379話 礼儀正しいハクニー 1
テオドールは、シシーのアパートへ向かった。出てこなかったらどうしようと、チャイムを押してから考えたが、シシーは顔を出した。目が真っ赤に泣き腫れていた。
「シシー」
彼女がなにか言う前に、テオドールは、持ってきた弁当を突き出した。
「嫌じゃなかったら、一緒に食べないか。俺と一緒が嫌なら、ひとりで食べていい。これは、コンビニの廃棄弁当だ」
「廃棄……」
「コンビニは、定時になると弁当やサンドイッチは廃棄するだろ? つまり、タダだ。金は要らない」
シシーは目を見張り、おそるおそる、ビニール袋を受け取った。そして、ぎゅっと弁当を抱きしめた。抱えた拍子に、サンドイッチを落とした。テオドールが拾う前に、あわててしゃがみこんで、必死な形相で袋にしまい直した。
たしかに、シシーの様子はおかしかった。
あたりをキョロキョロ見回し、「は、入って」と鬼気迫る表情で、言った。
部屋は、メチャクチャではなかった。カルパナがさっき言ったように、過食の気配は見当たらない。大量の食べ物やゴミが、狭いキッチンや部屋を埋め尽くしているなんてことはなかったし、食器は自動洗浄機の中にあったし、床はホコリの塊がすみに存在していたが、その程度のものだった。以前訪問したときより、片付いている。
部屋は暗い。
「ごめん……掃除してなくて」
シシーは言い、いきなり床に座って、弁当を食べ始めた。テオドールは、シシーが何をしても、動揺しないことに決めた。
「いつから食べてないんだ?」
テオドールは慎重に問うたが、その返事はシシーから返ってはこなかった。彼女は夢中で弁当を頬張っていた。
テオドールは、ほっぺたをいっぱいに膨らませて食事するシシーを、リスだと思うことにした。頬袋に、これでもかとナッツをつめこむ小動物。そう思えば可愛らしい。
シシーは弁当を食べながら、部屋の電気をつけ、はっと気づいたように、「ごめん、あたし勝手に食べちゃった……」と謝りながら、テオドールに弁当をひとつ、勧めた。
どうやら、弁当をゴミ箱に投げ込むという事態は避けられた。テオドールはほっとし、シシーに習って床に座り、弁当を開けた。
「テオって、こういうの食べるんだね」
本気で驚いているようだった。たしかにテオドールは、普段から、コンビニ弁当の類は口にしない。
「好んで食いはしないが、なんでも食べるよ。戦場じゃ、贅沢は言っていられなかった」
「それって、サイバー部隊にいたときの話?」
「ああ。泥水に浸かったクラッカーを食って、寄生虫にやられたことがある」
シシーがむぐっと、ご飯をのどに詰まらせた。
「悪い。食事中に――」
テオドールは気づいて謝ったが、シシーは笑った。やっと、明るく笑った。
「テオが、そんな話するなんて」
部隊にいたときのことがトラウマで、クラッカーだけは食えないが、好き嫌いはない。
「君さ、社員食堂のこと知ってる?」
テオドールが聞くと、シシーは「社員食堂……?」と首を傾げたが、「あっ」と言って、真顔でテオドールを見たので、どうやら思い出したようだった。
「これはニックさんのコンビニの廃棄弁当だけど、社員食堂に置かれるものらしいから、もらい受けてきたんだ」
「あそこのって、どっかのコンビニから仕入れてるやつじゃなかったんだ……」
シシーはテオドールと同じことを言った。
「君、いつもどこで昼食を食べてるんだ」
「同期の女の人たちと、近くのファミレスとか、カフェとか……」と言いかけて、「でも、あんまり話合わないから、そのうちひとりで食べるようになって……。外にキッチンカーが来てるでしょ? 日替わりで色んな車来るし、安いし、それ買って、近所の公園で食べてた」
「そうか」
「それに、最近はお屋敷に来れたし」
屋敷、の言葉に、シシーの顔がほころんだ。
「そうか。そっか。社員食堂があったっけ……」
つぶやくシシーはすこしホッとしたように肩を落としたが、テオドールはふと思った。
(同じ“無料”でも、社員食堂のほうには抵抗がないのか)
タダでご飯は食べられない、とシシーは言った。
(“おごられる”という行為が、イヤなのか?)
胃に食べ物が入って落ち着いたのか、シシーはようやくいつものようにしゃべり始めた。
「テオって、L31の出身だっけ」
「そうだよ」
「L3系って、頭のいい人ばかりいるんだよね」
「そういうことになってる」
「テオも、すごく頭いいもんね」
「……俺なんか、そんなに頭は良くない。もっと頭のいいヤツはごろごろいる」
テオドールは、L31で生まれ、育った。父母ともに教師で、なに不自由なく育てられた。
L3系の惑星群は、「L系惑星群の頭脳が結集している星」というのもあって、大学までエスカレーター式。
その中でも、テオドールは、かなり『特別』な大学に入った。だが、なんの自慢にもならない。世界レベルで見たらテオドールは賢いほうだろうが、あの大学では最低レベルだったからだ。
テオドールは大学の名を口にしなかった。
あの時代は、テオドールにとっては暗黒だ。どんなに努力しても、最低ラインから上がれなかった悔しさが、マグマのように噴き出てくる。まわりは怪物ばかり。おまけに、よそから一年ほど留学してきて、大学のうわべだけに触れて行った連中が、テオドールよりはるかに実力が上、というのはいくらでもあった。
彼らは、「アルビレオ大学」に入れなかったわけではない。選べない環境にあったか、自ら選ばなかったのだ。
大学だけではない。世界には、怪物が、あふれるほどいた。
だが、あそこは世界最高峰。あの大学に在籍していたというだけで、評価されるのは当然だった。入学も困難であれば、卒業も困難だ。テオドールは、四年制大学を、六年かかって卒業した。
あの大学にいたことが、劣等感につながるなんて、だれも想像できないに決まっている。
それでもなんとか卒業できたテオドールには、世界のあまたの企業から、信じられないほど素晴らしい条件で、目を通しきれないほどの求人通知が来た。テオドールはすべてを蹴った。
なぜなら、それらの企業には、テオドールが追いつくことさえできなかった怪物たちが、あちこちで根を張っているからだ。
――アルビレオの衛星。
L3系最高、つまり世界最高峰の教育機関である、「アルビレオ大学」の卒業生につけられる頭文字。
世界で最も尊く、英知の象徴にして、テオドールにとっては暗黒の称号。
テオドールは素性を隠し、L19に向かった。大学の名はいっさい出さなかった。「称号」に振り回されない場所に行きたかった。
サイバー部隊に所属した。仕事自体は楽だった。あまりに楽だった――テオドールは、ふつうならば安全な場所で任務に着き、戦地にいくことがほとんどないサイバー部隊の中で、ときおり入る危険な任務――傭兵しか行かないような激戦地、あるいは救出部隊に、何度も志願した。
生きている実感を得たいと思っていたのかもしれない。
宇宙船が破壊されて宇宙に投げ出され、かろうじて救出が間に合って生きながらえたことと、例の泥水まみれのクラッカーを食って、寄生虫に腹を侵略されかけたことをのぞけば、退屈な場所だった。
死ぬような目に遭っても、テオドールは「称号」をつかって、安全な場所に行きたいと思わなかった。
あの大学は、卒業生の三割が世界のトップ企業に就職したり、政界に行ったり、司法や医療、化学――さまざまな得意分野で世界に出ていく。そして三割が、L3系に残り、後世を育てる道を歩む。
残りの四割は。
辺境の地へ向かうのだ。原住民に勉学を教えたり、和平交渉をしたり、辺境の、病に苦しむ貧しい人々のために医療チームを組んで救済に当たったりする。
テオドールは、どこにも属せなかった。
父も母も、祖父も祖母も、「三割」の人間だった。しかしテオドールは、地元に残れば「称号」の劣等感から逃れられず、ほかの「三割」に入ったとしてもそうだということが分かっていた。
結果としては、いわゆる、その他と呼ばれる「四割」の中に入ったのだろうが、それも違うと思っていた。テオドールには、弱者を助けようなどという慈悲心も使命感もない。持ち合わせてはいない。
劣等感があるのみだった。
行くのは、ここではないどこか、でよかった。
宇宙船から放り出された事件のあとは、父母が血相を変えてテオドールを呼びもどした。そのあと、二ヶ月ほど勤めたL5系の企業は、退屈すぎて、鬱になりかけるほどだった。
テオドールは分からなかった。
ここは自分の居場所ではない。サイバー部隊も違うと思っていた。
どこへ行けば、劣等感から逃れられる?
どこまでも、あの大学の怪物たちの顔がこびりつく。負け犬だった自分、負け犬から這い上がることさえできなかった自分。
商社勤務となって二ヶ月も経たないうち、地球行き宇宙船のチケットが当選し、乗った。
テオドールは、役員になれる航路までは乗ったが、祖父が危篤になったため、宇宙船を降りた。
そして、派遣役員になって、現在に至る。
地球行き宇宙船にも、テオドールが「アルビレオの衛星」だということは隠している。それは可能だった。
なぜなら、この宇宙船の役員になる条件は、「地球に到達すること」が最も大切な条件であり、役員になる人間の過去は、あまり重要視されない。
履歴が立派な人間しかなれないのであれば、元テロリストのヴィアンカや、傭兵、チンピラや、犯罪に手を染めたこともあるオルティスなどは、役員になれなかったはずだ。
履歴書提出は、任意。
テオドールは、大学の部分だけ、学歴を詐称した。
すくなくとも、派遣役員の仕事は、ヒマではない。テオドールはやりがいを感じていた。
だが――まだ、「ここではない」と感じている。
忘れていた感情だった。久方ぶりに思い出した。過去の話などしたから。
テオドールは自分の脳内をよぎった過去にはいっさい触れず、大学卒業後、軍事惑星群に行って、L19のサイバー部隊に所属したことだけを、ぼそぼそと話した。
「テオのこと、はじめて聞いたよ」
「――え? そうだっけ」
シシーもそうなら、テオドールも、いままでこれといって心を許せる友人がいなかったのは、たしかだった。
恋人がいたこともあったし、学校で浮くタイプでもなかったし、仲間外れにされるタイプでもなかったが、特に親しい友人はできなかった。この、腹の底にいつでも眠っている、劣等感のせいもあっただろうか。
学校でも部隊でも、地球行き宇宙船に乗ってからも、それなりに周囲とうまくやってきたと思う。たまに食事に行ったり、飲みに行く友人はいるが、こんなふうにふたりきりで、自分のことを話すような会話をする友人は、いなかったかもしれない。
恋人も、しかり――。
(少なくとも俺は、あの大学のことは、だれにも話せなかった)
「……シシーは、“アルビレオの衛星”って、知ってる?」
「へっ?」
シシーから返ってきた返事は、いつものマヌケ声で、テオドールはどことなく安心した。
「その様子じゃ、知らないんだな」
「あ――あたし、自慢じゃないけど、ホント、いろんなこと知らないからねっ!」
シシーはやけくそみたいな声で、ご飯を頬張った。テオドールは苦笑した。
「いいんだ。それは――知らなくて」
シシーはきっと、テオドールが「アルビレオの衛星」だということを打ち明けても、きっと態度は変わらないだろう。
テオドールは照れ隠しもあって、「水もらうよ」と三本あったペットボトルのひとつを取った。
「じゃああたし、お茶」
いつもの空気がもどってきた――テオドールはほっとし、シシーが手にしたお茶のペットボトルのふたを、開けてやった。
シシーは驚き、戸惑い顔で、テオドールを見上げた。
「テオは――なんでそんなに、優しいの」
テオドールは、噎せるところだった。皮肉ばかりぶつけているはずのシシーに、優しいなんて言われるとは。
「や、優しいかな」
「優しいよ、テオは」
「……」
「あたしが誘っても、断ることないし、今回は、お屋敷に誘ってくれるし――あたし、みっともないところ見せたのに、こうやってお弁当持ってきてくれるし」
テオドールは返事に窮した。優しいなどと言われたのは、はじめてだった。いつもの雰囲気を取りもどしたと思ったが、どうも、それより空気の密度が濃い。
「テオは、彼女いたこと、ある?」
シシーがぺったりと背中をくっつけてきたので、テオドールは全身が強張った。
「あるよ」
それだけ言うのが、やっとだった。恋人は、いた。学生時代に一度、地球行き宇宙船に乗ってからも一度――つきあって、別れた。
学生時代は、テオドールに輪をかけて生真面目な女性と付き合い、三年たってキスをするのがやっとだった。
彼女も潔癖で気真面目で、自分も礼儀に反してはならないと思いすぎたために、結局息苦しくなって、別れることになった。
地球行き宇宙船に乗ってからつきあった恋人とは、結婚寸前まで行ったが、別れた。シシーみたいに、明るく、気さくな女性だった。
別れたのは、テオドールの親が、相手の学歴と作法を気にしたからだった。テオドールは、家族に対する礼儀を重んじるあまり、彼女が「別れる」というのを止めることができなかった。あのときは、彼女にとっても、それが最良に思えた。
「礼儀」にこだわる自分の家族に合わせていくのは、彼女もつらいだろうと。
「あのね、テオ」
テオドールは、背中から発火するかと思った。シシーの声が、こんなにも甘やかに聞こえたことなんて、なかった。女性が苦手なわけでもないし、女と二人きりになるのも初めてではないのに、いったいなんだというのだ。この緊張感は――。
「あたしもいたけどね、地球行き宇宙船に乗ってからつきあった人なんだけど、別れちゃったよ。ずっとまえに」
それがどうしたと言いかけて、テオドールは、あやうく踏みとどまった。フォークを持った手は、すっかり止まっていた。
「あたしは――」
「シ、シシー!」
テオドールは、反射的に立ち上がった。
「弁当は、置いていく。これはニックさんのコンビニで毎日出る廃棄の弁当だそうだから、しばらくは、もらいに行くといい――じゃあ!」
赤い顔を見られないように、テオドールは慌ただしく部屋を出て行った。
シシーは呆然と、テオドールの背中が玄関向こうに消えていくのを見――やがて、悲しそうに、テオドールの食べ残した弁当に目を落とした。




