第廿九服 声東撃西
(前話のあらすじ)
柳本勢が撤退し、播磨統一に沸く浦上家中。浦上村宗は細川高国と摂津へ侵攻、島村貫則に瀧山城攻略を命じる。
東に声して西を撃つ
葦辺行く雁の翼を見るごとに
君が帯ばしし投矢し思ほゆ
万葉集 第十三巻 大伴家持
依藤の戦いで生き残った柳本越中守吉久と柳本出羽守道秋は柳本氏の残党を集めて東山の駐屯地――深草城に入った。これにより家中を掌握した二人は、柳本甚次郎忠治の代替わりを細川六郎に承認してもらうべく動き出す。
細川六郎の承認を確実にするため、側近の三好神五郎政長に口添えを頼むことに話は纏まった。だが、政長に頼むには土産がいる。
吉久に諮った道秋は、京の豪商・灰屋三郎左衛門を紹介される。灰屋が管領する紺灰問職は、紺屋に売る灰を差配する座で、藍染の染料に使う専用の灰を扱い、京には御所直轄の紺灰問が四箇所があった。この内、灰屋が差配するのは丹波国野村から長坂口を通じて運びいれられた灰で、京に集められたあと、全国へ運ばれる。灰屋はこの財力を背景に奈良流の茶人らと交流しており、茶道具にも詳しかった。
ひと月ばかり過ぎたある日、道秋は政長を訪ねて、榎並城へと赴いた。
「榎並様、お久しゅうございます」
「おぉ、羽州ではないか。俺を訪ねるとは頼み事か」
喜色を顕わにして道秋を迎え入れた政長は昨年、兄・遠江守長家が身罷り、その遺領を継いでいる。政長の母は越後入道宗安の正室で、三十番神社の女であった。それ故、新五郎ではなく神五郎を名乗っている。
三十番神とは神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた三十柱の神々のことだ。天台宗の開祖最澄が比叡山に祀ったのが最初とされる。鎌倉時代には信仰が盛んとなり、室町期には特に法華宗が重視し、法華経守護の神――諸天善神となっていた。これは京都に法華宗を布教しようとした日像が、布教のために比叡山の三十番神を取り入れたことによる。
この当時、政長は細川六郎の側近中の側近であり、奏上は勿論、すべての評義を取り仕切っていたが、一つだけ不安がある。阿波衆が三好筑前守元長の失脚で国許に戻り、兵力が足りなかった。故に細川讃岐守氏之の上堺を促すも、色よい返事はなく、その間に柳本弾正忠賢治が暗殺されて播磨攻略が頓挫する。政長は動揺した摂津衆の繋ぎ止めに奔走することになった。
「柳本の家督の件、甚次郎様を跡継として御屋形様にお認めいただけますよう、お口添えを賜りたく存じます」
「甚次郎のぅ」
焦らすような政長の眼差しに、道秋は書状に添えて手箱を差出して平伏した。政長はニヤリと口の端を上げて、側にいた細川右馬頭尹賢に取り次がせる。
此処に尹賢が居るのは、政長が六郎に乞うて寄騎としたからであった。摂津衆は柳本賢治の死に動揺したものの、尹賢が摂津衆を説得して回ったことで落ち着きを取り戻したが、それは尹賢と摂津衆の関係性である。その尹賢が政長付きとなったことで、政長の摂津守護代を受け容れ、その傘下に入った。
尹賢が手箱を開け、中から袋に包まれた曳家を取り出し、長緒を解いていく。桑の木で作られた曳家は丸みを帯びた寸胴で、これは茄子や文琳といった格の高い形の茶入を入れるときの約束だ。天面には朱漆で『付藻』と書かれている。
「ほう……これは見事な茄子にございますな」
「それほど好い品ですか。どれ……」
政長が身を乗り出して、尹賢が取り出した茶入を眺める。尹賢は添えられていた堆朱盆に茶入を載せると、政長の前に送った。今は自分の属将とはいえ、嘗ての主家筋である尹賢にあまり粗雑な扱いはできないのか、政長の言葉遣いが丁寧である。
「銘を『九十九髪』と聞いております」
道秋の口から出た『九十九髪』とは、村田珠光が九十九貫で手に入れたことから『伊勢物語』の一節「百年に一年足らぬつくもがみ我を恋ふらし面影に見ゆ」の歌を引いて銘した漢作唐物である。大名物『如意宝珠』と同手であるが、全体が痂せており、侘びた佇まいだ。ちなみに『如意宝珠』の別名は『九十九(付喪)』で、これは東山蔵帳の九十九番目の茶入だからである。『如意宝珠』を目にしたことのあった珠光が恋い焦がれて手にした物であった。
「噂に名高い珠光坊の所持した小壺がこれか」
「榎並様は茶の湯に通じて居られるとお聞きしました故、こちらを探させました。ようやく見つけまして、持参いたしました次第にございます」
一つの間違いも許されぬ思いで、道秋が丁重に政長の機嫌をとるのには理由がある。
柳本雲州家は賢治が養子に入った際、少なくない出奔者を出したこともあり、家中に外からの養子への忌避感があると内海隼人正久長・木島右近亮正家ら年寄衆から言われていた。道秋ら一門衆といえども、苗字を与えられただけの擬似的なものであり、結束は必ずしも強くない。これを空中分解させぬためには、忠治を中継ぎとして、賢治遺児の家督が肝腎だった。ゆくゆくは忠治に女が出来次第これと遺児を娶せ、旧家と新家を一つにしなければならない。そのためにも家中一丸となって忠治を推して行かねばならなかった。
「うむ、気に入ったぞ、羽州。家督の件、大船に乗ったつもりで待って居れ」
「守護代殿、よろしいので?」
尹賢が口を挟んだ。道秋としては、ここで尹賢に余計な差し出口をしてはもらいたくない。政長の確約こそ大事だった。
「典厩様は、何かご懸念がございまするか?」
「いや……守護代殿が宜しいのであれば……ありませんね」
尹賢もそう言われては口を濁すしかない。贈り物に機を良くしている政長に尹賢は心中蔑んでいたが、顔色は常のままだ。筋道の正誤より、金品の寡多だけが結論の基準――少なくとも政長はそういう為人である。
政長の後押しもあり、家督継承はすんなりと承認された。元々、忠治は六郎の小姓を務めており、寵愛も厚い。本来であれば家督継承に障碍はなかった。道秋らの心配は政長の横槍である。手の者を養子にと言わせぬ予防線を張ったのだ。
余談ではあるが、これによって、政長の許へ頼み事をするものが後を絶たなくなった。政長は多く財貨を献じる者から躊躇わずに受け取り、堺幕府の判断は右往左往することとなる。
ともあれ柳本家は、忠治に賢治の旧領が安堵され、引き続き洛中の警備と、洛外の取締も担うことが決まった。そして享禄三年九月七日、六郎から下賜された三条坊門第の改築が始まる。十月二日には完成し、洛中支配の拠点となって、三条城と呼ばれた。
十一月四日、京の北東、勝軍地蔵山に一〇、〇〇〇を超す兵がいると噂が立った。ひと月ほど前から、勝軍地蔵山に多くの人が出入りしていると物見から報せはされている。だが、忠治は野盗の類と取り合わずにいた。
「言わんこっちゃない」
「そう言うな、越中。甚次郎様はまだ戦の経験が浅いのだ」
「たからよ。御屋形様の寵臣だからと我らの話を聞かぬのではこの先が思いやられるゾ」
吉久の歯に衣着せぬ物言いに道秋は慌てた。道秋とて分かっては居るが、忠治の胸中も慮れる。忠治は若いが故に侮られたくないのだ。
「さて、どうしたものか」
言いたいだけ言い散らかした吉久が深草城ヘ向かうのを見送った道秋は、逝った柳本源七郎治久と柳本若狭守治頼を思ってひとり佇むしかない。治久の智慧ならば自分よりも巧く立ち回れるであろうし、治頼ならば自分よりも世慣れていた。今更だが道秋は二人の死を悔やんだ。
勝軍地蔵山は元々瓜生山と呼ばれていたが、永正十七年に細川右京大夫高国が捲土重来して陣を敷き、戦勝したことを記念して大永二年に勝軍地蔵を勧誘したことから勝軍地蔵山と呼ばれていた。
陣跡に砦普請したのは細川武蔵入道道永の内衆である内藤彦七郎正繁で、桂川原の戦い以後、城主として兵五〇〇を預けられている。勝軍地蔵山城に増援として送り込まれた六角氏の兵は三〇〇〇余りであった。正繁は手勢に幟を造らせ遠目を誤魔化し、夜に城外へ出た兵を昼間に城内へ入れることで衆目を欺いたのである。このため、柳本の物見も兵数を大きく数え違えた。
内藤正繁は丹波内藤氏の庶流で、守護代を務める本家に対して内衆として在京していた。桂川原の敗戦後も正繁は丹波には戻らず、道永の都落ちに従って近江に入っている。
正繁の祖父は内藤備前守元貞の弟・孫四郎貞徳で、応仁二年三月、但馬と丹波の国境の夜久野ヶ原で一大決戦が行われた際の細川方の総大将であった。この戦いは夜久野合戦と呼ばれ、西軍の太田垣新兵衛宗近・行木山城守近定と、東軍の内藤貞徳、幕臣の疋田長九郎左衛門政連や丹波衆の足立・芦田・夜久氏らが戦って東軍が敗れ、貞徳は討死している。貞徳の跡は彦七郎徳繁が跡を継いだ。本家の備前守貞正が大永五年に亡くなると徳繁は隠居して土佐入道宗則と名乗って丹波へ戻り、正繁が家督している。
「樹上に花を開せよ――とは御屋形様も上手いことを言いなさる」
正繁は知らなかったが、樹上開花――これは兵法三十六計の一つで、少ない兵力を大兵力に見せ掛ける計略だ。これは唐国の戦国時代に燕の大軍に包囲された斉の田単が用いた火牛の計としても知られる。
即墨に立て籠もった田単は兵力に劣ることを補うため、一〇〇〇頭あまりの牛を極彩色に塗装した上で、その尾にたいまつを縛りつけて敵陣に突進させ、派手に仮装した五〇〇〇の兵を牛の後に従わせて夜襲を行い、燕軍三〇万ともいわれる兵を敗走させた――という故事に基づく。
勝軍地蔵山城に多数の幟を見た京の人々は細川道永の復権を望み、堺幕府の敗退を願った。これは、京を実効支配しようとした三好筑前守之長が土一揆を扇動したために極悪人扱いされ、その子・元長も嫌われたまま失脚し、更には柳本賢治が行った強引な洛中支配に対する反撥が原因である。
そうした洛中の空気に助けられ、正繁は軍をいくつにも小分けにして威力偵察を行い、東山辺りまでを勢力圏にしようと画策する。大軍が後ろに控えていると考えた柳本忠治は反撃も消極的であり、東山も道永の影響下に入るのも時間の問題と噂された。
そこで、近江六角氏の増援を受けた正繁は応仁の乱で衰退した東山の法性寺跡地に前哨基地――砦を構えようと、軍を出した。従うのは馬淵山城入道宗鋼、三雲源内左衛門行定らで、ここを橋頭堡に洛中への侵入を果たそうというのである。しかし、そうはいかなかった。柳本忠治が立ちはだかったのである。
忠治は、洛中の噂に堪え切れなくなり、軍を出した。三条城と深草城からの挟撃で、事前の準備も年寄衆との評議もせず、唐突な出陣である。これが結果として功を奏した。深草城はのちの伏見城弾正丸の地に柳本賢治が築いた練兵駐屯地だ。
「なんだと?」
「はっ! 柳本勢が三条城を出ました。深草城からも五〇〇〇の兵が迫っています」
十二月十一日、柳本忠治は、深草城に駐留する全軍を発させ、自らは三条城の三〇〇〇を率いて法性寺砦へと急行した。
普請を始めていた六角軍は、砦を放棄して撤退。殿軍となった正繁は寡兵にも関わらず、伏兵を潜ませて逆撃を行い、柳本勢の追撃を防ぐため、町に火を放った。乾燥した冬の風に煽られて、海蔵院・法性寺八町在家が焼き尽くされ、柳本勢は追撃もままならず、軍を深草城に戻すこととなる。忠治は麾下の諸将に鎮火を命じて三条城に帰還した。
「柳本の小倅奴。要らんことをしやがる」
正繁は、忠治を口汚く罵ったあと、舌打ちして地団駄を踏んだ。これが柳本忠治と内藤正繁の因縁の始まりだった。
そんな中、十二月十九日、近江の幕府が分一徳政令を出した。これは債務額の一定割合(分一銭)を手数料として幕府に納めれば、借金の一部または全部を帳消しにするという法令で、困窮した御家人らを救済しつつ、幕府の財源を確保することを目的としていた。 六角氏に庇護されているとはいえ、幕府には夥しい数の官僚が付き随う。六角氏が穀倉地帯を擁するとはいえ、単独の大名で支えきれる訳もなく、幕府は独自に収入を確保せねばならない。京を離れている以上、京の街から上がっていた税収は入らず、それ故の分一徳政令であった。
これによって、軍資を得た幕府は糧秣などを調達すると、内藤正繁の援軍として奉公衆二〇〇〇と朽木勢五〇〇を送り出す。これにより、正繁は再び法性寺に軍を入れ、柳本勢との間に緊張を高めたまま年明けを迎えた。
そしてさらに、享禄四年正月五日、内藤正繁率いる兵五〇〇〇が鴨川を渡り、感応寺に入った。
感応寺は一条大路の東端、鴨川の西岸にあった。貞観年間、観音像を祀る適地を探していた壱演がこの河崎の地に来ると、大地が揺れ、紫雲が出るなどの感応を得て建立したと謂われる。安置されている木造の聖観音立像は河崎観音の愛称で知られており、本殿は河崎堂とも呼ばれ、寺は一条河崎観音寺と呼ばれていた。洛中東側の要衝で、応仁の乱の最中に幾度となく戦火に遭い寺は荒廃している。そして、感応寺と法性寺は川を挟んで対岸――目と鼻の先であった。
内藤正繁の洛中侵入を知った柳本忠治は全軍を以て感応寺へ急行、内藤正繁を包囲しようと三方から迫った。これにいち早く気付いた正繁は、火を放って感応寺を捨てた。荒廃していた感応寺では兵が籠もったとて支えられないと見切ったのである。この兵火は柳本忠治によって消し止められ、感応寺は全焼を免れることができた。兵を退いた内藤正繁は勝軍地蔵山城までは戻らず、法性寺に立て籠もる。法性寺は既に砦となっていた。
内藤正繁の洛中進軍によって三条城との分断の危機を感じた柳本吉久は、畠山総州家の木沢左京亮長政に援軍を求めた。要請を受けた木沢長政は正月十一日、香西勢と柳本忠治と連絡を取って畠山方の南山城衆三〇〇〇の兵で法性寺砦に攻め掛かり、逃げる内藤正繁を追って東山まで攻め入る。
内藤正繁は東山で陣を立て直すと、攻め込んできた木沢長政を迎撃した。六角勢を後備として自軍を南北に潜ませ横合いから挟撃したのである。予想に反した攻撃を受けて混乱した畠山勢は頽勢となり、木沢長政は追撃を恐れて東山に火を放って撤退。これにより、東山は内藤正繁が完全に掌握した。
月が改まり、二月十日になると、内藤正繁の軍勢が禁裏周辺に出没し、柳本忠治の軍勢と小競り合いをするようになる。そして丹波に戻っていた内藤弾正忠国貞が八木城から口丹波を避けて洛北の神護寺へと進出した。
そして、二月十七日、近江興聖寺に逃れていた足利義晴が坂本に遷座し、幕府軍を組織。細川道永の描いた戦略通りに物事は進んでいた。
その頃、三好元長は書状を前に悩んでいた。元長は撫養城内に廓を与えられている。これは、細川讃州家の筆頭家老として詰めていることが多いからだが、当主・氏之の信任が厚いこともあった。氏之は元長が失脚して阿波へ戻ってもそれまでと全く変わらず敬い、信頼を寄せてくれていた。幾度となく、細川京兆家の座を氏之にした方が良かったのではないかという考えが頭を過ぎる。
そして、この書状である。
――戦況芳シク無シ。疾ク堺ヘ戻レ。
六郎直筆の書状は珍しい。右筆に書かせて花押を書くだけの書状がほとんどであった。十日おきに出仕を促す書状が届いていた。そして、到頭六郎直筆の書状である。
「どうするかの」
三好蔵人之秀が、開かれた書状を前に腕を組み、黙ったままの元長に発言を促す。それでも元長は声を発さなかった。氏之からは「筑前の好きにしてよい」との言を賜っている。
「皆の意見を聞こう」
集まった諸将をぐるりと見渡すと、誰もが首を振った。それは否定の意味ではない。意見がないとということであった。
「殿、皆の気持ちはすでに一つよ。筑前様が行くと言えば行く。これは見性寺殿の仇討ち故な」
禿頭となった篠原大和守長政がぺしりと頭を叩いて、諸将を代表して言を発する。皆、元長の無念を理解していた。父の仇である細川道永との和睦とて、胸の内の復讐の念を六郎の為に圧し殺して進めたというに、三好政長や柳本賢治らの讒言によって失脚させられた理不尽は諸将としては見過ごせるものではない。そもそも、六郎の堺幕府の立役者は元長と阿波衆であるという自負もある。元長が堪えているからこそ、何も言わなかった。
篠原長政は元長が阿波に戻ると家督を嫡子・右京進長朝に譲って入道して宗半を名乗り、三好元長の客将となっていた。長朝は細川讃州家の家臣で、三好元長の寄騎のままである。宗半としても、戦友であった之長の弔い合戦をするのであれば、元長の槍となって戦いたいと考えていた。
元長は宗半の言葉に涙ぐんだ。
「皆の衆、父の墓前に武蔵入道が首を供えさせてもらいたい」
元長が諸将に頭を下げる。脇に控えていた三好之秀が元長を抱え起こそうとした。老齢の之秀が巨躯の元長も起こせる筈もなく、元長は頭を垂れつづけた。
「頭をお上げくだされ、孫次郎様」
「その通り。殿が頭を下げることは御座らん」
篠原長朝が笑顔で声を掛け、宗半が元長の前に進み出た。元長の手を取り、頭を上げさせる。
「殿の気持ちは皆に通じております。我らとて同じ思いよ、のう」
宗半が諸将を振り返る。海部下野守之親が大きく首肯いた。海部之親は持親に元長の娘を迎えることを約した三好の姻戚である。
「その通りですぞ。海部党も挙って協力いたしましょう」
海部氏は藤原姓、海部郡司の末裔で、阿波南部にある宍咋荘の海部村が本貫地だ。領家は京都長講堂領庄園であったが、平安末期には紀伊高野山蓮花乗院に寄進された。宍咋庄は木材が主産物で、切り出した木材は宍咋湊から都に積み出し、阿波南部に勢力を築いた海部氏はこの水運によって隆盛していく。はじめは木材の積出湊として栄えた宍咋に拠点をおいていたが、永正年間に海部之親が吉野城を築き、海部川下流一円の農業地帯を支配するようになった。
また、海部氏は鎌倉より刀鍛冶を奨励し、その地で産する刀は海部刀と呼ばれて遠く東南アジアまで輸出されている。海部刀は「片切刃造り」と「のこぎり刃造り」が特徴で、海部川流域で発生した刀工・氏吉氏の名は近隣に聞こえていた。
阿波国は元々、粟国と長国という二つの国であったが、律令制が整えられた際に阿波国として成立した。粟国の名は神武天皇が東征の際、忌部氏の祖・天富命が阿波に移り住み、粟や麻などを植え、粟がたくさん穫れたことに因む。
郡は北東から
板野郡(徳島県板野郡)
阿波郡(阿波市・吉野川市の一部)
美馬郡(美馬市)
三好郡(三好市)
麻殖郡(吉野川市・美馬市の一部)
名方郡(名西郡・名東郡)
勝浦郡(勝浦郡)
那賀郡(阿南市・那賀郡)
海部郡(海部郡)
の九郡四十五郷、国力等級は上国、距離等級は中国、後の太閤検地では十八万六〇〇〇石とされ、四国では一番の大国である。那賀郡は元々海部郡を含む地域で長国造の支配地域であったが、そのまま那賀郡となっていた。平安末期には那東郡・那西郡・海部郡に分立、名方郡も名東郡・名西郡に分立していたが、どちらも新たに郡衙が設けられた様子はない。
また、阿波随一の在地領主は三好氏で、その本拠三好郡芝生。芝生城は四国のほぼ中央に位置する三好郡の中でも東寄りにあり、三好式部少輔長行が細川讃岐守成之に仕えて、美馬郡・板野郡の徴税や検断を委ねられて支配した。阿波北部三郡を掌握した三好氏は、その兵の精強振りで知られ、細川讃州家の家宰を代々務めている。
「和入殿、野州殿、忝ない。では、武蔵入道が首級挙げに参ろうっ」
「応っ!」
三好元長はそのまま細川氏之に謁見。渡堺の許可を貰い、麾下一万五〇〇〇の兵を率いて出航し、二月廿一日、堺に入った。
その翌日、二月廿二日。木沢長政は麾下の兵・三〇〇〇を率いて内藤正繁の籠もる法性寺を猛烈に攻めた。これは三好政長より元長が復帰要請を受諾した報を先んじて受け、戦功を焦ったからである。兵火により神護寺・法性寺など焼亡。失火によって河崎観音堂は焼け落ちた。
そして二月末に伊丹城が開城。これにより、東摂に細川道永が楔を打ち込んだ形となり、戦局は堺方が劣勢に追い込まれた。
■副題解説■
声東撃西
東に声して西を撃つ
三十六計の一。所謂陽動作戦のこと。




