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数寄の長者〜竹馬之友篇〜  作者: 月桑庵曲斎
第三章 干戈騒乱
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第廿五服 借刀殺人

三好元長が失脚し阿波に帰ったため、庇護者を失った細川尹賢は、柳本賢治による伊丹元扶の粛清に戦慄する。一方、失脚したかにみえた細川高国は諸国を巡り、反攻の手掛かりを探していた。

(とう)()りて(ひと)(あや)


剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)の利きに足踏みて

死なば死なむよ君によりては

  『万葉集』巻十一-二四九八 詠人不知


 伊丹大和(やまと)(のかみ)(もと)(すけ)の死は細川()()(のかみ)(ただ)(かた)に戦慄を与えた。特別仲が良かったとか、そういうことはでない。ただ、伊丹氏は元々(けい)(ちょう)()()の国人であり、同じ転向組でもあり、更には三好(ちく)(ぜん)(もと)(なが)の同僚与力として境遇が似ていた。だからこそ、次は自分ではないか――という強迫観念に襲われたのである。


 それ故、(やく)()()三郎左衛門(のじょう)(くに)(もり)(だい)(もつ)城に赴いた。返還された堀城では堺に近すぎるためだ。薬師寺国盛とて本心を言えば六郎に仕えたい訳ではないと踏んで、協力を仰いだのである。同じ降将という境遇に同情したのか、国盛は大物城の西廓の一つを提供した。国盛も伊丹元扶の討死には嫌な流れを感じているように見える。


 国盛とも相談し、このままでは柳本(だん)(じょう)(のじょう)(かた)(はる)にいつ寝首を掻かれるか知れたものではない故、(てん)(じく)(えち)()(くに)(かつ)に命じて(うか)()衆を柳本賢治の監視へ回したのである。


「やはり、神尾山(柳本賢治)殿は軍勢を(つの)っていますね」


 伺見衆からの報告に目を通していた天竺国勝が嘆息とともに言葉を洩らした。それでも手は止まることなく、(せわ)しなく動いている。

 

「私でもそうする。阿波衆の抜けた穴は大きい」

「確かに。二万近い兵が居なくなるのでは先行きが見えなくなりました」


 国勝が淡々とした声を投げる。それはまるで尹賢の心の声を代弁するかのようであった。こんなことになるのであれば御屋形(細川道永)様の許を離れるのではなかった――と後悔しても役には立たぬ。それよりも柳本賢治が次の手をどう打ってくるかが気掛かりだった。


 元々、尹賢は柳本賢治と思考が似ている――というより、その考え方は尹賢が教えたものであり、賢治は弟子であった。合戦のいろはから、謀略の手引きまで、教えていない事はない。


――いや、忍び働きは(もの)()ぐらいしか教えなかった。


 物見とは偵察のことであるが、忍びの物見は単なる(せっ)(こう)ではなく、軍勢を進行経路を発見することや兵力を数え練度を見抜くこと、最も大切なのが将が誰で何処にいるかを見分けるなどの情報収集である。これらは賢治に戦陣を任せるにあたり、入念に仕込んでいた。だが、内偵や防諜といった忍び働きについては任せたことはない。


 この辺りの裏仕事は細川京兆家の中では(てん)(きゅう)家だけが担う特殊な働きであった。それ故に典厩家の当主は、細川(そう)(りょう)の右腕ともいうべき地位であり、養子が嗣ぐことが多い。それにも関わらず、先代の政賢は自身の子に継がせたいが為に澄元を選んだのだ。そのことが、堺京兆家が戦に強くても、相手を滅ぼせない一因といえる。


「それと、気になる動きが御座います」


 国勝が視線を落としたまま告げる。いくつかの紙片を手にして、食い入るように読んだままだった。先程から国勝と尹賢の前には大量の紙片が所狭しと山積みになっている。これらはすべて伺見衆からの報せであった。読み終えた紙片から幾つか取り出し、尹賢の前に並べる。


「何かあったのか?」

「御屋か……いえ、武蔵入道(細川道永)が伊勢から離れました。(ゆく)(かた)不明(あきらかならず)とのこと」


 しまった――と、辛うじて声に出さなかったが、表情には出た。これは伺見衆を柳本賢治に寄せたがために、細川武蔵(むさし)入道(どう)(えい)の動向を掴みきれなくなったということで、伺見衆の失態ではない。明らかに尹賢の失策だった。道永の行き先はこれからを左右する最大の関心事であるというのに、その動きが分からないのでは対策の立てようもない。


 道永が頼った(むすめ)婿(むこ)の北畠左近衛中将(はる)(とも)()()()()氏ら()()七党――志摩水軍を従えていたが、伊勢から海路では熊野水軍の支配圏を通らねばならず、北畠氏は畠山尾州家と対立していないとはいえ、熊野灘には近づけない。となれば陸路となるが、伊勢路は北勢の雄・(なが)()尾張(おわり)(のすけ)(みち)(ふじ)が抑えており、(ふさ)がれていた。


 (いささ)か難路ではるが、伊賀越えならば伊賀守護職・()()四郎(ぎょう)()大輔(のたいゆう)(たか)(なが)表兄(母方のいとこ)である道永と(こん)()であり、通過は容易(たやす)い。近江(おうみ)は六角の支配下であり、現在の(ごう)(ほく)は朝倉氏と六角氏の影響下にあるので大きな問題はないだろうが、どちらかというと(ごう)西(せい)の方が通りやすい。江西からならば、武田伊豆守(もと)(みつ)の居る(わか)()が近い。そこからは普通ならば(たん)()から(たん)()だが、直接丹波へと通じる方が武田の勢力圏であり、()()(ざか)(とうげ)を越えた丹波は細川野州家の勢力圏であった。丹後は一色氏が衰退して不穏であり、但馬(たじま)の山名右衛門(のかみ)(のぶ)(とよ)は道永と親しいが(あま)()氏との抗争で身動きが取れない。その先は――と考えたところで閃いた。


播磨(はりま)(うら)(がみ)か」


 播磨には赤松氏がいたが、惣領家断絶の跡を嗣いだ赤松(ひょう)()少輔(のしょうゆう)(よし)(むら)入道(しょう)(いん)が、足利亀王丸を奉じて挙兵したものの敗れて暗殺され、浦上掃部(かもん)(のすけ)(むら)(むね)によってその実権を奪われていた。赤松家には()(でら)加賀守(のり)(もと)や、(べっ)(しょ)(おお)(くら)大輔(のたいゆう)(なり)(はる)が居たが、義村擁立以後の浦上村宗による専横は抑え難く、浦上氏の権勢は()(ぜん)美作(みまさか)から播磨まで拡がり、下剋上が成立している。それに伴い小寺氏も別所氏も独立した戦国大名化していた。


 播磨国は山陽道の入口で、(おお)()()(とまり)(よう)し、瀬戸内航路の出発地である。室町当時は(ひょう)()(のつ)と改められた(みなと)は、大内氏に下げ渡され、日明貿易のもう一つの拠点であった。古くは()()(のくに)に対する前線地点で、明石・(はり)()(のかも)・針間の国造(くにつくりのみやつこ)が置かれている。佐伯(さえき)(のあたい)の勢力が強くなると播磨として一国となった。


 国内の郡は


 明石郡 明石市・神戸市西部

 美嚢(みなき)郡 三木市・神戸市北区淡河町

 加古郡 加古川市(南東部)・加古郡

 印南(いなみ)郡 加古川市(北西部)・高砂市

 賀茂郡 小野市・加東市・加西市

 多可郡 西脇市・多可郡多可町

 飾磨(しかま)郡 姫路市

 神崎郡 神崎郡・姫路市の一部・朝来市

 揖保(いいぼ)郡 姫路市西部・たつの市・揖保郡

 宍粟(しさわ)郡 宍粟市

 ()(よう)郡 佐用郡佐用町

 赤穂(あこう)郡 赤穂市・相生市・上郡町


 の十二郡九八郷を数える大国で、畿内に接する近国である。太閤検地によれば、三五万八五三四石で、(えち)()(えっ)(ちゅう)に次ぐ石高であり(せっ)()よりやや多かった。国府は飾磨郡に置かれ(こく)()は現在の姫路城に隣接する総社――()(たて)(ひょう)()神社の近くにある。守護所は応仁の乱以後、復帰した赤松氏の居城(おき)(しお)城に置かれた。


 摂津との国境は(さかい)川で、備前との国境は(ふな)(さか)(やま)であった。但馬との国境を越えると(いく)()銀山がある。(ほう)()との国境は三国山が近いが三国山は因幡(いなば)・伯耆・美作の国境であり、播磨からはやや西にずれていた。美作との国境には()()(くら)山があり、(すぎ)(さか)(とうげ)によって播磨と結ばれている。


 播磨に赤松氏が入部したのは鎌倉時代で、(とく)(そう)家と縁続きになり、()()播磨守(のり)(かげ)の子・播磨(ごん)(いえ)(のり)が佐用郡赤松村に地頭代として土着したことに始まる。その後、元弘・建武の争乱にあたり、(もり)(よし)親王の(りょう)()を受けた赤松次郎(のり)(むら)入道(えん)(しん)がこれに応じ、後醍醐帝方として大活躍した。その報奨に円心は播磨守護職を望んだ。建武の新政によって一度は守護に任じられたものの、新田左馬助(よし)(さだ)が播磨国司となり、守護職は廃されてしまう。結果として、恩賞は円心の戦功に対して佐用庄のみを(あん)()するだけとなった。


 恩賞に不満を持った円心は、足利尊氏が中先代の乱鎮圧のために関東へ向かうと、これに従軍し、そのまま足利方となった。尊氏が叛旗を翻してもこれに従い、(わず)か二〇〇〇の兵で新田義貞率いる大軍を二ヶ月に及んで足止めすると、尊氏は大いに称えて播磨守護職を与えている。以後、赤松氏は播磨守護を継承していたが、()(きつ)の乱で赤松大膳大夫満祐が足利義教を弑逆し、幕府軍に滅ぼされ没落。赤松兵部少輔(のり)(むら)が後南朝より(しん)()を奪還した(ちょう)(ろく)の変による功績で赤松家を再興し、応仁の乱でも東軍として活躍、播磨に次いで備前・美作を回復した。その後、両国で内紛が続き、浦上則宗を在京させて自身が在国して鎮圧し、大名親政の体制を築く。その後、細川()(きょう)大夫(のだいぶ)政元の姉を娶った二日後に起きた明応の政変で、政元を支持した政則は(じゅ)(さん)()に上ったが、僅か二ヶ月後に病で歿した。浦上村宗は、同僚である別所氏や小寺氏重臣らに図り庶子の(まつ)丸――のちの下野(しもつけ)(むら)(ひで)ではなく、政則(てき)(じょ)・小めし殿に庶流在京家の七条殿・蔵人(くらんど)大輔(まさ)(すけ)の子・萩丸を(めあわ)せて道祖(さえ)(まつ)丸と改め家督させ(かい)(らい)とした。


「流石に赤松を頼る気にはならなかった様です」

「それはそうだろう。あれは御飾りに過ぎぬからな。とはいえ洞松院(細川政元の姉)様がおられる」


 実のところ、尹賢の想像は当っていた。


 少し時を遡る――享禄元年(西暦1528年)五月、道永は越前を訪れていた。


 霉雨(つゆ)の晴れ間を縫って一乗谷城に着いた道永は、朝倉弾正左衛門尉(たか)(かげ)に面会を申し込むも、病を理由に断られた。幾日経てど面会は叶わず、焦った道永は(つる)()(ぐん)()の朝倉(きん)()入道(そう)(てき)に仲介を頼む。しかし、前年の仲違いが尾を引いており、断られてしまった。そこで、道永は東山御物から持ち出していた三日月(ぶん)(りん)を宗滴に贈ることで(ほん)()に成功する。だが、孝景に会えたものの、派兵の件は渋い顔で断った。説得を続ける道永であったが、孝景の考えは変わらず、失意のまま伊勢に帰る。


 戻った道永は、今年三月、近江の六角弾正大弼(のだいひつ)(さだ)(より)と会談し、そのまま若狭に向った。(のち)()(やま)城の武田元光は丹後への出兵を約し、道永は但馬、四月には出雲(いずも)へと渡る。そして五月(6月)八日(13日)、備前(みつ)(いし)城に姿を顕した。本丸の御殿に通された道永は、奥の座で浦上村宗と対面した。


「流石は三国の太守、尚舎(掃部助)殿ですな」

「冗長な挨拶は抜きにしてくだされよ、武蔵入道(細川道永)殿。単刀直入に申し上げる。如何なる御用でござるか」

「宜しい。しからば、手短にいたそう。貴殿に兵を挙げていただきたい」


 浦上村宗は首を傾げる。道永がいう兵を挙げるというのは、道永に加勢せよということだ。が、道永は近江から京へ足利義晴を奉じて動こうとしているのではなかったか。西播を治める村宗が摂津に兵を出すには、中播の()(ちゃく)城・小寺氏と東播の三木城・別所氏が立ちはだかっており、合力は出来ない。二方面作戦としても連動に難があり、成功の見込みは薄かった。


「某に何の利が?」

「備前・美作・播磨三国の守護職……では如何か」


 村宗は腕組みをして考え込み始めた。浦上氏の本拠は備前である。備前・美作は現状ほぼ手中に収まっているが、名目上は赤松氏が守護であった。また、播磨には別所・小寺氏以外にも国人が多く後藤氏・(かす)()氏・()(づみ)氏・明石氏・(たん)(かわ)氏・(あり)()氏・(より)(ふじ)氏らが割拠し、統一に()()()っている。これらを機に一気に片を付けることが出来れば――という気持ちが芽生えた。


武蔵入道(細川道永)殿が播磨統一を(たす)けてくださる、と?」

「如何にも。我にお味方くだされば公方様の御墨付があるも同然故」


 道永は懐から書状を取り出して、村宗に渡す。そこには端正な字が並び、道永に助力するよう書かれていた。正真正銘、義晴親筆の()(ない)(じょ)である。


「公方様が浦上を認めてくださると」

「左様。先ずは外様衆として取り立てると申されておられる」


 村宗は駆け引きが得意ではあるのは、元々(ばく)(えき)を好むからで、機を見るに(びん)であったからだ。ここまでのお膳立てをされて、何を躊躇(ためら)うことがあろうか――と、声を発そうとした時。


「兄上、いけませぬ」


 傍に控えていた浦上近江守(くに)(ひで)が口を開いた。国秀は村宗の弟であり、惣領家を継承した村宗に対し、分家の江州家を嗣いでおり、一門の筆頭にして浦上の副将である。その国秀が(かぶり)を振った。


「何故じゃ?」

「話が旨すぎる。置塩(赤松政村)殿や尼子についた豊後(松田元隆)()が出て来ぬとも限らぬ。それに……」


 要は空念仏ではないかと疑っているのだろうと道永は思った。だが、国秀の懸念は備前と中播磨にある。


 備前西部には松田氏が(かな)(がわ)城を中心に君臨していた。松田氏とは対立関係にあり、軍を東に向ければ後背を突かれる可能性がある。そこをどうにかできねば、軍など動かせる(はず)もなかった。現当主・松田(ぶん)()(もと)(たか)大永二年(西暦1522年)、足利義晴に京へ招かれ、所司代をつとめ、かたわら妙覚寺の別当職に就いている引付衆である。加えて松田氏は尼子氏の支援を受けており、尼子氏自身も美作への出兵を繰り返していた。


 更に西播磨を治める浦上氏が摂津に征くには中播を通らねばならぬ。置塩城の赤松兵部少輔政村、御着城の小寺加賀守政隆が行く手を阻むんでいた。


「御舎弟の懸念は尤もよ。されど、金川(松田元隆)殿も置塩(赤松政村)殿もこちらの味方である。洞松院尼(めし)様は我が義伯母ぞ?」


 松田元隆に対しては義晴からの御内書を上野一雲(細川元治)が既に届けていた。それに将軍の威光は畿内から離れれば離れるほど強い上、松田氏は将軍家の直臣でもある。


 また、(とう)(しょう)(いん)()とは細川武蔵守勝元の(むすめ)で、赤松政則の後室となり、幼年の義村の後見をした実質的な赤松氏の当主であった。この洞松院尼と道永は同盟して義村を擁立したが、義村が洞松院尼を排除しようとしたため、洞松院尼は浦上村宗と結んで義村を隠居させた上、村宗が自害させたのを黙認している。現在も実質的な当主は洞松院尼だ。


「管領殿、されど昨年より尼子の兵が国境を越えて美作を攻めております」

「ふむ……そうか。そういうことであれば、予州(尼子経久)殿には我が(じか)()うて話をつけよう」


 尼子伊予守経久の出雲守護を認めたのは道永である。大内氏や山名氏の牽制にも尼子氏との連携は崩していないかった。国秀もそれならばと口を噤む。そんな弟の様子に村宗は松田元隆に軍勢を出させることを道永に約束させた。


豊後(松田元隆)殿が兵を出すなら、兵部(赤松政村)殿にも兵を出していただきましょう」

「容易きことにて、これにて後背の憂いはござらぬな? では、安心して播磨を平らげてくだされ」

 

 浦上村宗は、家中に挙兵の意を伝えることにした。目指すは播磨豊地(といち)城である。ここは依藤氏が本拠とする城で、(ひがし)(じょう)城や豊地城を拠点とし、別所氏と争っていた。早速、村宗は当主の依藤太郎左衛門(むら)(ただ)・弥三郎(むね)(ただ)に使者を送る。


「依藤の()(せがれ)には東播磨の守護代でもくれてやれば好いことよ」

「こないだ元服したばかりの小童に、ですか?」


 国秀が思わず口を挟んだ。不快な顔もせず、はっきりと頷く道永。ニタリと(ほく)()()んだ村宗が道永の真意を言い当てる。


「さすれば、筑前(三好元長)不在の今、あの裏切者(柳本賢治)奴が出てきましょうな」

「これをどう始末するかが、肝要よ」

「なるほど――それには妙案がございます」


 国秀が村宗に耳打ちする。胡乱な眼をして道永がパチリと扇の音を立てた。村宗は大きく何度も首肯き、最後にニヤリと嗤う。


管領(細川道永)殿、我が家臣に中村助三郎という者が居りましてな。この者に任せてみたいと思うのですが」


 顎で国秀に道永にも話をするよう指図した。一瞬、傍に居た細川玄蕃(げんば)(のかみ)(くに)(よし)が刀に手を掛けたが、道永が目配せして控えさせる。国秀はお耳を拝借と村宗に話した通りのことを説明した。


「成程、妙案、妙計」


 満足気に首肯くと、道永はお任せ致す――と一言返した。蚊帳の外にされた国慶は怪訝に思いはしたが上機嫌の道永を見て、得心した振りをする。ここで詮索顔などすれば村宗の心証を悪くする恐れもあった。


 

 翌日、道永は置塩城へ向かった道永は、赤松政村と浦上村宗の和議を取りまとめ、備前金川城へと向った。松田元隆の下に滞在していた一雲と合流し、状況を把握するや否や起請文を取り交わして松田元隆の合力を取り付け、一路出雲へと向かう。距離にして十日ほどの道程だ。


 出雲国月山富田城が尼子氏の居城で、此処は難攻不落の城として有名であった。尼子氏は元々京極氏の出雲守護代家で、この時代には珍しく在国守護代である。これは出雲が京極氏にとって飛び地であったことに由来していた。そのため、国人や寺社勢力の地盤が強固で、守護家との関係が希薄であり、尼子氏が守護となってからも、組織化に苦労があった。この辺りの構造はのちの甲斐武田氏に似ている。つまり、国人の意識を外に向けることで統治する国人盟主が尼子氏であった。


管領(細川道永)殿の()()(こう)は承った。この伊予守経久、公方様の(おん)(ため)とあらば、美作への出兵、せぬと誓いましょう」


 尼子経久という人物は無欲で知られる。故にか道永の申し入れに一も二もなく承諾を返した。これには道永も肩透かしを喰らった気分である。しかし、経久は謀将としても名高かった。それ故、尼子氏も下剋上の一人として数えられることもあるが、経久は京極氏を超剋しようとしたことはない。京極政経が存命ならば、吉童子丸が夭折していなければ、彼らを支え続けていたことに疑いない。後嗣が絶えたが故に国主となっただけなのだ。


(かたじけ)ない。公方様もお歓びになられるであろう」

「公方様の臣下なれば、当然の御奉公かと。されど、家来衆には報いてやりたく存じます」


 とはいえ、国人らが自身と同じではないことも知っていた。それ故に、拡大路線を辞めることはできずに居る。経久も京極氏に仕えている間は、そのように考えず、戦働きに専念できていた。


 国主となってからは、石見に進出、安芸も傘下に収め、備後、備中と戦を重ねている。しかし、大永四年(西暦1524年)に安芸武田氏・友田氏が大内氏に敗れると、翌大永五年(西暦1525年)に毛利氏が離反。尼子氏に傾いていた安芸の情勢が大内方に塗り替えられてしまった。更には伯耆・備後守護の山名氏が反尼子氏の旗幟を鮮明にすると、大内・山名に包囲網を敷かれ、苦しい情勢となってしまう。


 大永六年(西暦1526年)、備後国守護の山名誠豊の下知によって多賀山伯耆守(みち)(つぐ)が離反した。享禄元年(西暦1528年)九月(9月)九日(22日)、経久は(しとみ)(やま)城を包囲する。通続らはよく防戦したが、享禄二年(西暦1529年)|七月|《8月》廿三日《26日》、いよいよ落城間近となった。通続らは包囲を突破しようとしたため、討ち取る機会と尼子軍は殺到したが、にわかに大風雨となり、それに乗じて囲みを突破されてしまう。だが、経久は激しく追撃し、そのほとんどを討ち取ったものの通続は逃亡した。


 その戦の最中の十二月(1月)廿一日(20日)、毛利()()少輔(もと)(なり)が尼子方となっていた高橋伊予守(しげ)(みつ)の安芸松尾城を攻め、翌年五月(5月)二日(28日)に落城させている。攻め手は毛利元就、()()伊豆守(とよ)(さと)(ひろ)(なか)三河守(たか)(かね)で、重光は討死した。当主の高橋治部少輔(おき)(みつ)は備後()(よし)氏を攻略するため出陣、(いり)(ぎみ)城を落して凱旋したが、大叔父・弾正盛光はその途中を待ち伏せ、興光の軍が軍原にさしかかったところを不意討ちし、興光を討ち取る。盛光は、その首をもって(いけ)()に陣していた元就のところに出頭したが、元就は盛光を不義者とののしり、その首をはねて討ち取ってしまった。元就の謀略によって、石見高橋氏は絶えた。


 このような情勢の中、道永からの協力要請は経久にとって正統性の確保でもあり、この和睦によって美作方面の防衛を考えずに済むことになった。


――これで一息つける。


 それが経久の本音であった。山名誠豊は細川道永と結んでおり、但馬・備後方面との戦は熄む。だが、経久はさらなる波瀾に巻き込まれるが、それはまた別の物語だ。


「公方様が京に戻られた暁には石見の守護職に()(にん)するということでは如何か」

「有難き幸せ」


 石見守護職は大内氏が累代受け継いでいるものであり、現在は大内周防介義隆が就いていた。尼子経久にとって、これを奪取できることは石見侵攻の正統性を担保でき、今まで以上に国人らを(なび)かせることができる。それを理解した上での道永の図らいであった。


「だが、さしあたっては予州(尼子経久)殿に兵を出してもらわずともよい。大内を惹きつけていただければ」

「それしきのことであればお安い御用ですが、本当にそれだけでよろしいので?」


 道永は大きく首肯(うなず)いた。浦上氏と松田氏の兵で播磨を取れば、三好元長の抜けた軍勢を恐れることはない。浦上村宗の策が当たれば、柳本賢治も除くことが出来るはずだ。借りは少ない方が良い。


 経久が膳を運ばせ盃を取る。


管領(細川道永)殿の勝利を願いまする」

「互いに()き先()きを(こと)()ぎましょうぞ」


 道永は(ぎん)(ばり)土器(かわらけ)に注がれる濁酒に京の柳酒を懐かしく思った。

 

やっと書き終わりました。

播磨から備前、美作まで範囲を広げて調べたのですが、この時期のことはほとんど分かりませんでした。


しかし、享禄二年五月に浦上村宗と会っていること、享禄三年の挙兵では備前松田氏が参陣していること、赤松氏が裏切る=参陣していることを鑑みて、播磨・備前そして出雲の尼子氏に面会していただろうという風に解釈しました。高国は享禄二年十一月には一度伊勢に戻ります。


柳本賢治と細川尹賢、細川高国。

三人の思惑がどう繋がるのか、次話をお愉しみに!

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