家族のはなし(1)
道端に男が血を流して倒れていた。
「・・・・・・・・」
その光景を目にした時、リリーは驚きのあまりそのとき両手に持っていたものをすとんと地面に落とした。野菜のゴトゴトという重たい音がした。ついでに手足から血の気も引いた。
確かめることはできないが顔も近年最高レベルで見事に青くなっているだろう。
驚いたなんていうものではない。
なにせ変化の乏しい安穏とした村で、これまた安穏とした暮らしを送っている。
流血沙汰など、酒の入った男同士のしようもない喧嘩か、ここ最近ではお隣のドリーさんの出産ぐらいでしかない。
そんな自分の目の前で、リリーにはいったいどうしたらこうなるのかさっぱりわからないような怪我を負った男の体から、見ているだけでこちらの血の気が失せるほど鮮烈な赤の血液が流れ出て地面の上を覆っている。
しかも男は倒れ伏していて、傍目にも意識がないのが一目瞭然。
驚くなというのが無理な話だった。
しかし驚きすぎたのが良かったらしい。
許容を越えた驚愕は、みるみるうちに萎んでいき、一気に彼女は冷静になった。
慌てて倒れている男に近寄り声をかける。
普段なら女一人で不用心に見知らぬ男に近づいたりはしないが、この男、どう見ても身動きの取れる体ではない。
リリーはそっと躊躇いがちに男の肩に手を乗せた。
「あの、聞こえますか?・・・ねえ、しっかりして」
耳元で声をかけるが、一向に返事の様子がない。
リリーは大急ぎで人手を呼びに村へと駆けた。
「・・・・・あ。よかった。目が覚めたのね」
意識が浮上していくと共に、男は目をゆっくりと開いた。
うすぼんやりとしていて視界が定まらない。
光が眩しくて目を細めると、女の声がした。
耳触りのいい、どこかのほほんとした色を帯びた声。
・・・聞き覚えのない声だ。
はっとして飛び起きた男は、次に襲ってきた情け容赦のない激痛に思わず呻き声を上げて身を丸めた。
すぐ横で女の焦る声がする。
「だめよ!起き上がったりしたら・・・。ひどい怪我なの」
すっと背に手が伸びる。
華奢な手であることは衣服越しにもすぐわかる。
温かな人肌の体温が背中を労わるように上下した。
ちらりと見えたのは細い手首だった。
顔を上げると、やはり知らない顔の女、いや少女がこちらを見ている。
男は掠れた声を上げた。
「・・・ここは?」
「リーズ村。セレナティエの辺境村です。」
リーズ村、とまだ意識がはっきりしていないのか心ここにあらずの体で俯き呟いた男を心配げにリリーは見遣る。
あれから彼女は付きっきりでこの男の看病をしていた。
彼女はなにかと気が付くし、器用で手際も良い。
適任だと村の者に言われて任されていたのだ。
何よりはじめに見つけたのがリリーであったし、彼女も気になっていた。
半分願い出る形で、彼女は苦しげに呻く男の世話を一晩中甲斐甲斐しく焼いたのだった。
「村の近くで倒れていたの。ひどい怪我で・・・」
恐る恐る声をかけた彼女に、男がようやく顔を上げる。
どこかまだぼんやりとした表情をしているが、視線はしっかりしている。
男は掠れた声を出した。
「・・・・・そうか。いや、ありがとう。手間をかけさせて申し訳ない」
「私は、勝手にしたことだから。村のみんなにそう言ってくれると嬉しいわ」
「ああ、そうする」
律儀に頷く男に、ふと妙な親近感が湧く。
夜通しこの男を看ていた彼女は、彼が苦しげになにやら寝言で呻くのを聞いていた。
内容は判然とせず聞き取れなかったが、何だかひどく様子が悲しげだったと思い出す。
なにか、事情があるのだろう。
そうでなくともあの怪我だ。訳ありに違いない。
あんな姿で倒れているからどんな人間だろうと考えていたが、
(・・・思っていたよりずっと話しやすい)
リリーは思わず笑ってしまった。
ふふ、という彼女の笑い声に、気付いた男が怪訝な色を乗せた瞳を向けてくる。
灰色の混じる、黒の双眸。
穏やかな瞳だと、リリーは思った。
「私はリリーというの。あなたは?」
「・・・・・シュルヴェステル」
「シュルヴェステル。・・・素敵な名前ね」
「そうか?」
「ここらへんでは聞かない響きだわ」
「それは・・・、そうだろうな」
ふっと男が笑う。
するとどこか近寄りがたかった彼の雰囲気が一変して柔らかくなる。
リリーが初めて見たシュルヴェステルの笑顔だった。
それからシュルヴェステルは村に居ついた。
リーズは気のいい人間が多い。
新参者の男が受け入れられるのは早かった。
村の有望な働き手で、何より真面目な彼はすぐに皆から歓迎された。
以来、幼いころに父を亡くし、最近母を病で亡くしたばかりであったリリーと、同じく身寄りはないと言う何やら訳ありで村へと住み着いたシュルヴェステルはすぐに打ち解けた。
シュルヴェステルには恩義もあったのだろう、家族のない彼らは通じるものがあったらしい、進んで兄妹になるかのごとく、困ったことがあると助け合うようになった。
それからは兄のように、そして妹のように、二人は互いを思いやりながらリーズでの日々を恙なく過ごす。
そしていつしかリリーは少女からひとりの女性へと成長した。
きっかけは友人の一言だった。
「ねえ、リリー。私、シュルヴェステルのこと、好きかもしれない」
村でも可愛いと評判の親友、ニコラからそう打ち明けられた時、リリーは一瞬頭が真っ白になった。
一拍置いて自分が動揺しているのだと気付いた時は、輪をかけて更に動揺した。
そのせいで結果無言のままでいることになったリリーに、ニコラのくりくりとした愛らしい目が戸惑うように向けられる。
「・・・リリー?あの、やっぱり、いや、かしら」
「えっ。・・・いいえ、そんなこと、ないけど」
なんと返したらいいのかわからなくて口ごもってしまうと、途端にニコラが安堵したように笑う。
「そう?・・・よかった!だってね、リリーは彼の妹のような存在だから、」
どう思われるか心配だったの
ニコラが上気した頬ではにかむ。
いつもなら素直にそれをかわいいなと感じるのに、このときリリーはどうしても上手に笑い返すことができなかった。
ニコラのいうことは正しい。
このときリリーはおふざけ半分、本心半分で、シュルヴェステルのことを時折にいさんと呼んでいた。
だから、ニコラのいうことは正しい。
・・・正しいのに、
ニコラの両手が伸びてリリーの手を柔らかく包んだ。
「リリー、彼に近しいあなたが力になってくれると心強いわ。応援してくれる?」
ニコラの言葉を思い出す。
『やっぱり、いや、かしら』
(・・・いや?私、あの二人が一緒になると、いやなのかしら)
そんなはずがない。
むしろ喜ばしいはずだ。
シュルヴェステルは大事だし、幸せになってほしい。ほんとうに。
ニコラは小さいころから良く知っている大親友で、彼女の恋は応援したい。これだってほんとう。
二人が一緒になれば、きっと素敵な家族になる。
心の底からそう思う。
それなのに、どうしてだろう、とても、
(・・・?いやなのかしら。何故?どうしてそう思うの?大好きな二人よ、歓迎すべきでしょ。・・・・私、こんなに心の狭い人間だったかしら)
寂しいのだろうか。
親友を盗られるようで。
兄を、盗られるようで。
「リリー?」
唐突に背後から声をかけられて、リリーは大袈裟なほど体をびくりと震わせた。
目を見開いて振り返る。
「シュルヴェステル、さん」
考えていた彼がそこに立っていて、リリーの心臓はずきりとした。
「どうした。・・・悪い、驚かせたか?」
自然に彼はリリーのいる台所へと足を踏み入れる。
いつものことであるのに、リリーはひどくどぎまぎとした。
「・・・・・ううん。ちょっと、考え事をしていたから」
「考え事?どんな」
「・・・明日、ドリーさんのお手伝いをするから、そのことを」
言うと途端にシュルヴェステルが苦笑を浮かべる。
くしゃり、と彼の無骨な手がリリーの頭を撫でた。
「あいかわらず、嘘をつくのが下手だ」
「・・・・・・ほんとうよ」
「はいはい。・・・ひとりでどうにもならないようなら、言うんだぞ?」
「・・・ほんとうなのに」
「わかってる。・・・今夜はなに?」
軽く受け流してリリーの料理する手元を覗き込むシュルヴェステルに、リリーは無性に泣きたくなった。
ニコラと彼が一緒になったら、こんな風に夕飯を作ってあげることもできなくなる。
手元に視線を戻して、シュルヴェステルの好物のスープをかき混ぜながら、リリーはずっと背後の彼の存在が気になって仕方がなかった。
その日の夜、自分の部屋に入った彼女は後ろ手に閉めた戸に寄りかかるようにして、片手を自らの額に押し当てた。
ありえない。
ありえない、だって、
(・・・・だって、ずっと、おにいさんだと思っていたのに)
彼は、自分の、兄なのに。
ほんとうに、ずっとずっと、良い兄だったのだ。
大好きな、自慢の兄だったのに
ほんとうに、それだけしか思っていなかったのに
(こんなこと、考えてもみなかったのに、なのに、)
家族だと思っていた。
寂しいときに、出会った新しい家族。
血は繋がっていないけれど、支え合って、生きてきた。
心の底から、愛していた。
家族として、真心こめて、愛していたのに。
今までの日々を、ずっと。
どうしよう、どうしよう、どうしよう
「・・・どうしたらいいの」
どんどん想いが溢れてくる。
今までどこにこんなのが仕舞われていたのだろうというくらい、どんどん。
眩暈がしそうだった。
「どうしたらいいの。だって、だって、こんな・・・」
かなしかった。
理由はわからないけれど、とにかく、かなしかった。
あんまりだ。
そう思う。
窓の向こうに見える綺麗な星のきらめきがすごくさみしい。
部屋は、真っ暗だった。
「こんな、」
ぱたり、涙が落ちた。