアイヒマンでさえも認めずには居られない。
その筆頭が、国内諜報局長のオットー・オーレンドルフ、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルク、そして、世界観研究局長のフランツ・ジックスだ。
全員が国内に認められる優秀な知識人でもある。
同世代とあって、アイヒマンも自分とは比較せずにはいられなかった。
どうしてこんなにも世界とは不公平に満ちているのかと、世界を呪った。
同じ「アドルフ」という名前を持ち、カイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を卒業することもできなかったというのに、「あの」アドルフ・ヒトラーは国家元首にまで成り上がりドイツを支配したというのに。
「……俺は」
アドルフ・アイヒマンは、アドルフ・ヒトラーとは違って「ただの人」でしかない。
そんな現実が情けないやら悲しいやら。
どうしようもない現実に頭を抱えた。
「死んだらおしまいよ?」
不意に響いた声にアイヒマンがぎょっとする。
「彼女」に情けない姿を見られてしまっただろうか?
「……――」
返す言葉を見つけられずに視線を彷徨わせたアイヒマンに、執務室の扉に寄りかかった少女は、青い瞳でにっこりと笑った。
「頭が良い人も、出来の悪い人も結局死んじゃうんだから、死んだら終わりって思わない?」
「なにを、突然……」
「どんなに誰かを羨ましく思っても、死んだら一緒よーって」
それだけよ。
マリーはそうしてもう一度にっこりと満面の笑みを浮かべると、姿を現したときと同じように扉の向こうに唐突に姿を消してしまった。
パタパタと歩幅の狭い足音が聞こえて消えていくようで、思わずアイヒマンは椅子を蹴り飛ばす勢いで席を立つと、廊下に続く扉を駆け抜けた。
考えもなしに咄嗟に彼女を追いかけて、その走り去ろうとする手首を捕まえてから自分の迂闊さに舌打ちする。
十代の少年ではあるまいし、こんな少女相手になにをやっているのだろう。
「アイヒマン中佐?」
「その、……いや、なんでもない」
眉をしかめながらそう呟くと、アイヒマンは少女の手首を掴んでいた指を引きはがしてから肩を落とした。
全力疾走したアイヒマンに興味深げな眼差しを投げかけてくる官僚たちを睨み付けてから彼女に対する反応のやり場を失って、挙動不審に中空に視線をさまよわせた。
「すまなかった、なんでもないんだ」
自分の感情がわからない。
困惑気味にそれだけ呟いてから、訝しげな視線を向ける少女に片手を振ってから踵を返した。
どうして彼女を追いかけてしまったのだろう。
それがわからない。
「アイヒマン中佐」
マリーの声が背中に響いてきて、アドルフ・アイヒマンは足を止めた。
「あなたが”ここ”に生きているのは、わたしが知っているわ」




