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中林さんの天球儀(旧作)  作者: すたりむ
第3章:暗殺計画編
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5。シュマイドラーの仁(後)

 夕方になってようやく戻ってみると、秘書室にミッタの姿はなく、代わりに中林がいた。


「あれ、ミッタはどうした?」

「なんか師父さまとやらに連れられて引っ張られていったわよ。課題の提出がまだだって」

「……あー」


 かわいそうに。結局間に合わなかったのか。


「んで、なんでおまえはここにいるんだよ」

「ミッタができなかった事務作業をやるために決まってるでしょ。

 あーもう、なんで秘書の仕事を私がやってるのよ。秘書雇ってる意味がないじゃないの」

「まあ本業は学生だからな、ミッタ。ていうか、俺は事情知らないんだけど、なんであいつを秘書官に雇うことに決まったの?」

「マリイに斡旋されただけよ。私は秘書官の人事になんて興味なかったし、まあいいかって」

「あー。そういうことか」


 中林は興味ないだろうが、俺はなんとなく事情を察した。

 ミッタは、四級市民――つまり、マリイによって救われたサイドの人間なのである。

 このエハイトンの複雑な権力構造の中にあって、最も裏切りにくい人種。マリイがいなくなったら被差別階級に逆戻りしかねない彼らは、だからこそ、マリイが絶対に信頼できる相手なのだろう。


「にしても、昨日の講義に関係する質問書ばっかりね。みんなそんなに金に飢えてたのかしら」

「まあそういうもんだろ、世間なんて」

「どーせこのへんは私が処理しなきゃいけない仕事だから、ミッタはさっさと私に上げてくれればいいんだけど。変なところできまじめなのよね、あの子」

「神学生だろ? そんなもんだって」

「あら。それは神学生に対する偏見じゃないの?」

「まあそうかもしれないけど。でもなんか、さっきも倫理的な分配法がどうとか言ってたから、やっぱ厳しいんだろうなって」

「倫理的な分配法? よくわからないけど、そんなの数学にも研究分野あるわよ。シュタインハウスのフェアケーキカット問題とかいう奴」

「……なにを数学してるんだ、それは?」


 想像がつかない。


「俺がミッタから聞いた奴は、遺産分配の話だった。ケーキとはちょっと違うんじゃないか?」

「まあ、違うでしょうけど。遺産分配?」

「ああ。なんか、借金を残して死んだ奴がいて、一人目は金貨100枚、二人目は金貨200枚、三人目は金貨300枚を貸してたんだけど――」

「なにそれ。CG整合解の話?」

「は?」

「だからあ」


 中林は書類にサインする手を止めずに、言った。


「CG整合解でしょ。布の奪い合いコンテステッド・ガーメント原理。遺産が100だったら等分で300だったら比例分配、でも200だとそのどっちでもない変な分布が出てくるやつ」

「あ、ああ……なに、有名なの? それ」

「期末試験で出たわよ。400だったらどう分けるか、って奴だったかしら。答えは50、125、225なんだけど」

「どうしてそうなるんだ? なんかいまいちミッタの解説は要領を得なかったんだが。なんで200枚だと50、75、75になるんだ?」

「一人目と、二人目三人目のグループに分ける話は聞いた?」

「それは聞いた。両方とも「自分のもの」と思っているものから50引いただけの枚数をもらってるから公平だって話だったけど」

「まあ、それで正しいわね」

「だけどそれなら、一人目二人目のグループと、三人目って分け方も考えなきゃいけないだろうと思ったんだよ。そっちは公平じゃねーじゃん」

「まあ何事も限界があるのよ。その「自分のもの」とやらから実際の分け前を引いた分を不満エクセスって言うんだけど、それを小さい方から並べていって、一番大きい不満が一番小さくなるように、さらにその中で二番目の不満が一番小さくなるように……って考えていって、最後に残ったのがその配分。シュマイドラーのニュークレオラスっていう名前もあるわ」

「……ふーん」

「にしても、そんな考え方までこっちの神学者が取り入れてるとは驚きだわ。意外に日本人の影響力も大きいのね」

「え? いや、これはミッタが課題として出されたって話なんで、日本人は関係ないんじゃないの?」

「え?」

「え?」


 ふたりで顔を見合わせる。


「どういうこと? え、ミッタの課題ってこれなの?」

「師父さまから出された課題って言ってたぞ」

「てことはそれは、誰か日本人から教えられたとかじゃなくて、伝統的な神学の考え方ってこと?」

「まあ、そういうことになるんじゃないのか?」

「エリアムってユダヤ教圏だったっけ?」

「んなわけねーと思うが」


 ……不自然な沈黙が落ちた。


「ちょっと宗谷。ミッタがいる「師父さま」とやらの講義室、わかる?」

「前に場所を聞いたことはあるけど……まさか、行く気か?」

「ええ。案内してちょうだい」

「どうしたんだよ、中林。なんかおまえ、えらく慌ててないか?」


 言われて中林は、少し青ざめた顔で、こくん、とうなずいた。


「嫌な予感がするのよ。とても……嫌な、予感が」



--------------------



「ほう。主が話題の、ナカバヤシとやらか」


 大神殿、神学講義室にて。

 居残りの要領でミッタと一対一で講義していたその老人は、興味深そうにほほえんだ。

 対するミッタの方はものすごい顔を青ざめさせて、


「なな、ナカバヤシさんっ。ミッタが作業放り出して来たのは謝りますから、どうかここは穏便に……!」

「そんなことはどうでもいいわ。それより、ふたりに聞きたいことがあるから質問に答えて」

「は、はい?」

「遺産分配の話をしてたのよね」

「そうじゃ」


 答えたのは、老人――「師父」の方だった。


「概要は聞いておるかの? 借金を残して死んだ者の遺産を分配する話じゃ」

「100だったら均等分配、300だったら比例配分、200だけ変な方法ってことよね?」

「そうじゃ。課題は250をどう分けるかだったのじゃがな。この馬鹿弟子は答えられなかったので、今度は350で出すことにしたのじゃ」

「そう。確認するけど250のときの正解は50、100、100でいいわよね?」

「……ほう」


 老人の目が狭まった。


「ようわかったのう。数学者とやらはその種の計算法則も簡単にわかってしまうものなのかの?」

「そんなわけがないでしょ。単に知ってただけよ。

 それより私が知りたいのは、その話の出所よ。いったい、どういう事情でこの分け方が神学に出てくるようになったのか、歴史的な経緯を知りたいわ」

「難しいことを言うのう、主」


 老人は困った顔をした。


「そうさな……儂が若い頃には、こんな議論はなかったのう。だいたい2、30年くらい前に、自然発生的に、エリアムで広まっていった考え方じゃ」

「タルムードという言葉に心当たりは?」

「聞いたことがないのう」

「じゃあ、次の話は知ってる? 一つの布を奪い合ってるふたりの人間がいて、片方は布は全部自分のものだと主張していて、もう片方は半分が自分のものだと主張している。このとき、最初の人間には布の4分の3を、次の人間には4分の1を与えなさい……っていう」

「知らんの。じゃが、たしかにそれは、先の遺産分配と同じ考え方に見えるのう」

(……ああ、たしかに。「自分のもの」と思ってる分から4分の1だけ、お互い損してるな)


 心の中で俺は思う。そういう意味ではたしかに、中林の話は遺産分配の話と同じルールだ。

 しかしそれより。


(なんで中林は、顔を真っ青にしてるんだ……?)


 そちらのほうが異様で、気になる。


「おい……中林。そろそろ種明かししてくれてもいいんじゃないか? いったい、なんでおまえはこの話に食いついてて、なにが気に入らないんだ?」

「宗谷。私がフェルマーの最終定理を1年以内に解けと言ったとき、あなたは無理だと言ったわよね?」

「え。ああ、まあ……」

「それはなぜかと言えば、解決に360年もかかった問題だから。そういうことよね?」

「うん。そう、だけど」

「じゃあ、これはなに?」


 中林はいらだたしげに吐き捨てた。


「どうして! 2000年間誰にも(・・・・・・・・・)解けなかった問題(・・・・・・・・)の、その答えだけがエリアムに落ちているのよ――しかも、わたしたち地球人類が解いたのとほぼ、同じタイミングで!」

「…………」


 俺は、言葉を失った。


「その……本当に? これは、そういう問題なのか……?」

「タルムードの遺産分配問題――バビロニアのタルムードと呼ばれる、預言者モーセが作った法を記述した法律集。その中にあるこの遺産分配法は、2000年もの間、誰にもその法則がわからなかった」


 中林は、唇を震わせながら言った。


「あるとき、ロバート・オーマンとマイケル・マシュラーというふたりのユダヤ人の研究者が、タルムードの別の場所に布を奪い合うふたりの問題が記述されていることに気がついた。この記述と同じ考え方で遺産分配問題も解決できるんじゃないか――そう予想した彼らは、しばらくしてその結果を肯定的に解決する。遺産分配問題は、「ゲームの理論」と現代で呼ばれる20世紀数学の一分野で、「シュマイドラーの仁」として知られるルールを適用することで、完全に説明することができたのよ。これが論文として発表されたのが――」


 中林は一瞬、言葉を区切って、


「1985年。いまは2017年のはずだから……およそ30年前(・・・・・・・)になるわ」


 …………

 なんと言っていいか、わからない。

 わからないけど、しかし。


「じゃあ、まさか……」

「すぐ考えをまとめるのは早計よ、宗谷」


 中林は釘を刺した。


「まだ可能性はいくつもある。だけど……そうね。認めなければいけない。

 この状況は不自然よ。タルムードの考え方をオーマンとマシュラーが暴けたのは、「布の奪い合い」の記述というヒントがあったからよ。そのヒントの方はエリアムに伝わっていない、それにタルムードもエリアムに伝わってはいない。にもかかわらず、タルムードの遺産分配問題と、その解だけがエリアムに存在している。しかも――そのタイミングはどうやら、地球人類がその問題を解いたのとおおむね、同じタイミングらしい」


 中林は、青白い顔のまま、うめくように言った。


「偶然とは思えない。これはなにか……なにかの、爪痕よ」



--------------------



「言うだけ言って、さっさと帰ってしまったのう」

「もー! ナカバヤシさんはいつも勝手なのですっ。最初に来たときは師父さまに無礼を働くかとひやひやものだったのですよっ」


 講義室に残されたふたりは、そう口々に言った。


「まあ……な。ちょっと、特殊な事情だったからな。勘弁してやってくれよ」

「ふむ。あのナカバヤシとかいう小娘、太陽の国に帰りたいのか?」

「ええと、そうなんですよ」


 ミッタの師父さんの言葉に、答える。


「なにぶん、そういうわけでその、祖国と関係する情報にはナーバスでして。ちょっと驚いたかもしれませんが、勘弁してやってください」

「かまわんよ。儂も、あの遺産分配問題が太陽の国で知られておるというのは、新鮮な情報じゃったからな。

 それに、故郷を思う気持ちは、人間として自然な感情じゃよ。そのための手がかりがあるとなれば、そりゃあ、あれくらい慌てるのも無理もないわい」

「そう言ってもらえると、助かります」


 俺は頭を下げた。

 師父さんはあごひげをさすりながら、


「それにしても、儂が聞いてたナカバヤシとやらの噂とずいぶん違う人格じゃったのう」

「え、というと?」

「嘆かわしいことに、儂には人の悪口ばかり言う不愉快な同僚が複数いてな。奴らによると、ナカバヤシとやらは外様でいきなり来て調子に乗ってて、このままエリアムを乗っ取る気なんじゃないか、という話じゃった」

「…………」


 そこまで言われてたんかい。


「じゃがナカバヤシは実際には故郷に帰りたいという。苦労するじゃろうにのう。儂が聞いた限り、太陽の国とやらはいま、戦乱状態でひどい有様だそうじゃよ。帰るのも一苦労なら帰ってからも一苦労じゃろうに、それでも帰るというのかのう」

「そういう奴なんですよ。どうしても、帰らないとできないことがあるらしくて」


 俺は言ったが、ふと気になって尋ねた。


「ところで、そういう太陽の国の事情って、有名なんですか?」

「ああ。まあ大神殿内部では有名じゃよ。なにしろ積極的に情報を集めておる奴がおるからのう。そいつと話していれば自然と話題に上がるという寸法よ」

「ええと、そのひとって……」

「うむ」


 師父さんはうなずいた。


「ミツヒロという、ティア・マリイのお気に入りじゃよ」

【シュマイドラーの仁】

タルムードの遺産分配問題は船木先生の「エコノミックゲームセオリー」という名前の本にものすごく詳しく書かれています。が、前に指導教授のゼミで僕が教科書として注文したときに在庫が尽きてしまって、いま絶版なんじゃないかと思うんですよね……もったいない。いい本なのに。


少しだけ解説すると、まずミッタの説明はかなり間違ってます。

中林も専門家でないため、彼女の解説もちょっと微妙です。数学的に間違ってはいないのですが、タルムードの遺産分配問題は仁ではなくてべつの概念で説明したほうがよい、という意見が、最近は主流のようです。仁と一致するのは、凸ゲームだから起こった偶然、という話でした。

この問題は「再交渉で変化が起きない」という考え方をすると、すっきり理解できるようです。いったん50、75、75という分配で決まった状態から、50もらった一人目と、75もらった二人目が、互いに不満を言い出してけんかになったという状況を考えます。このとき、ふたりの持つ合計金額は125です。一人目が権利主張できるのは借金の額である100までなので、一人目は25をまず即座に二人目に譲渡します。そして、残りの金額について均等に分ける……と、結局元の分け方になってしまう、というわけです。


なお、この「仁」という訳語をつけたのは中山幹夫先生なんですが、これについては彼の退職記念講演で聞いた面白い逸話があります。が、それは第三部が終わった後にブロマガで書く長いあとがきで書くことにします。

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