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龍王転生!! ~ぽてくて道中記~  作者: あんころ(餅)
一章「龍王様の御成り」
4/4

〔3〕 う、美しい…………ハッ!

     〔3〕


 とってもお綺麗ですぅ、などと言われて。

 バルダンディアは困惑していた。だが、その言葉の意味が理解不能というわけでもなかった。


 なんというか、嫌な予感はしていたのだ。ときおり視野に映り込む己の前腕、その細くすらりとした姿態から。肌身は日焼けしたこともないような色白ながら、健康的な血色も伴いつつシミやホクロの一つもなく。そして手指から爪先にかけては繊細ながらもしなやかに、形よく艶やかに伸びている様子まで。

 気になっていなかったと言えば嘘になる。また、不可解だった点は他にもある。身を動かす度に()()()()を感じる、胸元の妙に豊かな柔らかい膨らみ感も。細く引き締まった腰つきの、内臓どこいったのか不思議に思うほどの()()()具合も。そして、股脚の動きにかかる()()()()()の抵抗が全くないという、感覚の。一つ一つが。

 総じてはもたらす、あな恐ろしき予感の至りよ! おお、いつまでも無視しえたならどれほど幸いであったろうか……


 しかし、名目たる緊急事態は既に解決を果たし。いいかげん目をそらし続けることも限界というものだった。ならば真実に向き合っていくべき時が来たのであろう。(人様からの言葉でも言い表されてしまったことだし……)

 実際のところは、龍王としての知覚力を少々開放してやれば、自身の客観視とてバルダンディアには可能であった。それが一番手っ取り早くはあるのだが、しかしさすがにそんなことで自我意識への負荷を受けたくはなかった。もっと慣れた後なら問題ないかもしれないが、今の時点では早計である。

 よって、ごく普通に鏡を見るなりして確かめてしまいたいところであった。果たしてこの地に鏡や姿見の類いが有るものかは知らないが、龍体だった時に周辺地形探査を走らせた際の情報取得記録の中にはそれらしい反応の構成物があった気がした。それも近い位置、この地下空間の地上部に建つ石城の内部において。となれば後は、現地の住民らしき目の前の長耳なお嬢さん――ポリエル嬢に、まずは尋ねてみればよい。


 バルダンディアは声に出して問いかける。男口調のままで。しかして天上の調べがごとき美しき音色を響かせながら。

「あー、えぇっと……。君が言っているのは、わたしのことかな? ポリエルさん。だとしたらそのことに関してはちょっと疑問があって、よければ一度姿見の類いを使わせて欲しいのだけれど。案内を頼めるかい? ああいや、それ以前に――」


 そこで一旦言葉を切って、バルダンディアは姿勢を整える。片膝をついて屈んだ姿勢から、両膝をきっちり揃えて折り座った、すなわち正座の姿勢へと。真摯な眼差しをもってポリエル嬢の水色の瞳を見つめる。

 ポリエル嬢はぴくりとかすか震えるような反応こそあるもののいまだ呆然としたままであったが――というか、ますます忘我の体でうっとりと頬を紅色に染めつつあるようなのだが気のせいですよね? そうきっと気のせいですよハハハ――ともかく、バルダンディアは意気を締めた姿勢と声音で言葉を続け直していく。


「まずは自己紹介からあいさつすべきだったね。わたしは君がバルダンディアと呼ぶ存在、その人型に化身した姿となる。改めて、はじめましてポリエルさん。そして……」

 そして両の手もまた膝の前方で地に着けて、綺麗に三角を描くそこへ勢いよく頭を下げるバルダンディア。話の切り込みをつけるためにも、まずはインパクト重視で謝罪しておくことにしたのだ。すなわち――


 偉大なりし龍王、天頂たる君臨者が世に初と示す、渾身の土下座(ゲザ)披露であった!


「先ほどはうっかりと君を殺しかけてしまってすんませんしたぁぁぁぁぁ――ッ!!!」

 したぁー、たぁー、ぁぁー、と残響音を含んで響くその宝鈴のような美声は、地下空間たる大広間中に長く尾を引いて余韻を震わせた。


 そうして最後の一震えまで、響き渡るものたちが消えゆき。

 やがて静寂を取り戻した地下広間には、ひたすらに沈黙の間だけが満ちていた。


 ポリエル嬢が黙ったままで反応しないからだった。一方バルダンディアについては謝る側であるため自分からは動かず、頭を下げたままゲザポーズ(土下座)継続中である。

 ようよう、数十秒と経つころ。言葉の意味が頭に浸透できてきたのかポリエル嬢の表情が改まっていく。瞳の焦点が絞られ、頬は引きつるように片歪みし、長い耳がその先端を上方へ向けてピンと張るように立って。

 すぅぅ――、と大きく深く息が吸われていき…………それが限界に達しただろう頃合で、肺一杯に溜めた空気を全力で吐きつくすがごとき勢いのまま、ポリエル嬢は大音声を発してくるのだった。


「え、ええええええええぇぇぇぇぇ~~~~~!? バルダンディアさまぁぁ~~~!?」

 口元を両手で押さえて身を引くようにしながらも、なお大広間の隅々にまで鳴り響く、張り裂けんばかりの叫声であった。






 何やかや。

 あれからバルダンディアは言葉を尽くしてポリエル嬢の説得を試み――興奮状態のポリエル嬢をなだめ、事情を説明した上で改めて丁寧に謝罪し――ようやくに理解が及んだかと思えば今度は恐縮のあげく平伏してしまい、しかも畏れ震えて縮こまった末に涙まで流し始めたポリエル嬢を、またぞろ様々に言葉をかけて(うかつに触れては危ういので)なんとかあやして――そうした諸々の果てに地上への案内と姿見の使用を取り付けた際には、ゆうに一刻(約2時間)を超す時間が経っていた。


 なんというか既にぐったりと色々疲れ果てた気分満載のバルダンディアであったが……。しかしその肉体はさすが龍王、無尽の体力をもって疲労を知らぬがごとしであったため、精神面の都合さえ折り合いがつけば行動力には支障なかった。

 今、バルダンディアたちは地上へ続く長い長い階段を登り終え、上がった先である石造りの大城が内部をポリエル嬢に案内されつつその城内階段も登って行き。そして、三階に位置する豪奢な一部屋へと至っていた。




「おお、これはすごいな」

 部屋の扉を開いて中を一見した際、思わず感嘆の声を軽くもらすバルダンディアであった。


 広々とした間取りの中、高級感を備えながらも華美すぎず品よい家具と調度が余裕をもって配置されている。床には深緋色を基調とした緻密な文様織り上げの絨毯が敷き詰められ、その深々とした起毛は足首まで埋まりそうだ。

 また、入口から見て奥側の壁は大きく切り取られて窓となっており、左右だけでなく上下も足元の高さまで開けていた。窓の先はまた広くバルコニーとなっているようで、ちょっとしたお茶会くらい催せそうな余裕が見受けられた。窓周りには薄絹のようなカーテンが引かれており、ゆるく風になびく布地が昼下がりだろう強めに差すはずの陽の光を柔らかく透かし、室内の明るさと涼やかさを程よいものと落ち着けていた。

 そして本命の姿見がもちろん設置されており、他の化粧台らしき一式などと共に部屋の一角に据えられていた。

 総じて、元は地位や立場の高い婦人が使うための部屋ではないかといった印象であった。ただしポリエル嬢の話を聞いた限りでは現在は使われていない部屋と城であるとのことだったが……(実際にも城内に他の人物一切の気配はない)


 ポリエル嬢が案内の言葉を述べてくる。まだ少々緊張の宿るように畏まった所作も伴いながら、同時、いくらか赤面の残る相貌に生じる恥じらいを隠すかのように。

「い、いかがでしょうか。こちらの部屋なら、ご所望の要件を満たせるかとっ」


 突っ張った意気のためか動作が少し大げさで、勢いのよい振り返りとともに発せられた言葉であった。その際、ポリエル嬢の肩からまわし掛けられたヒマティオン状のローブの長裾が風を切るようにひるがえる。白色の地布が部屋に差し込む薄日を波打つように照り返し、のぞき見える肩肌や腕肌の浅い褐色をした健康的な色艶との対比がなんとも目に映えるところ、加えて(ふち)取りなどに施されている装飾がまた鮮やかな色味の踊りを添えていた。

 バルダンディアは、そんなポリエル嬢のかいがいしい務めぶりに目を細めながら、あえて気安い口調で言葉を応じていく。


「うん。十分だよ、ありがとう。さっそく鏡を使わせてもらえるかい?」

「は、はい。一番大きな、全身を見定めやすい姿見はこちらです」

 そうポリエル嬢は答えながら、部屋の片奥、化粧台などが据えられた一角へとバルダンディアをいざなう。


 小走りのように()()と歩を運ぶポリエル嬢は、立て置かれた一人分幅の姿見を……スルーして、その奥の壁面というか引き戸のようになっている木板を左右に大きく開く。すると、内側には綺麗な鏡面が設置されており、その光源反射率は科学技術の産物に勝るとも劣るまい。また、幅広さも大層なものであり、大人が五人は横に並んでも窮屈しない、あるいは三人が両手を広げて立っても余すところなく全てを映せそうであった。高さにも余裕があり、背伸びして手をめいっぱい上げ伸ばしても上辺には届きそうもない。身長の倍とまでは言わないが……ひょっとしたら、純粋に人体の規模で使うためのものではないのかもしれない。

 ともあれ、この壁面鏡であれば、全身をくまなく検分するに不足はない。また光源に関しても、窓から差す日が斜め後方から丁度よい角度で照らしてくれているため、陰になり見えづらいといったこともない。


 バルダンディアは覚悟を決めるように息を一つ大きくつくと、グッと顎を引き締めた顔持ちで数歩を前へと出で進める。

 そうして見やる、鏡に映ったバルダンディアの人型たる姿は。


 髪は長く伸び、腰の下ほどまで届く。色合いは翠玉色(エメラルド)で、透き通るようでありながら深みのある色の鮮やかさもあわせ持っていた。髪質はゆるくウェーブを帯びており、特に腰のあたりからの末端部ではふわっとした波打ちが顕著で、そして毛髪の一本一本が毛先になるほど細まってゆき宙に溶けるようにして見えなくなる。この髪が軽やかなるまま風になびく度、しとやかに踊るように、艶めく翠玉の虹がその移ろう様を映えさすのだった。

 瞳は、力強く奥底から輝くような金色(こんじき)をたたえている。どこまでも見通すような透徹さと、深淵を覗き込むような底知れなさ、そして何事も愛しく包み込むような大らかさを同時に感じさせる、はるか人ならぬ域の神仙がごとき瞳眼であった。どうやら瞳孔の作りからして純粋な人間のそれとは異なるようで、積層多重虹彩とでも表現すべきだろうか、一口に金色と言っても幾重にも色相をまとっており、濃淡明暗の変化を複雑に醸していた。ちなみに元が龍の眼だからといって縦目であったりということはない。


 身長は、センチメートル換算だとおおよそ百七十と少しといったあたりだろう。年の頃は一見しては十八歳から二十歳ほどに思える。また身をくるむ衣装は、ポリエル嬢のヒマティオン状ローブにも似た、まるで古代ギリシアの女神がまとう装束のように軽やかながらも壮麗にして豪奢という装いだった。布地は明るめの翠玉色を基調としており、どうも、これは髪などとあわせて龍体時の鱗から変化したものであるようだ。なお、足元は革紐を編み上げたようなサンダル履きである。

 また、首や二の腕は細く、繊細な身のように思えながら、胸や尻は豊満さを惜しげもなく呈している。かといって膨れすぎて奇形ということもない、しなやかな筋肉の引き締まりを内に秘めて思わせ、ひいては健康的な躍動感をも見てとらせるものであった。重力に逆らう小生意気な上向き具合までそなえている。


 唯一、「人間」としての姿から明らかに外れた見た目の要素があり、それは頭部に生えた角だった。宝石のように透明さと色深い輝きをあわせ持った黄玉色(トパーズ)の双角で、両のこめかみの上あたりから生えている。形状は、鹿の角のように枝分かれしているが龍体だった時と異なり雄々しさよりも丸みや柔らかさが表れており、高貴な威風だけでなくかわいらしさも不思議と同時に感じさせた。ちなみに、この角まで含めた“全長”となると、こっそり二メートル近いかもしれない。

 そして全身がきらめくように、あるいは後光が差すように、細やかな光輝を帯びていた。まるで内からとめどなくあふれ出るかのごとく、その存在の位階が圧倒的な高みにあることを物語る。こうした面も含め、容姿こそ人体のそれに近く理解の及ばぬ異形といったことはなかったが、しかし決して人間そのものではないと一目瞭然でもあった。あえてこの化身の様を一言に表すならば……龍人、とでも言えようか。


 さて、そんな己の姿をじっくりたっぷり見定めてしまったバルダンディア当人はというと。

 わずか震えを宿す声で、ただ一言、


「ふつくしい……」

 と、放心するような体もそのままに、口からこぼれさせていた。


 はい、見惚れちゃってました☆




 バルダンディアが正気を取り戻すまで、結果として十数分ほどを要した。

 その間、脇で大人しく控えていたポリエルであったが、視線に含まれるものが段々と生暖かさを増していったとしてもむべなるかな。なにせ己が美貌に見入る陶酔者の図だ。漂う残念感ばかりはいかんともしがたい。しかしナゼかその見やる視線の内には若干の共感性も垣間見えていたりなんかして。


 わりと唐突に、止まっていた息を吹き返すかのようにバルダンディアが声を発する。

「――ハッ!? わ、わたしはいったい、何を……? わなわな」

「わなわなとかご自身で口にされちゃうんですね……」


 横合いからポリエル嬢がなぜか少し呆れたような声をつぶやいていたりする。ナイスツッコミ! ってあれ? この子ったらフレンドリーさが妙にマシマシてます? ナンデ? お堅い気の張りがようやく取れてくれたのであればそれはバルダンディアにとっても喜ばしいことであったが、ちょっと意味不明というか納得しがたいというか一言でまとめると……


「解せぬ」

「何がでしょう? あ、いまお茶をいれますから、ぜひこちらのテーブルへどうぞ」

 バルダンディアの脈絡ない発言を軽やかにスルーして、ポリエル嬢がてきぱきとティータイムな一時の場を整えていく。これまで居た化粧台関連の奥まった一角から離れ、窓際に近く日の明るさが差す広めのスペースへ。そこに上品な丸テーブル一つと背もたれの立った椅子三脚が置かれており、誘われる。それにしても素晴らしいスルー(ぢから)だったすばらしい。


 バルダンディアが椅子に寄って座ろうとしたところ、ポリエル嬢がわざわざ回りこんできて椅子を引き、着席を補助してくれる。

 これに対しバルダンディアは椅子に優雅な所作で腰掛けながら、背後へ礼の言葉を述べる。


「ありがとう、ポリエルさん」

「いえっ、そんな、とんでもないことです。それとどうか、あた――わたくしのことはポリエルとお呼び捨ていただけますよう」

 途中で言葉を詰まらせるようにして言い直してくるポリエル嬢であった。

 バルダンディアはもちろんその意味に気づいていた。軽い苦笑とともに言葉を応じる。


「君もわたしに対して普通に喋ってくれたら、ね。どうかなポリエル()()

「ええっ!? う、その……とてもおそれ多いことですので……」

「わたし自身にとって、その方が嬉しいんだよ。この場にたった二人きりだし、誰の目が咎めるわけでもないでしょう?」

 斜め後ろへわざわざ身をねじるように振り返って言葉を伝えるバルダンディア。真摯な言葉であることを示すためだった。身の動作を、それも窮屈な思いをするものまで伴ってということは、それだけ相手のために労を尽くすこともいとわない意志の姿勢を示す。言外の説得力(ボディランゲージ)とはこうしたところが存外に影響するものなのだ。

 受けてポリエル嬢は戸惑うように数呼吸ほどの間、目と顔を左右に迷わせていたが、その様を静かに優しく見守るバルダンディアの視線に気づいたのか、やがて決意をまとめるように息をつくと、凛とした声音で答えを述べ始める。


「わかり……ました。その、()()()は本当はこんな程度の者ですが、どうか、ご容赦のほどを。よろしくお願いいたします、バルダンディア様」

「うん。こちらこそよろしくお願いします、()()()()

 そのポリエルの返答に、バルダンディアは満足げにうなずきながら応じた。名の呼びが様付けあることにまでは頓着しない。なにせ長年の崇拝対象だったそうなのだから、そこまで強いてしまうとかえって苦しめるだけだろう。それでは気遣いとは言えない。

 バルダンディアは片手を伸ばし広げて斜め前方の席を指し示すと、続けて声をかける。


「さ、ポリエル、君も席について。お茶は一緒に楽しもう。話しておきたいこともあるしね」

「あうぅ……はい。そのぅ、失礼します……」

 上目づかいでうかがうようにしながら、たどたどしく応諾するポリエルであった。テーブルをしずしずとした歩みで回りこむと、空いている一席を両手で丁寧に引いて、浅くちょこんと腰かける。

 と思ったら慌てるように立ち上がりなおすと、お茶をティーポットから二つのカップへ注いでいくポリエルさん。そういえばまだ準備しただけでしたねドンマイ!


 ちなみに火の気のない部屋の中でどのように湯などを用意したのかというと、茶器一式がそれぞれ魔導具――魔法の力を誘導する回路を刻まれた特殊用具であるようだった。こうした面に関してはバルダンディアの眼からすれば見ただけですぐ分かるものだ。少量の魔力を注ぐか組み込まれた魔力結晶の類いを励起するだけで清水を湧出し、あるいは熱量を与えて湯を沸かす。なかなかに細密かつ高度な魔導回路の刻まれた逸品と見受けられた。他に比較する物がないのでなんとも判断しづらいが、ひょっとするとけっこうな高級品ではなかろうか。

 また、単純に美術品としても、値打ちがずいぶんと高そうに思える。例えばティーカップ一つとっても、磁器製であるのだが、細作りの持ち手まで一体成形されている。これは製造がとても難しい技術分野ではなかっただろうか。地の色も見事な雪色めいた白磁の上に、薄紅の釉薬(ゆうやく)と金細工が曲線的に施された優美かつ上品な装飾であった。正直言ってもし落とすなりして割ったらと思うとコワイ……かも。


 そうしてカップに注がれたお茶は、透き通りつつもわずかに茶緑色を帯びたもので、しかしその色味の薄さに反して香気の立ち上りはしっかりとしたものを感じさせた。この具合からは紅茶や緑茶といった類いではなく、どうやらハーブティーの一種であるようだった。

 バルダンディアは、その白魚のような指先でティーカップの取っ手を繊細につまみ持つと(身体動作の力加減に関してはここ数時間の動き回りでこなれてきていた)、口元のあたりまで持ち上げてまずは香りを一嗅ぎした。思わず感嘆するように言葉がもれる。


「いい香りだ……」

「ありがとうございます。あたしたちの一族に代々伝わる香草茶なんです、これ」

 そう応じるポリエルの言葉は、微笑みながらも何かをしみじみと噛み締めるかのごとくであった。視線も少し遠くを見るよう。

 バルダンディアは、そのポリエルの言葉には何を返すこともなく、ただ一言を告げる。秘められた意味を察すればこそ、軽々に触れるべきでないこともある。


「いただくよ」

 そうして口をつける。まず舌には酸味を感じるがさほど強いものではなく程よくおさまる。次いで口中に広がる香気が鼻まで駆け抜けていく。花や木の実もブレンドされているのだろうか、すっきりとした清浄さが一本通る中に、かすかな甘味のような余韻も響かせる。それが一飲みした瞬間のみならず、喉を通り終わった後に立ち戻る香気が変化をともないつつ爽やかな後締めを示し、見事な味わいを醸していた。心が安らぎ落ち着くような、それでいて集中力が改めて引き締まるような、飲む者の精神に優しい効能を思わせる味わいだった。

 くつろぎながらも真面目な話を交わそうとするこの場にふさわしい。バルダンディアは一つうなずくと、率直な感想の一言を述べる。


「うん、とても美味しいと思う」

「ありがとうございます。光栄です」

「お礼を言うべきはこちらの方なんだけどね」

 笑顔で礼の言葉を述べるポリエルに対し、バルダンディアはかすかに苦笑を浮かべ応じていた。


 しばしの間、互いにお茶を静かに楽しむ。

 場を薄く満たす香気の中、バルダンディアは内心の考えを手早く整理していく。ひとまずの事情などに関しポリエルにはどこまで説明するものかといったことも見極めておかなくてはならない。


 まず、自身の人化(化身)した体が女性と化している点に関しては、わりとすぐに推測がついた。「人化の術」を行使した際、性別や容姿に関する特段の設定を施さなかった(デフォルト(標準)のまま実行した)ためだろう。

 龍王バルダンディアは元来、その生体において性の別を持たない。いずこの時の始まりから存在する単体で完結した生命であり、親から生まれた身ではなく子を成すこともない(魔法を行使すれば子に相当する分体や眷属を無理やり生み出せないわけではないが必要性がない)。ゆえに性別なく生殖なく、種族にあたる概念すらない。


 だが“人体”には性別が不可欠だ。そして人体の“標準”性別は、雌性体、すなわち女性である。遺伝子的にも発達機能的にも優性と発現は女性因子が基盤にあって、何もなければそのまま女性になる。男性化を起こす場合には別途男性化の因子が加わる必要があるのだ。つまり人化の術においても、意図して「男性」の指定設定を施さない限りは、自動的に女性としかならないわけだ。

 ここに関する失念と想定不足が今回の事態を招いており、現在のバルダンディア(の中の人)にとって痛恨事ではあるのだが……。さらにやっかいな問題がある。中の人の意識上では男性自認であることと、再変身(化身のやり直し)は当分の間は無理だということだ。


 中の人の問題に関しては、ポリエルに対する説明が難しい。心の主体だの転生だの憑依だの、いったいどう説明すれば理解してもらえるものか。特に神さま周りの話はうかつに言及してよい事柄でもないだろう。そもそも何がどこまで本当のことであるのか、証明する手段がない以上は自身の認識すら怪しいものだ。たとえ今この時が夢見のごとくであれ、あるいはかつての生涯がうたかたなる記憶の彼方だとして。胡蝶の羽ばたきを誰が掴めると言うのか?

 再変身に関しては単純な問題だった。もう一度は耐えられそうにない。あの全てを押し流しかねない感覚の奔流、もし今あれを再び味わったなら、人格も意志の在り方も諸共に喪失し“龍王”の本能に溶けて消えることとなるだろう。そうなったら最後、単に自身の意識が消えてしまうというだけの問題では済まなくなる(もちろんそれ自体も深刻な問題ではあるが)。なにせ眠りから覚めてしまった荒ぶる大龍がその場に降臨を果たすわけで、目の前のポリエルどころか大陸の一つ二つは()()()に消し飛ばされてもおかしくないほどだ――あくびの余波などで。そんな破局を自らの手で引き起こすなど冗談にもならない。

 よって、何か別の手段を確保するか力の扱いによほど習熟が進むかでもしない限りは、今の姿のままで当面を過ごすしかない、のであるわけだが……


「はてさて、これをどう説明したらいいものかな……」

 その一言を思わず口からこぼしてしまうバルダンディアであった。さすがに頭を抱えながらということはなかったが(気分はそれに近しいものがあったとはいえ)、顎元に手をやり考え込む体はとってしまっていた。

 それらを見聞きしたポリエルが気にしないわけもない。当然尋ねてくる。


「えっと、すみません、何かお気に障ることでもありましたでしょうか?」

「いや――。すまない、こちらの事情をどんな言葉で表したらいいものか、上手くまとまらなくてね。君やこの場に問題があるわけじゃない。思わせぶりであったなら、申し訳ない」

「いえっ。そんな、すみませんこちらこそ、勝手な勘繰りを……」

「いやいや。このくらいのこと気にしないで。あー、だからつまり、話の本題はだね」

 詫びの応酬がどこまでも際限なく続きそうであったため無理やり切り上げ、バルダンディアは勢いのまま本題に取り掛かってしまうことを選んだ。

 そして結局、分かりやすいだろう事実だけを端的に伝えておくこととした。すなわち、龍王には元来の性別がないこと、急いで人化するため細かな調整を飛ばした結果として今の姿と状態があること、現状を確かめる一助に鏡を使わせてもらったこと、化身のやり直しは当分の間はするつもりがないこと、などである。


「……と、いうわけでね。人化した理由は地下でも説明させてもらった通りだけど、さて一万年以上もの永きに渡って眠り続けていたためか、はたまたその間に見ていた夢の影響か、どうにも意識のあり方にいろいろと変調もあるみたいなんだ。あまり急いて()()()()とどうなってしまうか自分でも保障できない危うさがあって、今の状態で落ち着けているならしばらく様子を見ておきたい。どうかな?」

 静かに言い並べ、最後の問いかけは片手の平を上向かせテーブルの上で軽く招くようにしながら言葉を渡すバルダンディアであった。

 受けてポリエルは、軽く混乱気味であるのか頬に手を添え斜め上方を見やるようにしながら、ゆっくりとした語調で言葉を返し始める。


「えぇと……? つまりバルダンディア様は元々は女性ではなくて、でも予想外の事故のような形で今は女性になってしまわれた、と。あ、だから、仕草やお言葉の使われ方とかが、なんというか、その……」

「女らしくない、もしくはあべこべな感じだった?」

「あ、はい、そうです。……そのぅ、失礼だったらすみません」

 長い耳を力なく垂れさせて上目づかいで詫びてくるポリエルに対し、バルダンディアは軽く手を振りながら問題ないよと伝えて済ませた。

 続け、ポリエルは気張って身を起こし直すようにしながら、言葉を足してくる。


「そのっ! ……えっと、化身されたお姿で当面を過ごされるのでしたら、その間に使われるお部屋や寝所はいかがいたしましょう? 今いるこの部屋にも隣に続く寝室などあります。もっと上位の部屋もあるにはあるのですが……あたしたちの持つ権限だと立ち入られなくて、今でもどうなっているかが分かりません。バルダンディア様なら開錠できるでしょうし、ここが大丈夫な以上はそっちも大丈夫だとは思うんですが……」

 最後を尻すぼますようにして、言葉の間を置くポリエル。受けてバルダンディアは、小首をかしげるようにしながら問いを返す。


「ふむ……。権限に開錠、かい? それはこの城の機構に関することだよね? 人の気配がないわりには綺麗に保たれていることと関係あるのかな?」

 バルダンディアの見る限り、この石城の全体、今いる部屋にも通ってきた廊下や階段にも、魔法の力が込められていた。茶器一式が魔導具であったように、城の建材や基部においても表裏に複数種の魔導回路が刻まれていると見受けられた。かなり大規模であり、もしこれを人の手で全て施したのであれば幾十年の工期でも終わらぬまさに世紀の大工事と呼ぶに相当するものではないかと思われるが……

 術式の内容はおおむね状態を保存保全する系統であり、一部では自動修復の機能すら備えているようだった。なるほどこれなら、人手がなくとも永の時を朽ちることなく保ち続けることも可能であったろう。なにせ動力源となる魔力、地脈の力がこの土地では枯れること知らずに溢れている――地底で眠っていた龍体のバルダンディアが垂れ流していたのだから。

 なんとなく皮肉な思いも湧き上がる中で肩をすくめるような気分のバルダンディアだった。

 ポリエルが真面目な声音で答えを返してくる。


「はい。えっとまず、このお城はかつて大魔王城と呼ばれていた拠点の、いわば遺跡です。機能こそまだ大半が生きていますが……。一万年以上も昔の魔導文明期、その末期における世界大戦と『大厄災』によって失われてしまった高々度の魔導技術が、この城の設備と用具には残されています」

 そこで一旦ポリエルは言葉を切ると、息を継ぎながらティーカップを両手でそっと包むように持って温んだお茶を薄く一口、喉を湿らせ直してから説明を続ける。


「細かな経緯はひとまず省きますが、城主として最上位の権限を持っていた存在は先代の『大魔王』でした。ここ内海央島を中心とした一大勢力の統領でもあります。しかし、大戦末期において降臨されたバルダンディア様へと挑み、返り討ちにあった……と言い伝えられています。それで、先代様は武威の方であり、また魔族の伝統として『より強きものが王たるべし』との思想から、当代を正当に打ち負かした者が次代を継承する、という制度をとっていたと。その結果……」

 もう一度言葉を切り、テーブルの上にそろえた両手で右から左へ何かを運ぶように示しながら、ポリエルは説明の締めを述べていく。


「おそらく、ですが……。現在の城主権限者はバルダンディア様ではないか、と。空座ではない根拠として、先代様が身罷(みまか)られて後に上位の権限を再設定できた者はいなかったそうです。無理やり術式に干渉するような行為は眠りにつかれたバルダンディア様を刺激して万一にも揺り起こした場合が恐れられ、手出しできなかったようでして。結局、環境が変化したことからの影響もあって、大部分の者たちがこの城と島を去って行きました。あたしたち一族は、その、当時、城主位が代替わりする以前は下働きのような形で城に出入りしていた身であったらしく、下級の権限しか持たないことや管理の煩雑さなどから権限の継承が氏族単位で任されていて、城主の再認証は特に要さず立場を保つことが可能でした。まだ門守りの使命が定まる前のお話なのですが……」

 言葉の最後を恥ずかしがるように小さく言い添えるポリエルであった。(なお、やはり長い耳を力なく垂れさせ気味だったりした)


 バルダンディアは大きなうなずきを一つ返しながら、まずは短く了承の意を述べた。

「なるほど」

 そして続ける。

「城の由来に関しては承知したよ。もっと細かな事情や城内の把握については、後日にゆっくりとでも進められたらそれでいいかな。当面の暮らしに使う部屋についても、この部屋あたりでぜんぜん構わないさ。大丈夫、問題ないよ」


 そもそもが寝室だのと言ったところで、“この身体”にとって横になり休むことが必要かといえば大いに疑問の募るところではあった。とはいえ全くの無休憩では、体力はともかく精神の方が保つかどうか分からない。落ち着いて気を休められる部屋の一つくらいはあってもよかろう。

 そこでふと気になったかのようにして、バルダンディアは一つ問いかける。


「これを聞いてしまってよいものか分からないのだけど……。ポリエル、君はこの城に暮らしているのかい? たぶん違うんだろうと思うけれども、もしそうだとすると今後の落ち合いなどはどうしようか」

 違うと思った理由は、ポリエルの所作、案内や用具の扱いといった行動の節々から観察できる雰囲気によるものだった。とても自らの“家”として帰属している風ではない。なんというか、客の身でさらに客を迎える、もしくは勤め先で賓客をもてなしているかのような緊張感や繊細さが、絶えず見て取れるのだ。あの豪奢な祭司服めいた衣装も、明らかに着こなせてはいないから普段はもっと違った形の生活を送っているのだろうと。

 ポリエルが細かくうなずきながら答えてくる。


「あ、はい。この城ではなく、山を半刻少々下ったあたりの森に氏族の里があって、そこで暮らしています。でもその、この城にも使える部屋がありますし、大丈夫です。バルダンディア様に極力お供させていただきますっ」

 後半は気合が乗ったものか、胸のあたりに引きつけた両手こぶしを小さく握り締めながらであったが。

 バルダンディアはそれにくすりと笑みの浮かぶ含みを味わいながらも、重ねて問わざるを得なかった。


「ありがとう。でも、うーん、生活面には本当に支障ないかい? 食べ物だってわたしは無くても基本的に問題ないけれど、君はそうもいかないだろう?」

 この心配は当然の推測だった。森暮らしとなればその日の食料を調達するだけでも普通は半日仕事、他の雑多な働き事も合わせれば一日の内に自由時間などそうそう取れるものではない。はずだが……

 ポリエルは快活に答えてくる。


「そこも大丈夫です! あたしたち森妖精族はあまり大食を要しませんし、なんといってもこの島の森は実りが()()()()()なんですよ?」

 特に最後の言い様が何かいたずらを仕掛けるかのように茶目っ気を含ませたものであった。

 応じてバルダンディアは感心するような声を返す。


「ほう。それはぜひ、一度見てみたいものだね」

「ええ、どうぞ近い内にでも。案内させていただきますので」

「楽しみにしているよ」

 微笑みながらうなずきを交し合う両者であった。


 ここで話を終えられたなら気楽であるのだが……。そういうわけにもいかない。バルダンディアは表情を改め、目を細めるようにしながら気遣う声音で追加の問いを言葉にする。


「すまないが、これも確認させてもらっていいかな。氏族の里、と言ったね。そこでの暮らしは……」

 その末尾を濁すかのような問いに、ポリエルもまた気まずそうに目を伏せながら弱く言葉を返してくる。


「はい、その……。代々の里であることは確かです。ただ、今も暮らしているのは、あたし一人です。元々、子のできにくい一族だったらしく、長命種とはいっても一万年の間に少しずつ次代が絶えてゆき……。ついにはあたしたち家族が最後の生き残りになったそうなのですが、その父と母も、もう……」

「そう、か……。それはすまないことを聞いてしまったね。申し訳ない」

「いえっ! そんな、どうかお顔をお上げくださいっ! 大丈夫です、その、もう何年もかけて慣れていますし、そうした独り暮らしですから身軽なものです。バルダンディア様に仕えさせていただいてなんの問題もないのでっ!」


 姿勢を正して深く頭を下げるバルダンディアに対し、ポリエルは慌てるように両手を細かく振りながら言葉を足していた。

 そんなポリエルに目を合わせ直してバルダンディアは、穏やかにただ一言を添えて返す。


「ありがとう、ポリエル」

「あ、うぅ……。はい、あの、こちらこそ……です」

 なぜかひどく照れたかのごとく頬を紅に染めて声を搾り出す体のポリエルだったが。

 バルダンディアはそこには言葉を表さず、静かに微笑みを返すのみであった。


 つかの間に柔らかな沈黙が場を包む。


 と、そこへたまさか吹いたのだろう強めの風がカーテンを揺らし、窓から室内へ空気の流れをふわりと吹き入れる。

 これに感じるところのあったバルダンディアは、ふむ、と一言つぶいやいた後、ポリエルへ提案の声をかけていた。


「気持ちのよい風だね。せっかくバルコニーがあるのだし、ちょっと外へ出てみないかい? わたしとしてもこの地の景色を見ておきたいしね」

「あ、はい! 分かりました、どうぞ」

 即座にうなずき返してきたポリエルは、先導するように自席を立つとバルダンディアの席の後ろに回りこみ椅子の引きなどをかいがいしく補助していく。そしてまたバルコニーへ出入りする大窓へと、案内を続けてくれるのだった。




 石造りのバルコニーは開放的に作られており、横幅にも奥行きにも余裕を感じさせた。

 丸テーブルの四つや五つは並べられそうで、バルダンディアが実際に足を踏み入ってみたところとしてもやはり軽いお茶会くらいなら催せそうな印象があった。

 外周には落下防止用だろう腰上ほどまでの(へり)壁と鉄柵が立っている。その先に。


 大地と空が広がっていた。


 まず緑の草原――というより高原と呼ぶべきか――が直近の一帯を占めている。この城は、島の中央にそびえる大山の裾野南面、おおよそ中腹あたりを開拓して建てられている。そのためだろう、標高が森林限界を少し超えているのか、城の周囲の土地には背の高い樹木は生えていない。

 次いでいくらか斜面を下った先の一帯には、森林が茂っている。森林層は大きく厚く、どこまでも延びているかと思わせるほどであったが、バルダンディアの優れた視力は更なる遠方も見定められた。


 森林層が途切れるほど先まで標高が下ったあたりでは、平原と丘陵がまだらな分布を見せていた。山と森から流れ出たのだろう河川の類いも幾本か見受けられる。さらにその先とまでなると地平線となって視線が地形に遮られており、南端は海に達しているはずだが海面は見えない。ということは、それだけ大地が広いことを意味している。やはり“島”と呼ばれど小大陸相当の面積規模がありそうだった。もし常人が徒歩で下ったとしたら、五日やそこらでは到底歩みきれないだろう。


 地平線より先は、空だ。果てなき空の領域。遠方では白い雲が薄く視界を塗り潰しているが、もっと手前の空では。

 蒼空だ。空が高い。天が高い。鮮烈なる蒼き天幕が頭上のはるか(いただき)より差し下ろす中、逆にいくつか浮いている綿雲には思わず手が届きそうだ。


 太陽は、既に午後をいくらか回っているのだろう、中天よりは傾きを得ていたが。なおもって高さを感じさせる角度から力強く日差しを地に下していた。初夏から夏至前の頃にかけてのような、まばゆく目を細めさせる光の雨と、長じれば肌を焼くだろう熱量。だが同時、高原らしい涼やかな風も吹き、総じては日差しに身が火照るばかりではない軽やかな心地よさがそこにはあった。

 なんとも爽やかな空気だと、バルダンディアは心弾むままに息を胸いっぱいと吸い込んでいた。


「いいね。うん。いい風の、いい日差しの、いい土地だ」

「ありがとうございます」

 率直に誉めそやすバルダンディアの声に、ポリエルが自分のことのように嬉しそうな笑顔で応じるのだった。


 バルダンディアは一つうなずきを返してから、地平の先の空へと視線を見やり直す。今日からここで生きてゆく。そう思えば、感慨の深さにはいくらでも思いの巡るところがあった。知らないことだらけのこの地で、己の足でいかに立ち歩むべきか。あるいは自分一人だけであれば途方に暮れていたかもしれない。だが今、一人ではない。それはとても幸運なことだった。

 一歩半ほどの斜め後ろのすぐ傍ら、当たり前のように控えてくれているポリエルに。思いの湧くは感謝の念ばかりであったが。しかし、そうであればこそ、憐憫(れんびん)のごとき情が察するところもまた禁じえない。

 バルダンディアは半身を振り返らせながら、慎重に尋ねる。


「このはるか広がる大地で……。ポリエル、君は。氏族の里では君一人と、だが、それ以外の人々もひょっとしたら、この島にはもう……?」

 少なくとも知覚と気配の感知する限り、他に人間らしきものの影や生活の痕跡らしきものを見受けることはできなかった。動体反応は鳥獣ばかりだ。(あるいは大型化しているらしき昆虫類もいるようだったが)

 ポリエルが静かに答えてくる。


「はい。あたしが最後の一人でした。賢い幻獣たちならそれなりにいますが……人型の知恵ある文明種族となると。少なくとも他に見かけたことはありません」

「そうか……」

 ならばバルダンディアが目覚めるまでの数年か数十年か、ポリエルは言葉を交わす相手もなく一人きりで生きてきたことになる。出会い頭の事故のようなものとはいえ、命の危険すらもたらした。実際に苦しくもあったはずだ。恐怖から忌避されてもおかしくない程であるのに、それでもバルダンディアから離れようとはせず今もこうしてそばにいる。むろん義務や使命に殉ずる意志も気高いのだろう。だが……

 それは他人が安易に断ずるべきではない。だがバルダンディアは思い及びえぬその先に、なおも馳せるところをとどめきれずに抱えて、深く呼吸を数度と繰り返す。


 やがて…………心の焦点が一定に結びつくところを見出したバルダンディアは、あえて声と表情を明るい笑みへと切り替える。過去ではなく今にいる。理解すればこそ、隣り合うことのできる「もう一人」となり得た己が見据えるべきは。

 後ろよりも前を向いてと。そして言葉に紡ぐべきこともまた単純だった。一歩ずつでいい。急ぐ必要などないのだから。


「決めたよ。まずは……」

 ポリエルの正面へしっかりと向き直り、目をまっすぐに見つめる。その深い水色の瞳が、揺れてたたえる何かもそのままに見上げ返してくる。

 微笑み、バルダンディアはそれを告げる。迎えるように少しだけ手を広げ伸ばして。


「まだ幾日か練習が必要だろうけれど。君と手を取り合えるようになりたい、そう思う」

 どこまでも蒼く高い空の下で。始まりを誓った。

 2013年09月11日、誤字脱字および細かな表現記述を修正させて頂きました。

 2013年09月12日、13日、細かな表現記述を修正させて頂きました。

 2013年09月14日、一部記述内容を修正させて頂きました。(荒野→丘陵)

 2013年10月25日、末尾の一文を修正させて頂きました。

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