第二章 主と従と(1)
お嬢に関わってから二日、記憶を失ってから二日。
その間、私の周りにはここが日本であることを忘れさせる異常事態ばかりが起きている。
色々と忘れてばかりだな、と自嘲したのは言うまでもない。
忙しなく流れる時間が私に身の振り方を考えさせる暇を与えず、とうとう記憶喪失のままで不本意ながら職まで頂いてしまった。
せめてもの救いは食事にはとても恵まれているという点だ。だが私は決して忘れることはないだろう。ごちそうさま、と言いながら北京ダックを全てその手に握って食堂を後にしたお嬢を。彼女が去った後、空になった皿を見て思わず契約書を破り捨てるところだった。
その契約書だが結局新しいものが用意され、私が直々にサインすることとなる。いざ自分で書くとなると抵抗があったが、雇い主があれでは改名を望むべくもない。
まあとりあえずそれは置いておこう。
当然の流れとも言えるがここで働くことが決まった以上、ともに働く者達との面通しというものがある。帯刀さんに案内され連れて行かれたのは、いささか広々としすぎている感のある使用人達の休憩所だった。ちょっとした社交場と言える。
「皆の顔を一度に覚えろと言われても困るでしょうから」
と言う帯刀さんの後ろには姿勢を正した侍女が数人。そして視界の端には疲れた様子でテーブルに突っ伏したまま宿題をしている黒スーツ達がいた。
こうしてまず紹介されるということは、つまり屋敷において要職にある人物なのだろう。立って控えているだけでも礼節のレベルが自分とは違う桁にあると感じる。
「では皆を代表して私が」
そう言い一歩踏み出したのはメイド服に身を包んだ侍女の一人。整然としていて、柔和な笑みを浮かべる美しい女性だった。
「水那上家秘書室付侍従長、神野芽依子と申します」
恭しく礼をした彼女が顔を上げ、慈しむような目をこちらへ向ける。
「あなた様のご事情は、私も含め皆が帯刀より伺っております。お困りの際はなんなりと仰ってください」
一同が同様に私に向けて笑顔を見せる。その言葉と笑顔は、少しばかり緊張し強張っていた私の神経を弛緩させていく。
どうやら人としてごくマトモな方々のようで安堵を覚えていた。
「気を付けて下さいね。彼女に逆らうことは即ちこの屋敷における死を意味します」
少し不安になった。
「帯刀主任、誤解を招くような言動は謹んで頂けますか?」
笑顔の矛先を変えた彼女のそれは、映像としては全く同じものであっても、内容は真逆の性質を持っていた。心持ち室温が下がったような気がする。
だが帯刀さんも流石というか、大げさに肩を竦めてそれを受け流していた。
「まあそれは冗談として、実質この屋敷における様々な雑務を統括しているのが彼女です。つまり衣食住は彼女の管理下にあると言っていいでしょう。彼らはよく罰を申し付けられて夕食抜きにされていますよ」
「適正な処置かと思われます。彼らは必要以上にお嬢様を甘やかすきらいがありますので」
帯刀さんは黒スーツ達に顔を向け哀れんでいた。奴らもとことん報われないな。
「そういえば」
気になっていたことがある。
「彼らはお嬢の護衛なんですよね?」
そのワリにはあまりにも頼りにならなすぎるので、実は違ったりするのかと思っていた。
「フフ……、いえ、間違いなく名目上は護衛ですよ。とは言ってもご想像の通り、戦闘技術においては素人同然ですが」
どういうことかと首をかしげる。
「彼らはお嬢様が商店街から拾ってきたのです。まるで犬猫を拾うように」
帯刀さんの言葉を補足するように、神野さんが呆れながらそう付け加えた。
商店街とは、水那上家が昔から懇意にしているご近所、水上商店街のことだという。随分と地域に密着した財閥だった。
「暇そうにしていたから仕事を与えてやったのだとか。皆が揃って商店街各店舗の跡取り息子なのですが、いい機会だから鍛えなおしてやって欲しいとご家族にも申されまして」
そう言って神野さんは、厳しい目で黒スーツ達を睨み付けていた。当の本人達はその視線を感じてか、決してこちらを見ようとはせず、小さくなって震えていた。
妙に若い連中だとは思ったがそういう事情か。お嬢は人を拾うクセがあるらしい。
「彼らとは今後も顔を合わせる機会が多いでしょう。仲良くしてやってください」
上司という立場もあってか、帯刀さんは神野さんほど黒スーツ達に厳しくなれないようだった。これ以上矛先が向かないよう、さりげなく会話を終わらせる方向に誘導している。
「わかりました」
苦労しているだろう奴らに対する同情と、少しの共感を籠めて返事をした。
「ともあれ、これからは共に水那上家に仕える仲間です。よろしくお願いいたします」
神野さんの後ろにかしづく侍女達が復唱し、揃って礼をする。ここまでされると何だかこそばゆいが、こちらも礼を返すことが先決だ。
「よろしくお願いします」
せいぜい黒スーツ達と同類に見られないよう頑張るとしよう。
そんな軽い紹介を済ませた後。
今は食後の一服といったところだ。帯刀さんと共に広々としたバルコニーで優雅な時間を過ごしている。もっとも私も彼も喫煙愛好者ではないようで、紫煙の代わりにコーヒーの薫りを燻らせている。
「お疲れ様でした、ネコさん」
どうでもいいがさん付けは止めて欲しい。私よりも帯刀さんの人格が疑われる。
「呼び捨てでいいですよ、どうせお嬢はそうするでしょう」
「そういうわけには参りません。ですが……、少々間が抜けているのも事実ですね」
考え込むようにして視線を上へと泳がせているが、あまり期待はしないでおこう。
「ネコ様……、ネコ殿……、ネコ君……、君がいいですね。ネコ君」
お嬢の相手をしすぎて精神を病んでいるんじゃないだろうか。もう好きにしてくれ。
それにしても静かだ。この豪勢に過ぎる邸宅を前にして虫達も遠慮しているのか、僅かに届く鈴の音が聞こえる程度。都会であることなど微塵も感じさせない美しい静寂だった。
後で聞いた話だが、どこから聞いたのかセミが実は食べられるということを知った幼少時代のお嬢が、庭を駈けずり回った末に大量のセミを捕獲したらしい。それを厨房に持ち寄ったところで神野さんに見つかり、こっぴどく叱られたそうな。それ以来虫を屋敷に近寄らせないよう厳重に対処したとのことだった。
「しかし物好きですね。私をお嬢の付き人にするなんて」
以前言っていた信頼がそこまでさせたのだろうか。詮索しないつもりだったが、気にならないと言えば嘘になる。
「理由はいくつかあります。一つは先ほど食事の時も述べたような理由から。もう一つはお嬢様のお傍を任せるに足る戦闘能力」
お嬢を叱れる人間だからとかなんとか。また要人の付き人としてある程度必要だろう強さという点もまあ理解できる。しかし、ただそれだけではいきなりやってきた不審人物を雇う理由としては弱すぎる。
「そして最後に、そうですね、こちらの方が不自然な理由かもしれません」
そう言って微笑みの色を濃くする彼の声は、心なしか弾んでいるようにも聞こえた。
「では……昔話をしましょうか。私とお嬢様が出会った時のことです」
随分といきなりで、会話の前後が繋がっていない。しかしあの船での夜に見せた、故郷を想うような横顔を見せる彼の邪魔をすることは、私にはできなかった。
「今から、八年前のことです──」




