第一章 名前と職業と(6)
ぼんやりと、疲れた体に眠気を誘うドライブの果て。
ここでようやく私は思い知ることとなった。
予想をしていなかったわけじゃない。むしろこうなる方が自然なのだろう。ただできれば違っていてくれという願望が、私を現実から遠ざけていた。
黒スーツに連れられ向かった先は都内某所、正確な住所は私には把握できない。
巨人の国に迷い込んだのではないかと疑うほど重厚かつ巨大な門が私達を迎え、地響きとともに開いたそこには──別世界が広がっていた。
門を潜ると広々とした石畳の道と、両脇を彩る花達が出迎える。ここまで大量だとむしろ恐ろしい。そのくらいの量だ。一面に敷き詰められたそれは愛でるというより逆に見つめられている気さえする。
正面にはベルサイユ宮殿を模したと思われる邸宅というかまさしく宮殿が見えるのだが、端が見当たらない。いや、遥か遠くに角が見えた。ここはルーブル美術館か? 一体どっちなんだと頭を悩ませるが、どちらもフランスだしまあいいかと無理矢理納得することにした。
いつの間にか私は海外に連れて行かれたのだろうか。パリまで高速道路一本で数時間、なんていうCMはなかったはずだ。
現在時刻九時、もう外はすっかり暗くなっている。だがそれを忘れさせるほどにこの一帯は眩しく輝いていた。窓から漏れる明かりだけで。
頭痛がする。今すぐ運転している黒スーツからハンドルを奪い取りUターンさせたい。
なぜなら邸宅の入り口らしき雄大な内門に笑顔の帯刀さんと、本当に、心の底から、あらん限りの意地の悪さを滲ませる笑みを浮かべた、青いチャイナドレス姿のお嬢が待ち受けていたからだ。お嬢が付けるとシルバーフォックスの毛皮もフェレットに見えてくるから不思議だ。
ああ、どうやらここは水那上邸宅らしい。否定する材料がない。
「やあ、またお逢いできましたね」
ええ、あなたもご壮健そうでなによりです。ですが──
「あっらあ、ヤダ。野良猫が紛れこんじゃったみたいねえホホホ」
早すぎる再会の上、コイツまでいるとは予想外でした。
「お嬢様……、待ち遠しいと言わんばかりだったじゃありませんか」
「ンななななななに言ってんのよ! そそそんなわけないじゃない!」
お嬢に同意するのは不愉快だが全くその通りだ。楽しみだったとすれば私をストレス解消の道具として使うためだろう。
「帯刀さん、もしかしてとは思うのですが……」
「ええ、本日はお嬢様のお客様として水那上家でおもてなしさせて頂きます」
「できればどこか別の──」パチン、と帯刀さんの指が鳴る。
何だ貴様ら! 私の周囲を黒スーツが取り囲み、神輿のように担ぎ始めた。
「お着替えをご用意致しました。さあ──」
諦めるしかないようだ。もう眩暈にも慣れた。今日が最後であることを祈りつつ、素直に彼らに身を任せることにした。
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案内されたのはドレスルーム、とはとても思えない展示場が如く服が居並ぶ部屋だった。この中から私のサイズに合う服を選ぶだけでも夜が明けそうだが、心配はいらないとばかりに黒スーツが持ってきたのは金の龍が刺繍された真っ赤な中華服、龍袍だった。
どうもこういう堅苦しいのは苦手なのだが致し方あるまい。もうしばらく辛抱することにしよう。言葉としておかしい気もするが、ようやく裸足からも解放される。それにあの戦争紛いの大乱闘を経てスーツは埃に塗れて皺が寄り、とてもこの屋敷を歩くには向いていない。
ここに来て何度目かの溜息を吐き、成されるがままに私は剥かれていった。
首元が苦しい。
ところでさっきは気付かなかったのだが、やはり邸内は物凄いことになっていた。陳腐な表現は気にしないで頂きたい。私はおそらくこのような場所は初めてなのだ。当たり前だが記憶を失う前もこういう生活には無縁だったのだろう、調度品の素晴らしさには目を見張るものがあるが、決して欲しいとは思わない。
そうこうしている内に案内された先には煌びやかな観音開きの扉。食事の用意ができているとのことで少しだけ楽しみだ。
開かれた扉の向こうは純白のクロスが敷かれた長テーブルと見事な彫金細工の燭台が置かれ、お嬢が上座にて待ち構えていた。
「薄汚い野良猫が少しはマシになったものね」
無視しよう。
お嬢とは反対側の席に案内されると思いきや、意外に近くへと案内され席を引かれる。
「無視すんなっ!」
「はしたないぞお嬢」
お嬢の声はともかく私の声が届かないからか。
全く、私の方がいくらかマシな品性を持っているように思えてくる。そんな自覚もなければ今後も持つ気はないが。
唸っているお嬢は放っておいて周囲を見渡す。広々とした食堂の内部はやはり値打ち物だろう調度品ばかりが置かれ、その総額を聞くのは愚問に思える。食器もまた然りだ。
しかし今気付いたが私はテーブルマナーなど披露できない。知識の中に多少はあるが、体で覚えていなければぎこちないものになるだろう。が、その心配は杞憂に終わることとなった。
「お待たせ致しました」
帯刀さんだ。しかし今日は調理する側ではないらしく、私の向かいの席へとついた。
「私は警護主任ですので、こうして屋敷でも同席を許されているのですよ」
なるほど、食事時まで気を張らなくてはならないとは大変だな。このようなお嬢様とは名ばかりのお転婆娘のために命を投げ出して仕事をする彼からは、後光が差しているように見えた。
「本日はお客様の嗜好に合わせた内容になっております。あまりマナー等は気にしないで、普通にお食事を楽しんでいって下さい」
ありがたい。そうして運ばれてきたのは中華料理の数々だった。確かにマナーはそれほど気にしなくても良いだろう。中華服を仕立てられた意図もわかった。
大皿に盛られた料理達をお団子頭のチャイナメイド達が給仕し、流石にここは黒スーツではないのだなと、既に見飽きた彼らを思い出していた。
「いっただっきまーす」
元気良く挨拶するのはいいんだが、深皿に盛られたスープを両手で持って啜るのはどうかと思う。マナーについては私への配慮と言うより、こいつのためなのではないだろうか。中々に面白い光景だが、犠牲となった海燕の巣が不憫で仕方ない。衣笠茸までもがラーメンのようにズルズルと流し込まれていく。
「さて、お食事をしながらで構いません。いくつか申し上げておきたいお話があります」
本題というわけか。と、そんな短いやりとりの間にお嬢はスープを飲み干していた。
「まず本日の件ですが申し訳ありません。あれほど本気で来るとは思っていなかったもので、対応が遅れました」
そのワリには随分と手回しが良かったようにも思えるが、黒スーツ達も言っていたように予想外の事態だったのだろう。
「部下より話を聞いたかもしれませんが、あれはお嬢様の兄君、蒼一郎様の手によるものです。その点についても事情があるのですが今は省かせて頂きます。そしてここからが本題なのですが……」
ニヤリと悪どい笑みを見せる。珍しく帯刀さんからの言葉を聞きたくないという嫌な予感がしていた。
「どうでしょう? しばらくお嬢様の付き人として水那上家に仕え──」
「──お断りします」
即時回答した。帯刀さんの言葉と同時にお嬢がおかわりしたスープを噴き出し、私と帯刀さんで大皿を避難させる。本当に財閥の令嬢なのか、未だに疑わしい。
「ウエッホッ! ゲホッ! どういうことよ帯刀!」
「お嬢様、この四ヶ月で付き人が一体何人代わったと思われますか?」
「う……、だ、だけど! なんでこいつなのよ! ていうか即答すんな!」
一体どっちなんだ。
まあ付き人がどういうものなのか想像は付く。つまりお嬢の我侭に一番近くで付き合わされる人間ということだろう。そんなのはまっぴら御免だ。
「ああ、残念です。恩は必ず返してくれると仰っていたのに……」
痛いところを突いてきた。確かに世話になったことはなったし、そして今も世話になり続けている。無一文である私には他に選択肢がないことも自覚している。だがしかしだ、そればかりは躊躇せざるをえない。
「ある程度の自由は保証します。三食昼寝付き。医師の診断も無料で付いていますし、報酬もこれだけお出ししましょう」
なんだか保険の勧誘のようになってきた。だが驚くべきことに帯刀さんから渡された紙面には丸が六つほど付いている。しかも年俸ではなく月額らしい。私の以前の生活がどれほどのものか知らないが、これほどではないだろう。正直心が揺さぶられる。
いや、いかん。これが金持ちの手なのだろう。私は心まで売り払うつもりはない。
「何よその破格の待遇ムグ! 大体昼寝が付いてどうやって付き人やるのよモゴ!」
そうだそうだ、言ってやれお嬢。今だけは味方してやる。だが食べながら喋るな。大体それは私が楽しみにしていた北京ダックだ。
「お嬢様の生活に合わせた条件です。と、このように自堕落な生活が約束されています」
帯刀さんもなかなか言うな。あのお嬢が黙ってしまった。
しかしここで一つの疑問が浮かぶ。
「帯刀さんが付き人ではないのですか?」
「今は付き人がいないため兼任していたようなものですが、私の本来の役目は警備護衛です。今日のような事態を招いたのもそのせいだと思っております」
なるほど。彼もやはり苦労しているのだな。だがそれとこれとは話が別だ。私の決意は決して揺らぐことはないだろう。この物語はここでお終いを迎え、これからは私が苦難を乗り越えて記憶を取り戻していく感動のストーリーが繰り広げられるに違いない。
「それとこれはあくまでオマケですが、お嬢様に対する体罰もある程度許されています」
「快く引き受けましょう」
「ブハッ! なななななによそれえっ! 聞いてないわよっ!」
私と帯刀さんでナプキンバリケードを張る。派手に炒飯を噴き飛ばす奴だ。
「お嬢様のためを思ってこそです」
「そうだぞお嬢」
「あんたは黙ってなさい!」
「彼はむやみやたらと暴力を振るうような輩ではありません。それは私が保証します。そしてこれまでの付き人は皆お嬢様に媚び諂う形だけの者ばかりでした」
「だからってなんで体罰なんて!」
「付き人とはお嬢様の世話をする者を指すわけではございません。それならば侍従で事足りております。お嬢様に付き従い、時には教育のためお叱りすることができる者こそが付き人たる資格を有しております。彼ならばその胆力も十分でしょう。なに、心配には及びませんよ。お尻ペンペンくらいなら小さい頃よくされていたではありませんか」
「今いくつだと思ってんのよ!」
お尻ペンペンはともかくとして、正直に言えばそもそも従うつもりがない。だが彼が都合良く解釈してくれているおかげでこのような高待遇にありつけたのだ。彼には感謝してもしきれない。
「というわけだお嬢。よろしく頼む」
「こ……、このぉ……」
「つきましては話がまとまったところで契約書にサインをお願いします」
先ほどの条件が記載された書類と万年筆が手渡される。ええ、喜んで。
ん? サイン?
万年筆を持ったまま手が止まる。重要な事を忘れていた。
「そういえば……、記憶喪失の件をすっかり忘れておりました……。さて、どうしたものでしょう」
「ほーうら、やっぱりこんな身元の怪しい奴なんか雇うべきじゃないのよ」
「では拇印でお願いします。朱肉はこちらに」
「グウッ……」
グウの音も出ないか。諦めろお嬢。なに、手加減はしてやるから安心してくれ。
「あんたなんかこれで十分よ!」
書類と万年筆をひったくられた。と、おもむろになにか書き込んでいる。
「あんたの名前は『ネコ』! もう決定!」
しかしサインは私が書かねば意味がないのではないだろうか。大体名前などどうでもいい。好きに呼べばいいさ。返事をするかは別だが。
「ネコ……、ネコ……、ふむ、良い名前ですね。気品があり、何者にも縛られない自由なところが良く表現できています。呼称も必要ですし丁度良いでしょう」
帯刀さんも少しズレたところがあるような気がしてきた。
「あんたみたいな言うこと聞かない勝手な奴はペット扱いで十分よ!」
まあ言わせておこう。大体その言葉にピッタリ該当するのはお嬢だ。私はお嬢以外の頼みなら、できる範囲内でだが大人しく従うつもりだ。
「もういいっ! ごちそうさまっ!」
お嬢は手になにかを握り締めズカズカと部屋を後にする。
「フフ……、お嬢様をよろしくお願いします」
この笑顔には適わない。心底嬉しいといった想いが伝わってくる。
「クビにならない程度には」
これから先が思いやられるが、とりあえず一度くらいは言うことを聞いてやってもいいかもしれない、と私に名を与えたお嬢様に幾何かの哀れみを抱きつつ、北京ダックの皿へと手を伸ばした。
私があの船で目覚めてから抱き続けた疑問はここに解消されることとなる。あくまで仮初だが、とりあえずその疑問に答えておくとしよう。
ここは日本で、我輩はネコである。
第一章 終




