5。シュマイドラーの仁(前)
リーマン予想というのは、数学者リーマンが、素数の分布に関わる定理の証明を作る途中で考えた、ある予想である。
リーマンの証明はそこで頓挫して完成しなかったが、本来の目的だった素数の定理は、別の方法で証明されてしまった。
なので、後に残されたこの予想は、実は本来の役目は失っているのだが、ただ高名な数学者のリーマンが自力で解けなかった問題としての興味だけが残された。
そこで多くの人々がこの問題に取り組んだが、150年以上経った現在も、この問題は未解決であり続けている。数学者の中には、この問題に取り組んだせいで発狂した人間もいると言われるほどの、いわくつきの問題である。
中林はそのリーマン予想の「ほとんど完成した」証明を持っている、らしい。
元々その種の問題に興味があった彼女は、ずっとその問題について考え続け、その状態にまで持ち込んだ。しかし、最後の一押し――最後の最後で、小さな証明の問題点だけが残った。
その問題は小さかったが、しかし中林はかなり考えたものの、結局自力で解決することはできなかった。そこで、お世話になっている先生に相談したところ、「それを埋めてくれるかもしれない論文」を紹介された。
喜び勇んだ彼女は、その論文のコピーを読もうと研究室に置いて……その状態で、このエリアムに転移してきてしまったのだった。
というわけで。
中林がなぜ日本に帰りたいかと言えば、それは実はこの「読めなかった論文を読んで、証明を完成させたい」というのが、最も大きな理由なのである。
ということを、俺は、ようやく知った。
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「そんなことはどうでもいいのでソーヤも手伝うですっ。ああー、もう、この忙しいときになんでミッタがこんな事務作業やらされてるですかっ」
「俺に言われてもな……」
秘書官室は今日も大忙しである。
といっても、キリィの秘書官である俺は、横で水出しのお茶を飲む余裕があるのだが。中林の秘書官であるミッタは、それはもうすごいことになっていた。
いつもはおしゃれに整えている髪の毛も、整える時間がなくて心持ちボサっとしている。俺はこれはこれでかわいいと思うのだが、当人は不満らしい。
「昨日のあのよくわからない講義のせいで、問題に対する質問書がものすごい勢いで投書されてきてるですっ。みんな金に釣られすぎなのですっ」
「つってもパナルの資産全部だからなあ。みんなが目の色変えるのも、まあわからんでもねえよ」
俺は言ったが、ミッタの怒りは収まらないようだった。
「だいたいなんですか未解決問題って。そんなの解決する必要あるんですかっ。間違ってる証拠がなければ合ってる! でいいじゃないですかっ」
「いや、それはさすがに言い過ぎじゃないか?」
「あーもう、こちとら師父さまからの課題のほうがよっぽど未解決なんですっ。ナカバヤシさんのせいで仕事が激増して勉強時間が取れなくて、課題再提出はこれで三回目なのですよっ。ナカバヤシさんの手伝いなんて、本来はやってる時間はないのですっ」
「……それ、本当に中林のせいか?」
微妙に八つ当たりの気配を感じなくもない。
「なんですかソーヤは。このミッタリンダ・フリスの頭が悪いから課題再提出とでも言いたげですね」
「いや、そこまでは言わないけどさ」
「だったらソーヤが解くですっ。ミッタが仕事している間にちゃちゃっと解いてくれれば万事解決なのですっ」
「つうか、神学の問題なんだろ? 俺に解けるわけねえじゃん」
「ふっふっふ。そこが違うのですよ。今回のテーマは神学と言ってもかなり実用的な、倫理的な分配方法についての課題なのです」
「倫理的な分配方法?」
よくわからない。
「問題は簡単なのですよ。まずナカバヤシさんが3人から借金をしていたとするのです」
「ふむふむ」
「一人目からは金貨100枚、二人目からは200枚、三人目からは300枚を借りているとして、ナカバヤシさんはある日突然、血を吐いて死にました」
「……おまえ、微妙に私怨入ってない?」
「気のせいなのです。それより、ナカバヤシさんの全財産が金貨100枚だったとすると、これは3人で均等に分けるべきです。200枚だったときには、一人目には50枚渡して、二人目と三人目は残りを半分こするのです。そして300枚のときには、一人目、二人目、三人目はそれぞれ50、100、150という風に、借金に比例して分けるのです」
「はあ。それで?」
「課題は250枚のときにどう分けるかなのです」
「…………」
俺は首をひねった。
「そもそも、それってどういうルールなんだ? 倫理的な分配方法と言われても、どう倫理的なのかもよくわからんぞ」
「ええとですね。これは、「自分のもの」という概念に基礎を置いた分配法なのですよ」
「自分のもの?」
「はい。つまり、たとえばナカバヤシさんの財産が金貨100枚だったときを考えます。貸していた人間は全員100枚以上を貸してますから、こう思うはずです。この100枚は自分の借金の返済分で、「自分のもの」だと」
「ふむ。それで?」
「なので、全員対等なので、均等に分けるのですよ」
「ほうほう。じゃあ財産が200枚の場合は?」
「この場合、二人目と三人目は両方、全額欲しいと主張しているのです。なのでこのふたりは対等なので、均等に分けるべきなのです」
「でも一人目は違うよな。そっちは?」
「ふっふっふ」
ミッタは自信ありげに笑った。
「そこがこの考え方の肝なのですよ。
こう考えるのです。一人目は、200枚のうち100枚は自分のものだと考えている。二人目と三人目は、200枚が自分のものだと考えている。だから50枚と150枚で分ければ、両方とも「自分のもの」から50枚低いので、おあいこなのです」
「おおー、なるほど」
たしかにそれは倫理的かもしれない。そう考えて俺は、
「ん、でもそれなら、一人目と二人目とかにも同じ考えしなきゃいけないんじゃないのか? このふたりの借金の合計は300枚だから三人目と平等だけど、50、75、75だと合計金額は平等じゃないよな?」
「……あれ?」
ミッタは固まった。
「あれ。ええと、うん? おかしいですね。でも二人目と三人目は対等だから……」
「それに250枚に応用するとして、どうするんだ? 対等な奴いなくなるじゃん」
「そ、それは……そのう……」
ミッタはしどろもどろでなにごとかもにょもにょ言った後、
「だ、だからそのへんをソーヤが考えろって言ってるのですー!」
「丸投げされた!?」
「ああもうっ、ミッタはナカバヤシさんの手伝いで忙しいのですっ。師父さまからの課題とかやってる暇はないのでソーヤがなんとかするですっ」
「さっきと言ってること逆じゃねーか!」
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「昨日の講義はずいぶんと評判のようだったが、抜けてきて大丈夫だったか?」
「あはは……お構いなく」
気遣うレイノに、俺はそう言った。
実を言うと、抜けてくる時にミッタにさんざん罵倒されたのだが、気にしない。というか、ミッタはおしゃれさんな風貌が災いしてか、悪口言われてもぜんぜん迫力がないのである。
擬音で言うとぷんすかって感じ。
「そんなことより、なんでわたくしの家にあなたたちが押しかけてきたのか、その説明をまだ受けてないのですけれど?」
「まあそう言うな、エアニアム。どうもシュンペーの奴は俺とふたりで会うのでは警戒してしまうようでな。中立地帯が必要、ということだ」
「あら。わたくしが中立だといつ決まりましたのかしら、レイノ。無礼な振る舞いをすれば、あなたをすぐにでも家から放り出してもよいのでしてよ?」
「無礼な振る舞いというのは、その魅力的な髪に触れることかな?」
「みみみ魅力的とか言われてもごまかされませんことよ! というかソーヤといいレイノといい、なぜそんなにわたくしの髪に触りたがるんですの!?」
「世の摂理だろ」
「ですよね」
「意味不明ですわー!?」
謎の意気投合をする俺とレイノにエアが吠えた。
はっはっはとさわやかに笑っていたレイノだが、ふと表情を改めた。
「ときにエアニアム。君はこの男を「ソーヤ」と呼んでいるようだが、それが姓のほうであることはきちんと押さえているのかね?」
「え、ええええ? 初耳ですわ!」
「な、言っただろうシュンペー。エリアム人の普通の感性だとこうなるんだ」
「そういうもんですかね……」
そういや、そんなことを言われていたことを思い出した。
うーむ、これはキリィにも尋ねたほうがいいかな……
「そういや、レイノさんはどこで、俺たちの姓と名の順序を知ったんですか?」
「普通に聞いただけだよ。ティア・マリイにはおまえたち以外にもお気に入りの太陽の国の人間がいてな。ちょっとした有名人だ。たしか、ミツヒロとか言ったか?」
「……なるほど」
「で、それで思い出したのだが、シュンペー、おまえは戸籍音登録はしてるか? なんとなくしてなさそうに見えるが」
「戸籍、音、登録?」
そんなもの、いままで聞いたことがなかった。
「やはりか。いや、他国からは奇妙な制度だと言われることが多くてな。すっかり形骸化した制度だが、名目上は市民の義務になっているものだ。やっておくに越したことはない」
「はあ。それで、なんなんです? それ」
「十代ほど前のエリアム王が決めた制度だ。
その王は小さな頃に、政争のせいでミッジというフリユ大陸北東部の小国に逃れていたことがあってな。そのせいで、自分の名前のエリアム読みが気に入らなかったのだ。
そこでその王は、『真なる音の文字』というのを開発させて、『真なる音の名前』を全員登録させることにした」
「真なる音の文字?」
「太陽の国の概念では『発音記号』と言うらしいな」
「あ、なるほど」
そうか。綴りが同じでも、国が違うと別の読みになっちゃうもんな……
「で、その文字は、新しく交流を持つ国が増えるたびに、その国の言葉を記号化して増え続けている。太陽の国関係で言うと、「カタカナ」とかいう文字はすでに全部登録されている。おまえもそれを使って、自分の「本来の読み」を戸籍に登録させておくといい」
「なるほど……そういうことなら」
こうして話していると、レイノはいろいろと有益なことを教えてくれる。
便利ではある。その底でなにを考えているのか掴みかねるのが問題、なのだが。
「あら。えらくソーヤ……ではなくシュンペー……ああっ。もう面倒だからソーヤでいいですわ。ともかく、レイノはソーヤに親切なのですわね」
「それほど意外かね?」
「べつにそこまでは思いませんけど。でもあなたがやると、なにか下心がありそうでいやらしいですわ」
「エアニアムも言うようになったなあ。昔はあれほど正直だったのに」
「ふん。一年もエハイトンで揉まれれば、いかな田舎娘でもそうなりますわよっ。ていうか、あなたも含めて王族たちは陰湿で嫌ですわっ」
「まあ、そう言うなよ。その陰湿な噂を教えてやったのも俺だっただろう?」
うがーと唸るエアとたしなめるレイノ。……そうか。このふたり、割と昔から知己だったんだなー。
「そういえば、シュンペー。噂なのだがな」
「なんです?」
「おまえとナカバヤシが、太陽の国への帰還を目的としているという噂を聞いた。本当なのか?」
「まあ、中林についてはそうです」
「おまえは?」
「帰れるなら帰りたいですけど……まあ、対価次第ですね。寿命を半分失う代わりと言われたら、諦めてエリアムに残ります」
「なるほど」
「なにか、気になることでも?」
「いや、なに。おまえたちは状況の把握が出来てるのかと思ってな」
「というと?」
「知らんのか? エリアムにここ一年で来た太陽の国の住民の情報を合わせると、向こうではものすごい戦争が始まっているそうじゃないか。帰れるとしても、しばらくはこちらで様子見したほうがいいのでは?」
「…………」
正直、驚いた。
なにしろいままで、エリアム人にこの話を振られたことは、一度もなかったのだ。だから、素直に、驚いた。
「どうした?」
「いえ。事情通だな、と」
「そりゃそうだろう。それが俺の売りでな。
それでナカバヤシの話だ。彼女はこのことを知っているのかね」
「まあ、それは俺が教えましたけど……」
と、俺はつい最近知った、中林が地球に帰りたい理由について話した。
「というわけらしいんですよ」
「ふむ、なるほど」
レイノはうなずいた。
「家族の心配やエリアムの生活水準ではなく、純粋に学問上の理由で帰りたいときたか。そうなるとたしかに、止める理屈はないな」
「そうなんですよね……」
「しかし、感心したよ」
「なにがですか?」
「ナカバヤシについてだ。
正直、最初はティア・マリイが連れてきたトラブルメイカーだと思っていたんだがね。思いの外、まっとうな学者のようじゃないか。まだ若いが、感心なことだ」
「まあ、それはそうなんですけど……トラブルメイカーなのも否定はできませんよね」
「昨日の講義も学者には好評だったそうだぞ。特にパナル・カルマナルカが、財産を取り戻すために全力で解答を作る旨、宣言したそうだ」
「…………」
かわいそうに。たぶん解けないよなあ。
「ま、とはいえ」
レイノは俺の感想を知ってか知らずか、そう言って笑った。
「気をつけておくに越したことはない。俺ですら、ここで話して初めてナカバヤシの素性を知れたのだ。たいていの貴族どもには、相変わらず彼女は危険人物だと思われているぞ?」
「……はい。肝に銘じておきます」
俺は、ごく素直に、そううなずいたのだった。




