第四十四話:面倒な施設
俺はカーソン郊外に買った、だだっ広いだけで寒々しい家のリビングで一人佇んでいた。
生活環境に目立った不便はない。何か不便があれば東京にひとっ飛びすればいいだけだ。
だが、ひとっ飛びばかりしているとそのうちタガが外れておかしなことになりかねない。それは困る。
「東京に依存しない生活環境をここに作らないとな……」
そう思ったきっかけはクレジットカード会社からのメールだった。
「お客様が普段使わない場所でのクレジットカードの利用履歴が見つかりました」
というメールが届いて考え直すところがあったのだ。
確かに最近カードをあちこちで使っていたからそういうお知らせが来ても不思議ではない。だが入出国履歴に矛盾するような経済活動は厳に慎まないと、面倒な事態を招きかねない。その懸念に一番ひっかかるのが気軽なテレポートというわけだ。
なので、俺はこちらにも東京同様の生活空間を設け、日用雑貨などについてはカーソンの街か通販で買うようにした。毎日たくさんの荷物が通販サイトから届いていて、これはこれで楽しい。
車も買った。中古のスバルだ。雪道と荒れ道ならやはりスバルだと俺は思っている。
吹きすさぶ風が窓枠を揺らす中、俺はリビングでずっと続けていた生物の勉強の手を止めて、天井を見上げた。
「そろそろ『あいつ』が現れてくれないものかな……。そうでないと本当に困るんだが」
「あいつ」はここのところ姿を見せない。最後に姿を見せてからもう一年以上が経過している。それだけ俺が順調に人を減らしているということなのか、それとも他の雑事で忙しいのか。
「あいつ」の雑事がどんなものか俺には想像もつかないが。
ただ、今は俺が「あいつ」に用があるのだ。ネオイリアで俺がやろうとしているレグエディットによるゲノム編集作業には一つ問題がある。それは、レグエディットで一番初めに必要な、特定のオブジェクトをターゲットする工程が俺の視覚に強く依存しているということだ。
当たり前だが俺の視覚はDNA一つを裸眼で同定できるほど良くはない。試料のレジストリをまるっと取得して、そこから検索してしまえばなんとかなるのだが、これには物凄い手間が必要なのだ。
各種機器を用いてモニターに映し出されたDNA画像というのもあるにはあるが、それを見てもレジストリを取得できなかった。やってみてわかったが、そのレジストリは液晶モニタのレジストリだったのだ……。
「研究所の設備を使ってレグエディット無しでDNAをいじるか、何時間もかけてレジストリとにらめっこするか、いずれにしてもこりゃ大変だ……。ベントラベントラ……は宇宙人か」
何やら頭の中で強く念じてみたりもしたが、そんなことで「あいつ」を呼び出す事が出来る筈もない。うん、知ってる。
俺はレグエディットに頼り切りな自分を自覚し、ふと情けなくなった。そういえばレグエディットに頼らない人口削減策「風呂と用水路」……あのNGO達はどうなっただろうか。何か連絡が来ていた気もするが……。
ソファに腰掛けスマホをいじりながらエージェントからのメールを読む。連なるメールの中にはいくつか、寄付をしたNGOからであろう写真付きの報告書も転送されて来ていた。
どれも「各国に行って順調に用水路を敷設しています」という内容だ。笑顔で現地の人達と撮った写真がいかにも誇らしげで良いじゃないか。昔のTVの特番みたいだ。
いいかお前ら、その用水路に絶対にフタをするんじゃないぞ? と心でつぶやきながら次のメールを読むとこれがまた残念なお知らせ。3団体ほどでメンバーによる寄付金持ち逃げが発生したという報告だった。国籍、人種、生まれや学歴にかかわらず、手の届くところに現金があると理性を失う連中はどこにでもいるものだな。
まあ、俺のやっていることはそれ以下かもしれんが……。
◆◆◆◆◆
クリスマスを前に、ネオイリアは研究開発を劇的に加速していた。資金が足りずに満足な試薬や試料を使えなかった時期からは考えられないほどだ。
俺の投入した資金が研究に回され始めたおかげで足りなかったものが次々と研究開発の現場に導入されているのだろう。
「ほーら、サンタさんがトランスフェクション試薬をプレゼントしてくれたわよ!」
荷物が届いて箱を開けるたびにこんなことを皆に言って場を和ませているのはアビゲイルさんだ。彼氏とヨリを戻せたらしいが、ご機嫌で何より。
クロエは新しいゲノム編集方式と、それに伴って発生する機材の発注、納入された部材の性能チェックとツールのトレーニングに忙しい。特に日本からの試薬やキットが今までのものと性能も使い勝手も全く違うらしく、キャッチアップが大変なのだとか。
一旦業界的に今後のデファクト・スタンダードが決まった時の、日本の製薬会社や大学の腹の決め方は凄まじい。方法、ツール、試薬、キットの魔改造が尋常ではないレベルで起こっていくのだ。
CRISPR/Cas9を用いた場合によく知られていたオフターゲット確率の欠点など、もうどこ吹く風のような試薬が日進月歩でリリースされている。カネに困らなくなったネオイリアはこれらの導入を躊躇せずにガンガン使って今までの遅れを取り戻しつつあった。
ツールのトレーニングや性能チェック以外に、クロエの研究も調子づいているようだ。DNAを一気に2本切るより1本だけ切ってしまうようなSINGD法とかいうやり方も今度試すらしい。プラスミドを使うSNGD法と2本切るがCas9蛋白を使うやり方でオフターゲットの発生確率比較をするとか張り切っていたが、俺には正直良くわからん。なんか聞いていると凄いらしいことだけは解るのだが。
最近では研究資材の低廉化も進み、今までの苦労は何だったのという価格でネオイリアの研究所に試薬が調達・納品されている。
聞くところによると、今まで旧式の試薬を使い続けていたのはどうもアメリアさんの買い物下手が原因らしい。ゲノム編集の勃興期にまだ高価だった試薬やキットを彼女が大量に買ってしまい、その支払いと保管のための費用が財政を圧迫していたようだ。
これらの試薬やキットも使って使えないものではなかったが、関連企業がしのぎを削り、効果も効率も日進月歩のものに比べるとやはり隔世の感は否めない。
研究現場はこのアメリアさんの調達ミスのためにえらく割りを食っていたのである。
ツールや試薬の古さを指摘したのはサンフランシスコで新たに雇ったスタッフ達だった。それが今回の研究開発環境の改善に繋がったそうだ。
本来なら責任者の首の一つも飛びそうなものだが、クロエが強固にアメリアさんの判断を擁護したため、誰もアメリアさんの責任を問えなかったのだとアビゲイルさんがコッソリ俺に教えてくれた。
「いつでもベストな環境が用意されているわけではない。そこでも研究者はアウトプットを出し続けなくてはいけない」
というクロエの骨太方針を受け入れられなかった連中が辞めていき、なんとか残っていた連中がようやく第一線級の環境を用意されたというわけだ。
しかし、会社が潰れるかどうかの瀬戸際になるまで自分達が使っている試薬が世代遅れだって知らなかったとか聞くと、大丈夫なのか? とは俺も思った。
IT業界だと勉強会みたいなのがあるんだが……あ、そうか。カーソンはそういう勉強会が催される場所から遠いのね。遠いといろいろ不便だね……やっぱり。
勉強会って言って集まって酒飲んでSNSに写真アップロードするだけが楽しみのギークパリピもいるから勉強会が万能ってわけじゃないけど、このカーソンでもバイオ系の勉強会なんとかならないかな。
そうそう。今までの経緯を総合するとアメリアさんは経営者としてあまり優秀ではないと判断せざるを得ない。しかし、アメリアさんを辞めさせるとクロエもこの会社を去るだろうと皆が口を揃えて言っている。難しいところだ。2人はどういう関係なんだろうか?
まあ、そんな傍観者的な視点と考察を持て余すほどに俺は暇なのだ。みんな忙しすぎてかまってくれないからってのもある。
外に雪がちらついていても研究所の中はほの暖かい。俺がカフェスペースでその暖かさにまどろみ、船を漕いで首をガックンガックンしていると、クロエが音もなく現れて俺の顔面を論文か何かを丸めた紙の筒でバシッとはたいた。
「ここで寝るな……」
15ページほどの論文でも丸めて殴られると結構痛い。くそ、接近に気が付かなかった。
実験系の研究者は立ちっぱなしになることが多いとかでdanskoというメーカーの靴を履く人が多いそうだ。この研究所ではクロエがそうなのだが、硬めの靴底なのに彼女が歩くと音がしない。どういう特技だ。
「……P1なら使ってもいいよ。今日から」
「え、マジ?」
先日、口頭審問を6,7問答えきったのが評価されたのか、それとも研究環境が良くなったことへの礼のつもりなのか。クロエもようやく俺を次の段階に進ませてみようという気になってくれたらしい。
良い知らせを持ってきたのに、相手がサボって居眠りしていたらそりゃ怒るよな。殴られて当然だわ。
まあ、理由はなんでもいい。今は努力が実って嬉しいの一言に尽きる。この二ヶ月弱、寝る間も惜しんで生物学をやった甲斐があったというものだ。
使っていいキットの中にアデノウイルスベクターを使ったなにやらがある。アデノウィルスと言えばルーカスも博士論文で題材にしていたな。何かやれればあいつを驚かすこともできるんだが ……まあ、いろいろ考えてみよう。
★★★★★
東京、芝にある壬生グループホールディングスが所有する高層ビルの42階。役員フロアであるその階の最奥には顧問用の部屋がある。
部屋の主は特別顧問の壬生由武―― 壬生翁だ。
「会長、今年もたくさんお歳暮が届いていますよ」
3人いる秘書のうちの筆頭、山崎がのし紙の着いた箱をいくつか持って、うやうやしく壬生翁の居室に入ってきた。
「会長はやめろと言ったろう。笹本が聞いたら気を悪くするぞ」
笹本は今年の株主総会で就任した壬生グループホールディングスの現会長で、壬生グループの頂点にいる男だ。壬生には無かった電気電子部品輸入部門の立ち上げや、システムソリューション事業の立ち上げ、先端マテリアル部門の立ち上げなどで実績を上げての就任だった。
先代会長だった壬生翁は年齢を理由に今年、代替わりを自分から申し出たのだ。
顧問という肩書も今の壬生翁には堅苦しく、大して成果もないのに報酬が多いのは昨今の世情に合わない。そう考えた壬生翁は、顧問制度そのものを廃止してはどうかと取締役会で議案を提出し、概ね周囲の同意を得ていた。
「申し訳ありません。どうしても長年会長と呼んでいた癖が抜けませんで……」
「わざとだろう、馬鹿者。そんなことを続けていたら儂がここを去った時お前の居場所がなくなるのがわからんのか?」
壬生翁は15年以上自分の秘書をしている山崎が笹本を蛇蝎のように嫌っているのを知っていた。しかし、生き馬の目を抜くような時代には笹本のような人間に舵を取らせてみるのも重要なことだ。
創業者一族が持株数と求心力だけを根拠に大企業の舵を取り続けると、時に時代を見誤ることもある。グループ85万人余の生活を預かる身として、それはできないのだと何度も山崎に説明はしているのだが。
「どのみち、会長がここを去られるときは私もここを去りますよ」
「やれやれ。なつかれたものだな……ああ、歳暮がなんとか言っとったが、どれ、見せてくれ」
「数は減っていませんよ。むしろ増えています。笹本会長のところにはほとんど来ていないそうですから、やはり皆さん、誰に挨拶をするべきなのかはわかってらっしゃるんですね」
「おお、根岸のどらやきか、嬉しいな。まだ覚えてくれとるのだな。
山崎、熱い煎茶を淹れてくれ。客用の小さな湯呑じゃなくて、寿司屋で出るようなでかい湯呑で頼む。ほほ……」
壬生翁の顔がほころんだ。お茶が待ちきれないという感じだ。
「お好きですね。こんなのも来ておりますが」
「うん? アイスワイン? こんな洒落たものを送る奴が知り合いにいたか……? おう、影山君か。そうかそうか。今、アメリカにおるんだな」
「影山様ですか……? 影山物産……私、存じ上げませんが。この方」
「ああ、儂の個人的な知り合いだ。この間名刺交換をしてな……お前は気にしなくていいぞ。面白そうな男だったからこっちからちょっと声をかけたんだ。なんだ、随分高そうなワインだな……礼をしなくちゃいかんなこれは」
壬生翁は応接セットに置かれた大きな湯呑とどら焼きに目をやりながらふと考えこみ、そして悪戯っぽい顔をした。
「おい山崎、さっき気にしなくていいって言ったのは無し」
「無し?」
「正月の嵐鳳楼での会合の後、さっきの影山君を嵐鳳楼に呼んでくれんか」
「嵐鳳楼にお客様を? あそこはちゃんとした理由がないと利用できない筈ですが」
「確かに、正月以外なら面倒な承認が必要だが、正月だけは儂と由宣の承認で行ける筈だろ? 由宣には話をしておくから頼む」
嵐鳳楼は壬生グループが都内に持つ接待用の特別施設だ。東京ドーム一個分に相当する面積の敷地はぐるりと塀で覆われており、広大な日本庭園と茶室のある和風パートと、バラ園、迎賓館、離宮のある洋風パート、2つのパートからなっている。
未だかつてマスコミのカメラが入ったことはなく、管理人を除けばグループ会社の社長であっても無許可では門すらくぐれない。
正月にグループ企業のトップが会合をする際に離宮が使われる以外は、壬生直系の家族が松の内を過ごすために使われるか、余程のVIPの接待に迎賓館が使われるのみで、それすらグループ内東証一部上場企業27社の社長のうち半分以上の承認が必要な、最高に特別で面倒な施設なのだ。
「わかりました。すぐ手配します」
山崎は少し困った顔をした。壬生翁が誰かに「自分が話をしておく」と言ったときはだいたい山崎が根回しをしてきたのだが、今回は誰がしてくれるのだろう。




