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キヴォトス  作者: ととこなつ
第九部 ~恋の回転木馬篇~
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378話 様子のおかしいシシーと、テオドールの戸惑い 1


 その日、中央役所の業務終了時刻――定時が近づいたころ、テオドールは中央役所内のATMで、シシーの小さな背中を発見した。シシーは、微動だにせず、背を丸めて、なにかを覗き込んでいた。


 昨今、口座は電子媒体内にあるのがほぼ当然の世の中なのだが、この宇宙船は、文明星ではないところから乗る者も多いし、役員にも当然いる。だから、ATMの設置も、紙媒体の通帳も存在する。しかしまさか、シシーをATM前で見かけるとは思わなかったテオドールだった。


 近くまで行っても、シシーはテオドールに気づかない。彼女が持っているのは、やはり紙の通帳だ。テオドールは紙の通帳を、初めて見た。


「シシー」


 ようやく、声をかけた。シシーが気づいて、ビクリ! と怯えたように顔を上げた。


「廊下のド真ん中に突っ立っていたんじゃ、邪魔だよ」

「――あ」


 テオドールはいつもの調子で、シシーを壁際のベンチにどかせた。


 様子がおかしい。

 やはり、シシーはなにか隠している。金のことだ。しかも、彼女にその「不安ごと」を相談できる相手はいない。まだ、解決してはいない。


 テオドールに分かったのはそれだけだが、それで十分だった――彼には。


 テオドールは、ベンチに座り込んだシシーに声をかけた。彼女が握り込んだ通帳にはなにも言及(げんきゅう)せず。


「俺も定時で上がるし、カルパナさんももう上がるって言ってたから、行こう、屋敷に」

「あ、――あの」


 シシーの口から断りの文句が出るのは、テオドールには予想がついていた。テオドールは、シシーの隣に座った。あわてて彼女は、バッグに通帳をしまった。


「ごめん、今日は、やっぱり行けな――」


「――あのさ」

 テオドールは、言葉を選んだ。とても、慎重に。

「君が、おごられるのが好きじゃないということは、分かった」


 シシーの返事はない。うつむいたままだ。昼間の元気は、どこへやらというやつだ。


「でも、君、昼間約束をしてきてしまっただろ? 今日の夕飯は、お邪魔しますって。たぶん、相手もそのつもりで用意している」

「そう――だよね」


 シシーにも分かっているようだった。ずいぶん、顔色が悪い。シシーはすくなくとも、昼間は、屋敷に行くつもりでいた。だが、その予定は急きょキャンセルせざるを得なくなったのだ――なぜなら、金がなくなったから。


 おごられることを拒否したシシーだ。自分の金以外で食事をしたくないのだろう。


 給料日は15日。今日は18日。もらったばかりだ。いきなりなくなるわけはない。高額な買い物をしたなら、引き落とし日は決まっているはず。シシーだって、そのくらいのことは分かる。


 しかし、テオドールの推測は、外れていないと思う。シシーの金は、シシーにも予想外のタイミングで、引き落とされてしまった。


 シシーはブランド品にも縁がなく、彼が彼女の部屋を訪問した際には、高額な家具も見当たらなかった。シシーの生活は、きわめて平凡だ。給料の支出の大きなところを占めているのは家賃程度のものだ。


 シシーの「予定」では、今日の夜は屋敷に行けるはずだった。金はなくなっていないはずだった。なのに、今通帳を見て絶望に満ちた顔をし、屋敷に行けないなどと言いだしたのは、あるはずの金が、なくなっていたからだ。


(なぜだ?)


 いったいシシーに、なにが起こっている。

 シシーの知らないあいだに、通帳から金が引き出されているのか。おそらくそれは、シシーの生活に大きな支障が起こるほどに。シシーは、先日15日までの二週間ほど、きっとほとんどなにも食べていない。


(詐欺にでも引っかかったのか)


 三十歳にして独身、恋人なしというシシーの年齢を考えれば、結婚詐欺も思い浮かんだが、そんな気配はあまりにもない。ホストの予想もしてみたが、シシーが(おちい)る泥沼にしてはらしくないと思い、だからといって、テオドールが果たして、シシーのなにを知っているというのだ。


 テオドールは、勝手な想像が、どれだけ危険なことか知っていた。本人から直接聞くまでは、どんな推測も役に立たない。


 テオドール自身は、昼間に感じていた腹の中のもやもや感は、すっかり消化しきっていた。


「提案なんだけど、どうかな?」

「て、提案?」


 シシーが顔を上げた。どこかうつろな顔で、テオドールはギョッとしたが、動揺を顔には出さなかった。


「もともと、お屋敷の人たちには、食事代を請求されてはいない」


 あの屋敷のだれもが、特に食事代を寄こせと言ったわけではなかった。小鳥の巣箱を設置したのはシシーだ。


 初回はいきなり行ったので、好意でごちそうになり、二度目は、手土産を(たずさ)えていった。酒が好きなおとなばかりだったし、ワインを二本ほど包んで。

 次は、子どもたちのために菓子を。


 それから、巣箱が設置された。

 クリスマスなどのイベントごとでは会費を集めたが、今のところ、はっきりと食事代を請求されたことはない。

 もちろん、だからといって、好意に甘えているわけではない。

 最近は、頻繁(ひんぱん)に訪問することになったので、テオドールは、前もって、巣箱にそこそこの金額を入れてきた。


「でも、タダでご飯をもらうわけには――」

(ただで、ご飯、ね)


 シシーの中では、「タダで食事をする」ということが、恐ろしく深刻なタブーに当たるらしい。となると、最初の日もごちそうになったあと、シシーはおそらくある程度のお金を置いてきたのだろう。


 テオドールの目が細められたのに、シシーは気づく(よし)もない。


「タダじゃない。実は、俺のマンションに、封を開けていないワインが二本ある」

「ワ、ワイン?」

「そう。ついでにいえば、いただきものだ。俺が買ったものじゃない。分かる? もらいものなんだ。だが、包装はされている。つまりだ。それを食事代代わりに、持って行かないか? 俺と君の、二人分の食事代として」


「……」

 シシーが目を瞬かせた。


 正直に言えば、もらいものというのはウソだった。テオドールが昼間、外に用事があったついでに、購入したものだった。プレゼント仕様に包装までしてもらって――。

 もう一度、このあいだのようなことがあったら、つかうつもりで。だが、つかう機会が、その日のうちにやってくるとは思わなかった。


「どう? 俺は、お金を使ってない。君におごるってわけでもない。もともともらいものだ」


 賭けだった。これでシシーが行かないと言えば、テオドールにも手がなかった。


「い、いいの?」


 だが、シシーは、すくなくとも、「おごる」と言ったときのような拒絶は示さなかった。


「いいんだ。もともと、俺は好きじゃない銘柄のワインだ。だが、屋敷には人が大勢いるから、好きな人もいるだろう」

「……」


 シシーはひどく、思い悩んでいるようだった。テオドールは、辛抱強く、シシーの返事を待った。


「い、行く」


 シシーは、やっと言った。なにか重大なことでも、決意したかのように。


「ありがとう……ほんとに、いいの?」


 テオドールは、顔に喜びが浮かぼうとするのを、必死で食いとめて、何気なさを装った。


「いいもなにも、俺は好きな酒じゃないって言っただろ」

 

 帰り支度をしたカルパナと、シャイン・システムのまえで待ち合わせをしていたテオドールだったが、カザマも一緒にいた。彼女が定時で上がるのはめずらしいと思っていたら、ふたりの手には、包装されたプレゼントらしきものがあり、テオドールはあっと叫びそうになった。


 すっかり忘れていた――そうだ。昨夜は、アニタとニックの結婚式だったのだ。シシーのことで頭がいっぱいで、すっかり頭から、そのことはなくなっていた。


 テオドールは、何というタイミングだと困惑し、ひどく迷った。


 ここで、新しくプレゼントを購入して持参してもいいが、シシーの気持ちに変化が訪れないだろうか。結婚式のプレゼント代を出せないシシーが、「やっぱり行けない」というのは、目に見えて分かっていた。


「カ、カルパナさん」


 テオドールは焦り顔で彼女の手を引き、少し離れたところで説明をした。――カルパナは、承知してくれた。カルパナが持っているプレゼントは、シシーとテオドールとカルパナの連名で、ふたりに渡す。


「すみません。あとで、かならずお金はお渡ししますので」

「いいのよ。それより、シシーちゃんを連れて行くことができてよかったわ。あの子、どうも、やせた気がして心配だわ」


 カルパナも小声でそう言ったが、シシーは、カザマと、いつもの調子でほがらかに会話していた。先ほど、テオドールの前で見せたうつろな表情は、まるで別人だったかのように。


「俺、一度家に帰ってから伺います」


 ふたりには先に行ってもらって、テオドールとシシーはそのままテオドールのマンションに向かった。マンション十五階の廊下に出、そのままテオドールの部屋まで歩く。


 テオドールは「入りなよ」と言ったが、シシーは、小さく首を振り、入ってこようとはしなかった。テオドールはしかたなく、急いで部屋に入り、昼のうちに買っておいた、ワインの箱を持ってきた。


「な、なんだかこれ、高そうだね……」


 シシーは気後(きおく)れしたように、包みを見つめた。テオドールは首を振った。


「高そうに見えるだけさ。中身は、たいしたことはない。でも、俺たちの食事代くらいの値はあるよ」


 屋敷で、食事時に提供されるワインもこのくらいの値段のものだったから、ちょうどいいだろう。


 シシーは、迷い顔で言った。


「さっき、カザマさんから聞いたんだけど、アニタさんとニックさんが結婚したって。あたし、プレゼント、用意してない――」


 一難去って、また一難――テオドールは、しかめっ面をしそうになって、なんとかこらえた。


「君は、いま聞いたんだろ。カルパナさんのプレゼントは、俺たち三人からということにしてもらって」

「……」

「結婚祝いなら、あとで渡してもいい。とにかく、今夜は約束済みなんだから、行かなきゃ」


 テオドールは念を押した。いつもの彼なら、ここまでしつこく誘わない。そこまで気が進まないなら、「じゃあ、また」ということもできたはずだった。

 だが、シシーは確かに、なにか厄介ごとを抱えている。ここで放置してしまったら、シシーは泥沼に入り込んで、抜け出せなくなるのではないか。

 なんとか屋敷に誘って食事をし、話を聞いてやらねば、取り返しのつかない事態になるのではないかと、テオドールは危ぶんだのだった。


「さ、行こう」


 シシーは気味が悪いほどおとなしかった。昼間の元気など百分の一もなく、しずしずと、テオドールの後ろをついてきた。


 マンションのシャイン・システムから屋敷の応接室へ移動し――やはり夜ということもあって、皆が帰宅していた屋敷はにぎやかだった。そのにぎやかさに、シシーの元気ももどるかと思っていたが、どうやらテオドールの当ては、外れたようだ。


「テオ、あの、ほんとに――」


 シシーが不安げに、テオドールを見上げた。


「だいじょうぶだから」


 なにが大丈夫だというのか。テオドールは、妙な励まし方をしている自分に、「ほんとうにこれで大丈夫なのか?」と自問していた。無神経そのものであったシシーが、支払う金がないことと、プレゼントを持参していないことで、これほどまでに深刻になるとは思わなかった。


 テオドールは昼とは逆に、シシーの手を引いて、キッチンへ向かった。広いダイニングでは、すでに食事が始まっている。


「あっ、いらっしゃい!」

「テオさん、シシーさん、先に頂いていますわ」

「おつかれさん」

「シシー、昼のカレーの残りもあるぜ」


 リサにカザマに、アズラエル、メンズ・ミシェルと、ドア付近にいた屋敷のメンバーから、つぎつぎ声をかけられる。


「昼はごちそうさまでした」

「こ、こんばんは……」


 いつもとは真逆に――テオドールははっきりと、シシーは蚊の鳴くような声であいさつをした。

 ルナがててててっと寄ってくる。


「こんばんは! シシーさん、テオさん、席について!」

「これは、今夜の食事代代わりに」


 テオドールがさっそくワインの箱を渡すと、ルナは目を丸くして受け取った。


「ありがとう!」


 テーブルの端にはニックとアニタが並んで座っていて、彼らのうしろのミニテーブルには、花束やプレゼントが小さな山をつくっていた。


「テオ君、シシーちゃん、プレゼントをありがとう!」

「腹ごしらえしてから、ゆっくり見させてもらうね!!」


 ニックとアニタの大きな声が届き、シシーはますます、顔色が悪くなった。テオドールは苦笑し、仕方のないこととはいえ、余計なことを、と思わずにはいられなかった。

 

 テーブルの上は、あいかわらず華やかで、さまざまな料理で埋め尽くされていた。


 昼の残りのカレーに、サラダ、カブやじゃがいも、トマトやソーセージが入った塩味のスープ、何種類もの料理が並べられていて。中には以前テオドールが絶賛した、マルカ産の魚貝パスタと、シシーが大好物になった、キャベツと鶏のいためものがあった。


「おいしそうだね」


 テオドールはシシーの分も明るく振る舞おうと、シシーに声をかけた。


「シシー、席に……」


 シシーの顔は、極限まで青ざめていた。そして、足はぴくりとも動かなかった。



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