家族のはなし(2)
それからリリーはどうしてもシュルヴェステルの顔をちゃんと見られなくなった。
あまり良くない態度だと反省している。けれど、どうにも、直視できない。
後ろ暗い心と、それから純粋な恋心で、今までの日々が嘘のように、急に彼に近づけなくなった。
傍にいすぎると心臓が壊れそうになる。
さすがに不審に思って、どうした、と聞く彼に、少しだけ調子が良くないと嘘をついた。
今まで全く嘘をつかなかったなんてこと言わないけれど、こんな嘘ははじめてだ。
すると途端に彼が心配そうな顔をしてくれて、うれしい反面かえってひどく心が痛い。
熱はないかとシュルヴェステルの手が前髪を掻き分けて額に触れる。
ひやりと低い体温に、リリーは胸が軋む音を聞いた。
その日の午後、偶然彼とニコラが一緒にいるのを見た。
「あれ、あんたのとこのお兄さんとニコラじゃないの」
ドリーさんの手伝いをしている最中だった。
ドリーさんが意外そうに言う声に、リリーは顔を上げて、
それからやっぱり見るんじゃなかったとすぐに後悔した。
木の下、木陰に二人は立って、なにやら楽しげに話しこんでいた。
ニコラの笑い声が風に乗ってここまで届きそうな気がする。
ほんとうにリリーは頭が痛みだした。
「あらあ。今まで考えたことなかったけど、こうして見ると、あの二人、なかなかいいじゃないの。それとももう、そういう仲?」
にこにこと興味深げに問いかけてくるドリーさんにリリーは曖昧に微笑み返すことしかできない。
「そう、見えます?」
「いいんじゃないかねえ。お互い、満更でもなさそうだし。」
「・・・・・」
何も言えなくなったリリーに、ドリーさんはあらあらと困ったような顔をした。
「リリーはやっぱり寂しいかしら?」
「・・・うん。さみしい、かな」
「そりゃそうよね。シュルヴェステルがこの村に来てからずっと、仲のいい兄妹だったものね」
「・・・・・仲のいい兄妹」
ぽつりと呟きが漏れた。
やはり誰の目にもそう見えるのだ。
そりゃそうだ。だって、リリーもつい昨日まで、
・・・昨日の午後か来るまでは、疑うことなくそう思ってた。
ドリーさんが優しく笑う。
「でも、そろそろリリーもお兄さん離れ、しないとねえ」
(お兄さん離れ・・・)
その一言が胸に響く。
思えば、シュルヴェステルは本当にいいお兄ちゃんだった。
いつだって、リリーに手を差し伸べてくれた。
でもそれは、彼にとって負担だったんじゃないんだろうか。
知らないうちに、自分があの人を縛っていたりしたら?
だって、彼の優しさはよく知っている。
「・・・・・離れなきゃ、いけないかな」
縛り付けていたのなら、それは、解放しなくてはならない。
シュルヴェステルはまだ若い。
・・・そうだ。やりたいことだって、ほんとうは、たくさんあるのではないか。
リリーの弱弱しくなってしまった声に、ドリーさんの眉がハの字になった。
「そりゃあ、離れ離れになれってことじゃないけど、」
そこまで言いかけたところで生まれたばかりの赤ん坊が泣きだして、慌てて彼女は我が子を抱き上げる。
あやしはじめてすぐに赤ん坊は大人しくなった。
自然とリリーの目がドリーさんの腕の中、ぐずりながらも母親の顔を見て笑い始めた赤ん坊へ向く。
あかちゃん。
リーズの村で生きてきたから、村の下の子の面倒を見るのは当たり前だった。
赤ん坊を抱っこした回数も、もう数えきれない。
リーズの子は、それこそまだ自分が十にならない小さいころから、更に自分より小さい赤ん坊の成長を見届けることになる。
だから、そのあかちゃんを抱いた時の軽さと、重さを、リリーもよく知っている。
(・・・あかちゃん、か)
いつか、私にもできるんだろうか。
抱っこ、してあげられるんだろうか。私の、あかちゃん。
・・・・・でも、それは、きっとシュルヴェステルの子供じゃない。
彼の子供は、どんな子になるだろう。
ドリーさんは体を揺すって腕の中の赤ん坊に目を向けたまま温もりに満ちた微笑を浮かべた。
「リリー、誰かと添い遂げるというのはいいものよ」
「・・・ドリーさん」
「あなたもそろそろ考え始めるころね、リリー」
にっこりとしたドリーさんの顔にリリーは言葉を詰まらせた。
それから世話焼きっぷりを発揮したドリーさんが、ドナルドなんてちょうどいいんじゃないかしらね、と楽しげに考え始める。
リリーは苦笑してもう一度二人がいる方へ視線を投げた。
お似合いの二人だと思う。
並んで立つ姿は、ほんとうに仲睦まじい恋人同士みたい。
そうじゃなきゃ、初々しい夫婦。
忙しなくリリーは瞬きをした。そうでもしないと涙が零れそうだった。
シュルヴェステルが何やら口を開く。
するとニコラが可愛らしくはにかんで、
その時風が吹いた。
頭上の木から木の葉がひらひらとニコラの綺麗な髪に落ちる。
気付いたシュルヴェステルの手が彼女の頭に伸びる。
やめて
咄嗟にリリーはそう思った。
おねがい、やめて
シュルヴェステルの手がニコラの髪を梳くようにしてその葉を取り除く。
ニコラが笑う。
するとつられたようにシュルヴェステルも頬を緩めた。
遠目にも彼の口元が笑みを浮かべるのがわかったとき、とうとう堪えられなくなってリリーは視線を逸らした。
心がぐるぐるする。
真っ黒になってしまいそう。
こんなに些細な事なのに。
自分は、ほんとうに狭量な人間だったのだろうか。
「あー、ばあっ」
ドリーさんの腕の中で、赤ん坊が明るい声を上げた。
ドリーさんに頼まれたお使いからの帰り道を、とぼとぼと歩く。
日が落ち始めて、辺りは赤く染まっていた。
道の脇に茂る雑草の上を一匹の蝶がひらひらと行く。
それには目もくれないで足元へ視線を落としたままリリーは歩いた。
まだ、シュルヴェステルの怪我が癒えはじめたころだった。
「リリー?」
声をかけられてリリーは体を震わせた。
慌てて手で目を擦り、笑顔で振り返る。
「どうしました?シュルヴェステルさん」
「・・・・・」
ちゃんと笑えたと思ったのに、シュルヴェステルの表情は浮かなかった。
「泣いていたのか」
質問というよりも、確認のような口調だった。
「・・・泣いてませんよ」
首を横に振るリリーに、シュルヴェステルが眉尻を下げて微笑する。
「リリーは、嘘があまり得意じゃないんだな」
どうしてわかったんだろう
リリーは自分の笑みがゆるゆると崩れていくのを感じた。
そういえば、ニコラにも言われた。
リリー、あなた、ものすごく、嘘が下手ね。
ぼろりと、涙が零れた。
それに慌てたのはシュルヴェステルではなくてリリー本人だった。
「ご、ごめんなさい。あの、わたし、」
これじゃあ、みっともない。
ごしごしと腕で目を拭い、急いで涙を止めようとする彼女の手を、シュルヴェステルの骨ばった手が下させる。
「いい。無理に止めるものじゃない。」
「でも、・・・情けなく、て」
「必要だから、涙が出るんだ」
彼の優しい声にリリーの感情は決壊した。
突然体を震わせて泣きはじめた彼女を、シュルヴェステルは呆れるでもなく、ただ待つように何も言わずにぽんぽんと背を軽く叩いてくれた。
どれくらいの時間が経っただろう。
落ち着き始めたリリーは、我に返って頬を赤くしながら自嘲した。
「ごめんなさい。その、亡くなった母を急に思い出して」
「・・・亡くなったのか」
「ええ。ひと月くらい前に」
夕飯の仕度をしていた最中だった。
今日の献立は、母の得意だった料理で、
具材を刻みながら、台所に立つ母の背中を思い出した。
父が好きな料理だったらしく、彼女は若いころそれはそれはこの料理を練習したそうだ。
何度も何度も作って、その何度も何度も作られたあまり美味しくない料理を、父は何も言わず笑って食べてくれたと、恋する少女の顔で語ってくれたのを覚えている。
この料理を作る時、母はいつも鼻歌を歌っていた。
リズミカルに具材が切れていく音と共に楽しげなそんな母の後ろ姿を見ることがリリーは小さい時から好きだった。
まるでそこには父もいるようで。
長く三人で一緒にいることは叶わなかったけれど、この時ばかりはその空間を三人で共有しているような気がして。
ちらちら見える思い出という名の父の影に、その度リリーは心の中で呟いた。
おとうさん。今日は、おとうさんの好きな料理だよ。
その料理を母に教わったのはほんの二、三年前のことだ。
どうしても母のようには作れなくて、練習しては母に味見を頼んでいた。
だから、きっと、癖なのだと思う。
「おかあさん、これ、なにが」
足りないのかな、
という声は尻すぼみに消えていった。
振り返って、誰もいない空間を目の当たりにして、ああ、とリリーは気付いた。
母はいない。もう、いないのよ。リリー。
あなたはもう、ひとりなの。
母が亡くなってはじめて今日作ったその料理は、やはり母の味には何かが一歩届かなかった。




