09
休みの日に、しかも素面で。コウタさんと予定を入れることになるなんて誰が予想しただろう。
元カレ問題が落ち着いた翌日の土曜日。久しぶりに爽やかな目覚めで朝日を浴びた私は、大慌てで朝風呂に浸かっている。昨晩の深酒で顔が物の見事に浮腫んでいたもので。平日の労働による睡眠不足からの深酒は宜しくない。
朝の上がりきっていない血圧で真っ白な肌、それにパンパンに浮腫んだ顔はとても不健康だった。慌ててとりあえず白湯を飲んで、ヨーグルトとドライフルーツをゆっくり食べる。少しお腹が落ち着いてから、今度は朝ごはんを食べている間に沸かしたお風呂へ。ぬるめのお湯にゆったり浸かって、湯船の中で足首と手首を回す。
「あー……」
首をバスタブに預けて、脱力する。昼時からの集合だからと、余裕を持って早めに起きて正解だった。浮腫取りにはお風呂が一番。お風呂は長風呂派なので、朝入ろうとすると必然的に時間がかかる。仕事でもないのに七時には動き出していた自分に拍手喝采だ。
昨晩は残業を終えたアヤネが、死にそうな顔でやって来てから、コウタさんはその顔色を見てそっと離れていった。後でスマホを見たら、疲れてそうなのに自分がいたら休まらなさそうだから、とメッセージが来ていた。まあ確かに、ここ最近おなじみになりつつある、コウタさんにぶわっとすごい勢いで言い返しにかかっていく程の気力も体力も、昨晩のアヤネに残っていなかった。かといってそのまま何も言わないでいるのもフラストレーションを貯めるタイプなので、コウタさんの撤退は大正解だったと思う。
閉店間際にまあまあ厄介なお客様が来て、社員のアヤネの話すら聞かず、結局店長を召喚するレベルで何やら揉めたらしい。無理に聞き出さないことにしているので何に揉めたのかは分からないけれど。しかも今週は一人バイトの子が体調を崩して、ずっとオープンラストのロングシフトをこなしていたらしい。そりゃあ疲れる。労わろうと思って奢った一杯で眠たそうにしていたので、速攻でタクシーを呼んでそこに押し込んで帰した。
そんな事をしていたら私も何でだかどっと疲れてしまって、戻ってすぐ帰ろうかと思ったら知り合いの常連が入れたボトルのワインを振る舞われまくって、結果深酒になった。残念がすぎる。ちなみにアヤネを帰してから店内を見回してみたら、コウタさんは前々からよく飲んでいるメンツの中に紛れていたから、改めて話しかけに行くのはやめておいた。待ち合わせを決めておいてからアヤネがやって来て、本当に良かった。
じゃあまた明日、とも言わないまま帰ったわけだが、念の為と待ち合わせをリマインドで送ってくれていたコウタさんのマメさよ。大変有難い。動くか…とようやくスイッチを切り替えて、ほぼほぼバスタブ内で溶けていた体を動かすことにした。
仕事の日ではないからと、Aラインのシフォンワンピース。流石に冬なので上にふわふわとした布地のショートカーディガンを合わせる。飲みに行く可能性を考えて、ブーツは避けて脱ぎ履きのしやすい、けれど歩きやすいストラップ付きの高めのヒール。緩く巻いてハーフアップにした髪に、黒縁の伊達眼鏡をかけて今日のコーディネートは完成だ。いつだったか眼鏡の話をしたから、今日は丁度いいだろう。
ゆっくり支度をしていればそこそこな時間で、キャメルカラーのチェスターコートを羽織って家を出た。電車内で、昨日飲んだベイリーズをネット注文しておく。マスターに聞いたら自宅でもアレンジしようがあると言っていたので。スマホとにらめっこしながらやってきた待ち合わせ場所には、まだコウタさんはいなかった。約束の十五分前。丁度いいので色々リキュールを調べながら時間を潰す。
「チナツ…ちゃん?」
「あ、コウタさん。おはようございます」
「おはよ。……眼鏡だ」
スマホを見ている私の視界にそっと近づいてくる細身なシルエット。どこか訝しげな声に顔を上げると、ちょっと驚いたような表情でコウタさんがこちらを見ていた。小首を傾げていれば、眼鏡、と言われる。約束を果たしただけなのだけれど、そんなに言われるほどだろうか。
「結構前に、似た眼鏡持ってるって話したじゃないですか。それですよ」
「やっぱりそれ? 眼鏡でだいぶ印象違うから、最初探しちゃった」
似合ってんね。かつん、と音を立ててフレームを爪先で弾かれる。似たような黒縁眼鏡越し、いつも飲みながら見るよりシュッとした印象の涼やかな目がにっと細められる。
「今日めちゃくちゃ可愛くない? 休み仕様?」
「ふふ。仕事じゃないからこその格好ですね」
「へー…可愛い」
しみじみ、まじまじと褒められて、少し照れる。
コウタさんも休み仕様の格好だろう。黒のダメージデニムに、白のデザイントップス。襟ぐりがざっくり開いていて、首筋と鎖骨が色っぽい。そこにグレーのチェスターコートを羽織った姿は、いつもバーで見るよりラフでもっと若く見えた。
「コウタさんも。お休み仕様の私服、格好良いですね」
「お、ありがと。……流石にさあ、可愛い子エスコートするのにあんまテキトーもなんか違うじゃん?」
ねえ、と覗き込まれるようにして言われるけれど、その可愛い子っていうのは私だろうか。話の文脈的に私だろう。もしかして今日シラフの間もずっとこの感じで行くんだとしたら割と私の心臓がもたない気がする。
そっとコウタさんに手を取られる。指が細くて長くて、大きな綺麗な手。いつかと同じくごく自然に指を絡ませて手を引かれるまま、とりあえず、と向かう先は予定通りというか今日のきっかけにもなったアイスクリームチェーン店。二人でメニュー一覧の看板とにらめっこして、ああでもないこうでもないと話し合う。
「コーヒーのやつ美味しそうじゃないです?」
「それ言ったら季節限定のピスタチオのは?」
「あー甲乙つけがたいラインナップ…」
どうにかダブルのカップでアイスを決めて注文すると、まだ人もまばらなお店前の客席に腰を下ろした。昼時なのに昼を食べるより先にアイスを食べるのは余程のアイス好きか何かだろう。丸いこじんまりしたテーブルに向かい合って、それぞれ買ったアイスにスプーンを差し込む。
結局私はピスタチオとチョコのアイスに、いつも食べるラズベリーとチョコのアイスのダブル。濃い味同士だけれど、ラズベリーの酸味が効いてるから飽きのこない味だ。コウタさんは安定のチョコミント、それからコーヒーにチョコレートリボンの入った定番フレーバーのダブル。チョコの塊がちょうど入っていたらしくて、想像以上に甘かったのか、思ってたのと違う…という空気を醸し出しているのが何だか可愛い。
「こっち食べます? ラズベリーは酸味あるけど甘すぎるかもだから、ピスタチオの方がいいかも」
「くれんの? やった」
はい、とカップを差し出したのに、コウタさんは、あ、と口を開けてこちらを見遣る。それはあれか、あーんをしろ、と。ええ…と思いつつも、ここでうだうだしていても埒が明かないだろうと、大きめのひと口をとってコウタさんの口に運び込む。ちょっと大きすぎて口元にチョコをつけてしまって、あ、と思うのもつかの間。スプーンから口を離して、コウタさんはなんでもない顔してそれをぺろりと舐めとっていた。イケメンは大抵の仕草が様になる。色っぽいなあとぼんやり思う。
「ご馳走様」
「どうです?」
「ピスタチオ美味いね。チョコがなんかあっさりしてる」
「口溶け軽いからそれであっさり感じるんですかね?」
「あーかも。チナツちゃんもこっち食べる?」
「あ、じゃあコーヒーの方食べたいです」
「おっけー」
言われる前に。先手必勝と私も、あ、と口を開けてコウタさんを見る。まさか私がやり返すと思わなかったのか、カップを差し出そうとしたコウタさんは、一瞬目を泳がせてからスプーンを差し出してくれた。遠慮せずそれにぱくつく。甘めのコーヒーに、こっくりしたチョコレート。ナッツがアクセントになって美味しい。
「あ、美味しい」
「こっちのが濃厚じゃない?」
「チョコの主張激しめですもんね」
「まあそれが美味いんだろうけど」
何事も無かったように味の感想を述べれば、コウタさんは仕方ない奴を見る目をして苦笑う。いやまあ、普通にあーんなんてされたら、こっちも何事もないように振る舞うのが最適解な気がするんだけれど違うだろうか。わざと作ったおすまし顔で、ん? と小首を傾げて見せれば、なんでもないと喉の奥でくつくつと笑われた。
「折角だし、テキトーに昼食って、ブラブラして飲み行くか」
「はあい」
予想通りな提案に二つ返事で頷いて、食べ終わったカップを片付ける。ささっとコウタさんのも回収して動いていれば、お礼と共に何故か髪を撫でられる。
「チナツちゃんさあ」
「はい?」
「俺に対して気使わなくて良いよ?」
「……?」
「あーうん。だよな、無意識だよな」
唐突なコウタさんの申し入れに、はて? と首を傾げる。さっき小首を傾げた時よりも大きく。コウタさんはそんな私を見て、だよなあと首の辺りをガリガリ掻いて嘆息した。
「今みたいなのもさ、俺にやらせりゃいいんだよ。何も全部率先して動かなくていい」
「え」
「やってくれてめちゃくちゃ有難い。けどさ、チナツちゃん無意識に相手に尽くすタイプっぽいから。すんごいどうでもいい細かいことから、手放した方がいいと思うんだよな」
有難い、と言われて、何かやらかしたかという一抹の不安は消えた。けれど続いた言葉は割合寝耳に水だった。
尽くすタイプ、なんだろうか。自覚はないがそういえば以前にアヤネなんかからも言われたことがあるのを、不意に思い出した。よくよく話を聞いた上で言ってきたアヤネだけじゃあなく、ふわっとしか話していないコウタさんにまで言われるなんて、そんなにか? とはいえ、どうでもいいところから手放していく…というアドバイスは初めて得たもので、それで自分がどう変わるのかは、単純に興味が湧いた。
「……なんというか、まずそもそも尽くすタイプっていうのがあんまり分からないんですが」
「うん」
うーん、と腕組みしてまで考える私を、コウタさんは急かすことなく待ってくれる。
「でも…ちょっとやってみたい、と、思いました」
「よし。じゃあ、今日は俺になるべく甘えること」
「え、急にハードル上げますね!?」
「上げてないって。チナツちゃんそのくらい言ってやっと、ちょっと気遣い減るくらいでしょ」
「えー…そうですかね……」
「絶対そう」
確信を持って頷かれてしまっては、はいそうですか、としか言いようがない。そこまで言うならじゃあ、と渋々頷いて、とりあえずまた手を繋いだ。
「何食いたい?」
「何がいいですかね……なんだかんだアイスでお腹膨れてるんですよね」
「分かる。じゃあ軽めがいいか」
「その方が有難いですね」
「……この辺だとあそこかな。チナツちゃん嫌いな食べ物ある?」
「いえあんまり」
「俺のおすすめでもいい?」
「勿論です!」
たかがアイス、されどアイス。大してお腹にたまらなそうなのに、久しぶりに食べたからか、それとも甘さ故か。あんまりガッツリは食べられなさそうと素直に言えば、コウタさんはどこか思い当たる店があったらしい。今のところ味覚ドンピシャなコウタさんのオススメなら、絶対的に間違いないだろうと思って、全力で同意する。
かくして私とコウタさんの行き当たりばったりデートは幕を開けた。




